From Chuhei
 
津波が襲い、陸に上陸すするときは怪物のような黒い波になります。
津波ではありませんが、私も黒い波に襲われたことがあります。
写真は昭和9年9月21日、第一次室戸台風の暴雨風と高潮による
黒い波が大阪湾を直撃したときのもので、場所は神崎川河口の外島
保養院の惨状です。東海道線の急行列車も風のため転覆しました。
 
  
 
西宮の防潮堤は高さ2・9bの津波を想定して作られていますが、東北関東大震災の
津波は岩手宮古市の日本一完璧といわれた、田老地区の高さ10b総延長2・4`
の防潮堤を超え、破壊しました。これは明治29年、及び昭和8年の三陸津波の大被
害の経験から作られたものでした。
 
   
西宮の防潮堤
 
  
 
宮古田老地区の防潮堤と、下は津波で破壊されたその防潮堤。  
 
 
 
        黒い波
 
 
 東日本関東大震災を起こした地震の規模はマグニチュード9。そして破壊された海底のプレート
(岩盤)の大きさは南北500キロ、東西200キロとみられている。

 

 これにより、岩手から福島にかけての250キロにわたる海岸に、高さ10メートル以上、場所

によっては20メートルを大きく超える津波が押し寄せた。

 

 私はテレビの映像で津波を眺めていて、身震いが止まらなかった。遠く山のようになって押し寄

せる津波は、海上では白い波を巻き立てているが、海岸の防波堤にぶっかって、乗り越えて進むと

きは、真っ黒な波となり、大暴れする怪物になる。

 

 実は私の身体の中に、幼い時に体験した黒い波の記憶がしみつくように残っていて、自然と身震

いを起こさせるのである。

 

 黒い波が渦巻きながら家におしよせ、玄関の戸口を乗り越え土間から床上までをたちまち浸水さ

せたのは、私の3歳の時であった。

 

 昭和9年9月21日。世界記録的な規模といわれた室戸台風が、阪神間に上陸し折からの満潮と

重なって高潮となり、波が西宮市今津の町を襲ったのである。

 

 その時私の家は浜に近い、西宮市今津巽町にあった。父は会社に、姉は台風が来そうだというの

で祖父に付き添われて小学校に行っていて、私と母の二人が家にいた。

 

 風が激しくなり、縁側の向こうの雨戸が弓なりにしなんで、母が必死で雨戸を抑えていたが、紙

のように飛び去って家の中を暴風雨が吹き抜けた。その時私は床上に迫ってくる黒い波を見たので

ある。

 

 母は私をおぶって、裸足のまま外に逃げ浜の方から押し寄せる濁水が腰の高さまで迫ってくる中

を懸命に走った。その姿は私の脳裏に焼きついている。今考えると母が28歳の時であった。

 

 母は阪神電車の久寿川駅まで逃げた。水が引いた後も真っ黒な泥が残り、流れてきた漁船が町の

中に横たわっていた。

 

 この台風は大阪の四天王寺の五重の塔を倒し、東海道線の急行列車を転覆させた。阪神間の高潮

は高さ4メートルを超え未曽有の災害とされた。そしてこの未曽有という言葉は、私も被災した阪

神大震災のときも言われた。高速道路が横倒しになるなどは、想定外の大惨事と言われた。

 

 今回の地震・津波・それによって起こった原子力発電所の災害も、想定外・未曽有、また、千年

に一度の大災害とされている。それではこれからしばらくは起こらないかといえば、そうではない。

未曽有・想定外の災害がそう遠くない先に起こる可能性がある。

 

 例えば、南海トラフを中心とした巨大地震である。ここは四国の南にある深い海溝で活発な地震

発生源となっている。この長い海溝にフィリッピン海プレートがユーラシヤプレートに衝突して沈

み込んでいるため、東海地震、東南海地震、南海地震などの大きな地震を起こしている。しかもこ

れらの地震は必ず周期的に起こる。そして必ず津波を伴う。その上、いつ地震が起こってもおかし

くない時期に来ている。

 

 私は今回の地震の翌朝、香櫨園の防潮堤にいた。浜に新しく設置された西宮市防災の放送塔から

は「津波注意報が発令されています。海岸に近づかないでください」と繰り返し警告していた。そ

れにもかかわらず、海は静かで、子供が海辺で遊んでいた。

 

《この浜に、今テレビで見たばかりのあの真っ黒な大津波が押寄せることなど、想像もつかない。

しかし想定外、未曽有のことが起こるからこそ、それが大災害になるのかもしれない》

 

 私は自分が立っている香櫨園の防潮堤を黒い波が押し寄せ乗り越える様子を想像して再び身震い

した。

 

 防潮堤といえば、日本一といわれた岩手の宮古市田老地区の高さ10メートル総延長2・4`の

万里の長城のような津波対策防潮堤も、今回は黒い波が乗り越え破壊された。宮古市は過去の津波

の経験からこの防潮堤を作り津波防災都市を宣言していたが、その想定を超えた。

 

 西宮市の防潮堤は、津波の高さ2・9bを想定して作られているから紀伊水道沖の南海トラフで

マグネチュード9の地震による津波が起きて、それが紀淡海峡に直進して大阪湾に突入したとすれ

ば、役に立たないことは明らかである。

 

 いたずらに不安を煽るのは良くないが、日本の地震と津波の対策は今までは、マグネチュード9

の地震を全く想定して立てられていないことは、今となるとやはり問題であろう。

 

 防潮堤から夙川を北に向かうと甲山が川の上流正面に見える。

 

《そうだ! あの山を目指して黒い波から逃げよう。山まで行かずとも、甲山からの尾根が甲陽園・

大社町・城山・西田公園とのびて、高台となっている。香櫨園の自宅からなら約20分で尾根の先

には行けるだろう。津波の前に起こる地震に無事だった場合の話だが……》

 

 こんなことを考えながら、東に堤を下り川添公園の横を通った。阪神大震災の後、この公園では

支援物資の配給かおこなわれた。長い列が野球グランドを取り巻いた。私も並んだ。あの時はこの

周辺は戦場のようだった。今黒い波に襲われた被災地は戦争そのものであろう。医療の場も野戦病

院であろう。

 

 その後ここにはぎっしりと仮設住宅が建てられた。私は当時市からの伝達文書などを頼まれて一

軒ごとに配ったことがある。公園の近くの川田さんのお宅は井戸水がポンプでくみ上げることが出

来て、被災者に提供されていた。水道が出ない間私もずいぶんお世話になった。

 

 さて、昭和9年の室戸台風で床上浸水した我が家では、その後どうして暮したのだったろうか? 

当時は今のような避難所などは無かったように思う。渦巻く黒い波の印象ばかりが強く残って、家

に帰り着いてからが記憶に無いのである。父も母も姉もすでに故人で聞くことも出来ない。ただ、

しばらくして同じ西宮市今津社前町の蔵のある家に一家あげて引き越した以後のことは良く覚えて

いる。しかし、この家も11年後、西宮の住宅密集地を対象にした、油脂焼夷弾の大空襲で、一面

の焼け野原の一部となってしまい、私たち一家は西宮を去るのである。 

 

 そして、私が西宮に戻ってきたのは平成4年の事である。が、幼い時に体験した、押し寄せる黒

い波の恐怖はどこにいても消えることはなかった。

 

                        (平成23年3月21日)

 
 
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:★:cosmic harmony
      宙 平
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