From Chuhei
100周年の甲陽園を歩く
西宮には「園」のつく地名が7つある。今はいずれの場所も住宅地になっているが、
最初は遊園地や、果樹園だったところもあった。またそれぞれの「園」が開かれた
時期についても、その歴史に応じて違っている。
甲子園は大正13年、今の甲子園球場が完成したときの甲子年(きのえねとし)に
ちなんで出来た地名である。香櫨園は明治40年香野氏と櫨山氏により造られた遊
園地名だった。苦楽園は明治44年、別荘地として開発された地名。甲東園は明治
33年、地元神呪町でそう名付けられた果樹園だった。昭和園は昭和2年、当初日
本ペイントが住宅地として開発したところ。甲風園は昭和5年、阪急電鉄が開発し
た住宅地だった。
甲陽園は大正7年、その時設立された甲陽土地株式会社により、遊園地、温泉、宿
泊施設、映画撮影所などが作られたのが、その始まりである。そして、平成30年
が100周年の年であった。といっても、今はそれらの施設はすべてがなくなり、
その跡地は住宅やマンションになっている。
その平成30年も終わりに近づいた12月23日。私は毎日のウオーキングの足を
甲陽園に向けた。香櫨園の私の家から甲陽園へは、まず甲山から流れ下っている夙
川をさかのぼれば良い。10時29分家を出て、33分阪神電車香櫨園駅を通過し、
松林の続く夙川左岸の堤防上を歩いた。10時44分阪急電車夙川駅のガード下を
通過、こうろぎ橋東端から左岸の堤防下遊歩道を進む。10時58分阪急苦楽園口
の東の橋の東端から堤防上の道に出て、やがて阪急甲陽線に沿って右に曲がり、大
社中学正門前を過ぎ、満池谷霊園北入口の前にある甲陽線の踏切を11時9分渡る。
ここからは甲山が斜め右に迫り、甲陽線の東には、甲陽大池を眺めることができる。
そして11時15分、阪急甲陽園駅に着いた。家から46分かかった。
駅前には食品スーパー阪急オアシスがあるので、しばらく休憩することにして2階
のコーヒー店の「ヒロ」でバジルチキンサンドとオーガニックコーヒで昼食とした。
12時5分、阪急甲陽園前出発。まずは甲陽園設立時代の跡地を推測して廻ってみ
ることにした。西宮市のホームページ「甲陽園の開発」の写真と文によると、大正
13年阪急の甲陽線が開通して甲陽園駅が出来た頃、甲陽園駅のすぐ北に並んで、
三角屋根の甲陽公園の西門があり、その門を入るとその左側に白亜の殿堂といわれ
た甲陽劇場があった。その劇場の中は右に少女歌舞劇場、左に映画(活動写真)劇
場となっていた。今は甲陽園駅だけは変わらないが、駅のすぐ北にビゴの店が入っ
ている商業ビルがあるだけで、白亜の殿堂の面影らしきものはどこにもない。そし
て北東への少し先は、斜面となり、その先は高台となっていてそこに、今はマンシ
ョンが建ち、住宅がぎっしり並んでいる、が、そこは甲陽遊園地だったところであ
る。演芸館がありエンタツ・アチャコの漫才などもやっていたと伝えられている。
当時その前にはブランコや滑り台があり、回転木馬のように、回りながら上下する
サークリングという乗り物もあったということである。
私は阪急電車の線路に沿って南東に少し歩いて道の曲がりに従って自然に、北東に
進むと、左側に甲陽幼稚園が見えた。昔、この幼稚園の場所を中心にして、映画の
撮影所甲陽映画があった。が、大正12年、大阪の保険会社が買収して東亜キネマ
甲陽撮影所とした。そこには三角屋根の総ガラス張りのスタジオがあり、配電室、
現像所、衣装部、写真部などがそろい、別に3階建ての事務所もあった。そして徳
永監督による「愛の秘密」などの映画を作ったが、早くも大正13年には、あの有
名なレジェントの映画監督、牧野省三設立の牧野映画製作所と合併する。そして
所長は途中で牧野氏から『ああ玉杯に花受けて』などの作品で有名な佐藤紅緑氏
(サトウハチロー・佐藤愛子の父)に代わったが、大正13年7月から、昭和2年
7月の間に137本の映画が作られたという記録が残っている。私はこの記録こそ
