From Chuhei
 
西宮市今津小学校の六角堂は、今は西宮の有名な名所となって学校の
南表に移築されていますが、私の在校していた時は、奥まった校長室の
隣の庭にありました。
 
  
 
昭和12年の阪神電車久寿川駅南側の地図です。今津小学校、右の端に甲陽中学
(今のノボテルホテルとダイエー甲子園店)があります。昔の福応神社、常源寺もあり、
、赤丸のところに私の家がありました。
 
 
 
昭和32年の今津小学校入学式の写真ですが、左側校舎で私は4年から6年生まで
学んでいました。この写真は卒業後13年たっていますが、まだ在校時の雰囲気が
あり、校歌もこの頃までは、変わっていませんでした。(写真は今津いまむかし物語より)
ただ戦時中は、この運動場の朝礼から一斉に東を向いて、皇居礼拝を毎日したものです。
 
 
 
 
 
 

 傘寿のラスト国民学校同窓会 

 

 

「みんな傘寿になったら、もうそろそろ同窓会もやめにするか。世話役がたいへんや」

 

 芦屋の竹園で開かれた昨年の国民学校の同窓会での増田君の発言に、私も同調して

 

「賛成や! 来年は今から11月5日(土)に日を決めて、その日を最後の同窓会とし

て絶対皆集まるようにしよう」

 

 私もそのときは力を込めていった。

 

 ところが今年になって、11月5日に信州松本で、全日本オリエンテーリングリレー

選手権大会が開かれるので、参加するかどうかの通知が来た。私の出るクラスは年齢で

は男子65歳以上、女子50歳以上のスーパーベテラン(XV)クラスである。属して

いるのは大阪のクラブなので、大阪府の代表選手となる。リレーは3人揃って、そのク

ラス代表チームは成立する。

 

《何ぼ何でも、今年は80歳の私が出なくても、XVクラスの正規の代表には大阪の競

技登録者で65歳になる人が3人もいるので、出てくれるだろう。正規でなければ後で

キャンセルもできる》

 

 と思って、「正規でなく、一般のクラス。但し、出ることが出来れば」と返事した。

これがいけなかった。

 

 リレーメンバーが発表になってみれば、、私の名前がXVクラスの正規の代表チーム

に入っているではないか! 監督の奥村さんに聞いてみたら「65歳になった人に強く

出場交渉したが、一人は重要な仕事で海外へ、もう一人もどうしても出られない。しか

し今年は65歳になった前田さんが加わって、辻村さんと貴方の3人でXVクラスが組

めたことは、本当によかった。頑張りましょう!」

 

 すでにメンバーは正式に確定されていた。私がキャンセルしたら、リレーが成り立た

なくなる。

 

《ラストの同窓会なのに……。どうするか?》

 

 遂に私は同窓会の会長をしている平内君に手紙を書いて、事情を説明し出席できない

事を詫びて、欠席することにした。

 

 ところが、平内君からの手紙で、「一週間、同窓会の日を延ばした。それで出席する

のであればみんなに連絡する」といってきた。

 

《日を延ばせば、困る人も出るのでは?》

 

 と思ったが、もう会場には延期を連絡している様子であったので、勿論延期であれ

ば出席すると返事した。ところが正式に平内君から全員に出した延期の理由が「幹事

の(私の名前を入れて)その都合により」とあったので、埼玉県在住の黒岩君から早

速文句が来た。

 

「最後の同窓会というので、宿泊と日取りの段取りをしていたのに、困るやないか? 

千葉県の伊勢君も文句を言っていたぞ!」

 

 それでも、延ばした日を元に戻すわけにはいかないので、私は松本アルプス公園で

のリレーに出発し、山中で悪戦苦闘しながら何とか完走、大阪府のXVチームは13

チームの中で6位になった。

 

 同窓会当日の11月12日、私は芦屋竹園の会場入り口で会費を集めながら、こ

の日集まった14名の一人一人に、私のため延期になったことを謝っていた。この

日になると、さすがに誰も文句を言うものはいなかった。

 