当時関東大震災のため関東の撮影所は使えなくなったので、多くの無声映画はここ
で作られることになった結果に違いない、と思っている。しかしながらその後、世
界恐慌のあおりを受け、この撮影所は閉鎖されてしまうのである。
私は甲陽幼稚園からさらに南東に道を歩いてゆくと、甲陽園小学校の正門があった。
昔の地図によると、昔この小学校の場所は一般の甲陽運動場となっている。学校の
南側の道を回りこんで進んで行くと甲陽大池を見渡せる池畔の公園に出た。この池
の周りはアップダウンがあるが、池を回れるようにきれいに整備された道があった。
この池はやはり甲陽園を象徴するものの一つだ。この池があったからこそ、その北
側に遊園地が開発されたのであろう、と私は思った。
池の北側には洋風の大きな邸宅があり、その囲みを回りこむように進んで、狭い道
の坂を下り、小川沿いの道に出た。この道は廣田神社の横を通るバス道の、新甲陽
口交差点から西へ阪急甲陽園駅方向に向かうゆるい坂道である。この坂道を西北に
上って行くと、西宮市市民局の甲陽園市民館があり、そこから西へ進むと、再び甲
陽幼稚園のある角に出た。その道を西北に進むと、日商岩井の甲陽園マンション
の大きな建物がある。実はこの場所に平成28年までカフェーパウリスタの建物が
建っていたのだ。
カフェーパウリスタはブラジル移民の父といわれた水野龍氏が始めた全国展開の
ブラジルコーヒの店で、今でも東京の銀座店などは有名であり、甲陽公園の開場
当初から建てられた建物として、最後まで残っていたのであった。それは、私も
覚えているが、3階建てのハイカラな三角屋根の建物だった。当初は地下1階に
ビリアード場があり、1階がカフエ、その一角にタバコ屋もあり、2階以上が甲
陽土地会社の事務所だった。昭和22年、西宮の高橋家に買い取られ以後個人の
家屋として使われていた。
昭和30年12月15日、西宮市の文化サロンとして、西宮歴史研究家の小西巧
治氏とこの高橋家の次女だった横山豊有さんとの対談が夙川公民館で行われたの
で私も聞きに行った。横山さんの話によると、子供の頃から、玄関から靴のまま
入り、部屋も20位あり、トイレも至る所にあるパウリスタとして使われていた
家には住みながら、大変違和感があったようである。また天皇陛下が甲陽園の料
亭旅館「播半」に来られたときには、日の丸の旗を振って出迎えたこともあると
語られていた。横山さんは結婚し家庭を持ち、YWCAで外国人に日本語を教え
るための勉強をしておられたが、ある時、千日回峰の1日体験に参加し、その後、
比叡山の修行に通うようになり、さらに修行を重ね、僧侶の資格を取られた。今
は甲陽園のバス通りの目神山バス駅近くに、天台宗無障金剛院を作られ、そこの
住職である。
私が再び甲陽園駅の近くのバス通りに戻ってきたのは12時35分であった。今
度はこのバス通りを北東に新甲陽方向に歩いて行くことにした。右側に有名なケ
ーキ店ツマガリ甲陽園本店があり、なんとこの日は大勢の人がケーキを買うため
並んで、警備員が通行を整理していた。ツマガリのケーキ工房は甲陽園の街のあ
ちこちに分散している。先の横山さんの話によると、ツマガリの社長も比叡山に
は造詣が深く、堂塔が分散しながら一つにまとまっている比叡山延暦寺の方式を
取り入れているとのことだった。
さらに歩いて甲陽園本庄児童遊園があるが、ここから西には甲陽園西山公園に向
かう広い坂道があり、西山公園からさらに西へ急な石段を登ったところに、アン
ネのバラの教会がある。ナチスドイツによる政策の犠牲となったユダヤ人の少女
アンネ・フランクを記念して建てられた、世界でただ一つの教会で、アンネの父
オットーから送られてきた50株のバラの苗が育ち、美しいバラの花を前庭に咲
かせる。もう13前になるが、私は坂を登ってバラの花に囲まれたアンネの像の
写真を撮り、教会のなかにある、アンネ・フランク資料館を見学した。アンネの