 明治6年創立の西宮市今津小学校。六角堂で有名である。米英と開戦した昭和16

年国民学校と呼び名が変わった。戦争の真最中だったが、私達昭和19年3月の卒業

生は、男子3学級122名、女子3学級153名、合計275名もいた。ところが昭

和20年8月5日の西宮の大空襲で、学校の校区にある住宅は殆どが焼失して一面の

焼野原、同窓生の多くが消息不明となってしまった。

 

 昭和23年に平内君や中條さん(旧姓渡辺さん)の呼びかけで、集まったのは僅か

18人だった。が、恩師はその時6学級6名とも集まって頂いた。そして、その翌年

の昭和24年には35名が集まった。皆まだ19歳の若者だった。その後今津に西宮

インターチェンジが出来、高速道路建設による立ち退き、そして阪神大震災と、みん

な散り散りになりながらも、よく今日まで同窓会が続いたものである

 

 一時途切れた時もあったが、平成になって大体続いて開かれるようになった。平

成9年以降は毎年続けられてきた。しかし、恩師もみんな亡くなり、同窓生も消息

が途絶える人が増えてきた。

 

 この日は最後の同窓会というので、足が悪くなった女性の村田さん(旧姓北村さん)

も、車いすで参加してくれた。車いすは息子さんが押して来ていた。そして、「こう

して同窓会に来ると、戦時中、阪神電車久寿川駅の南側の商店街の真ん中に、日本の

軍用機が落ちて大惨事となったことを思い出す」といった。

 

 これは、私が以前にこのことを書いた『今津の街に飛行機が落ちてきた』という

エッセーのコピーしたものを同窓会で皆に配ったことがあるからである。彼女は、

この事件を実際に見ていて、余程その印象が深かったのか、丁寧な感想の手紙を

その時の同窓会のあとで、私に送ってきてくれたことがあった。

 

 この日突然、日取りを延期したために出席出来なくなったと、会長平内君に苦情を言

ってきていた中山君がボウイスカウトの制服を着て現れた。彼は地区の団の主要な役員

で、今日はその大事な会合の途中を一時抜け出してきたと言う。勿論、同窓会での飲食

の時間は無く彼は以前から写真の担当だったので、直ぐに皆で写真を撮り、配る段取り

をして、「最後の同窓会にこういう形でも出られて、喜んでいる」と話し出し、西宮の

消防署長として活動してきたが、消防という分野でも、色々な法律や取扱いの知識や資

格が必要で、本当に苦労して今まで勉強してきたことを語って、すぐに帰った。実は彼

は言わなかったが、今年の秋の叙勲で、長年の消防活動の功績により褒章を受けたらし

いのである。同窓会を延期しなければ、じっくりとお祝いが出来たのだと思うと、私の

心は痛んだ。

 

 同窓生の女性の中には、夫を2か月前に亡くしたばかりの人、また傘寿以降も一人で

何とか生き抜いていく気持ちを熱く語った人もいた。

 

 男性も身体の衰えを訴えながらも、まだ現役で役職についている人もいて、何とか命

の尽きるまで、ピンピンと生きたいという気持ちを語った人が多かった。

 

終わりの方になって山田君が

「皆最後や、最後やとあまり言うなよ! 淋しいやないか? また会うことも考えよう

や?」 と発言した。

 

「これで一応、正式の同窓会は終わりにはするが、皆元気やったら、4年か5年後にま

た会合の連絡をすることが、あるかもしれない。その時は皆出席してください」と会長

の平内君が答えた。

 

「さあ! いつも、1番を歌って終わりやが、今日は校歌を3番まで歌うぞ!」これは

私が音頭を取ることにして、皆で歌って散会した。

  

  北に連なる 六甲の

  峰にあしたの 星照りて

  聖き啓示を 告ぐるとき

  若き我等が 両の目に

  希望の光 もゆるなり

  進め 進め 今津の小国民

 

 この歌は今では小学校で歌われてはいない。

 

「同窓会 卒壽迎え ハッピーエンド」

 

 後で、平内君から写真を張り付けて送ってきた葉書にはこれだけが書いてあった。

 

 

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:★:cosmic harmony
      宙 平
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                     (平成23年11月29日)