遺品の靴ベラ、万年筆、キーホルダー、自分の死期が近いことを悟って託した写
真、などを見て心を痛めた。そして、エッセー『アンネのバラの教会』を書いた
ことがあることを、思い出した。
私はこの日は西の坂を登らずに、横山さんの無障金剛院の前を通りカーブを回る
と、アルス甲陽園というマンションの前まで来た。ここは「つるや」という高級
料亭が平成7年頃まであったところである。ここは高台になっていて、先の大戦
の末期、この周辺に海軍の地下壕が掘られていた場所であった。
昭和20年1月、海軍大阪警備府は、「ゼロ戦」に変わる最新鋭戦闘機「紫電改」
を作っていた川西航空機の疎開を目的に、本格的に地下壕の工事に着手した。工
事は朝鮮人労働者を含む1200人の急な突貫工事であったといわれる。「つる
や」のあった高台を中心に高台の下に2号トンネル、東側の崖下に3号トンネル、
北側の山の下に4号トンネルが掘られていたのである。他、1号トンネルは海軍
の通信隊用として、甲陽園駅の真向かい,交番やタクシー会社のある裏側、小川
を隔てた崖下に掘られた。さらに甲山に向かう大師道の途中、山王東公園の下の
場所に5号トンネルが、そこから道を上がって料亭「播半」のあった場所の東側
に6号、そのさらに東の山の下に7号があった。私はこれを知った時、戦争末期
の海軍は本土決戦に備えて、甲陽園に一大地下要塞を築こうとしていたのでは、
なかったのではないか、と思った。
平成15年8月30日、私はコープこうべが「平和のつどい」として企画した地
下壕の見学会に参加した。在日の徐さんが案内役だった。最初は甲陽園駅真向か
い裏の1号トンネルに行った。入口はすでに埋もれていて、中へは入れなかった。
徐さんによると、7号まであったトンネルの内、今残っているのは4号だけと
いうことだった。その4号は山王町2丁目の民家の狭い路地を進んだ先にあった。
高さ約2メートル、巾2メートルのコンクリートのアーチの先は素掘りの岩肌が
むき出したままだった、懐中電灯に照らされたところに「朝鮮国独立」「緑の春」
という文字が刻まれていた。私はこのあとで『甲陽園の地下壕」というエッセー
を書いた。
今はもう入ることが出来ない。そして、どの民家の中から入ったのかもわからな
かった。私はそこからバス道を東へ進み、大師道と書かれた石標を曲がり、甲山
へのバス道を登った。昔からこの道は変わっていない。しかし東側の料亭「播半」
のあったところは、西宮エスリード甲陽園という大きな3棟のマンションになっ
ていた。「このあたりから見る風景は全く変わってしまった」と思いながら、少
し引き返して、西へ山王町住宅地への石段を登り、山王東公園へ行った。ここは
五号トンネルの上部に当たり、西宮市の建てた「第二次大戦時旧跡甲陽園地下壕
跡地」という小さな碑がある。前に来た時より周りの木が育って、碑がより小さ
く見えた。時刻は13時10分。ここを今日のゴールとすることにした。
甲山の山麓、甲陽園と名付けられて100年。こうして回ってみると、色々なこ
とが思い浮かぶ、多くの人が甲陽園に関わり去っていった。映画の撮影に夢を抱
いた人たち、遊園地に新天地を想った人たちはもういないだろう。地下壕要塞を
死に場所と思った人たち、壕掘りの重労働に絶望を感じた人たちは、もう生き残
っている人は少ないだろう。今は安らかで静かな住宅地である。甲陽園はこれで
よいのだ。余計なものはいらない、これでよいのだ。私は公園のベンチに座って、
想いを巡らせていた。
帰りは、山王町の住宅の中の坂を下り、甲陽園駅から線路の北側を歩いて、夙川
の川原に出て、夙川を下って香櫨園の家に向かった。
(平成31年1月12日)
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宙 平
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