ガマの油売り口上
昭和20年春、中学2年生の私は学徒勤労動員令によって、阪神電車尼崎工場電工小隊で働いていた。
ある時、中学4年(当時中学は5年制)の上級生数名が私たち2年生十数名を連れ出し、阪神電車武庫川
線の横の土手に座らせた。当時この武庫川線は海軍の新鋭戦闘機を作っていた川西航空機工場で働く人
たちや資材を運ぶため、軍の要請により突貫工事で新しく完成したばかりの軍需路線だった。一人の上
級生が大声で演説した。
「この路線は我々の勤労学徒隊が土を固め、砂利を運び、枕木を並べて完成させた正に学徒の汗のしみ
ついているところである。今や戦局は危急のときであるが、我々はどんなことがあっても、線路を守り
電車を動かし続けねばならない!」
そのあと、武庫川の河原に全員輪になって座った。当時の中学校は、教練はもとより、服装であれ、
殴って鍛える方針であれ、すべて軍隊と同じであったから、こんな時は声張り上げて軍歌を歌うのが普
通であった。
ところが、この時は違った。上級生たちはさっきの演説とはうって変わって子供っぽい歌を歌い始めた。
ぶんぶんうなる飛行機は トンボの親ではないわいな
それがなにより証拠には 竿の先にはとまれない
また一人の上級生が棒切れを拾ってきて、それを刀に見立て、「さぁさぁお立ち合い!お立ち合い。
御用とお急ぎの無い方は、私の前によって、ゆっくりと聞いておいで……」と、ガマの油売りの口上を
はじめた。
「さーて、手前取り出だしたるは、四六のガマ! 四六・五六はどこで見分けるか? 前足が四本、後
ろ足が六本。これを名付けて四六のガマ! このガマの住むはこれよりはるーか北、筑波山の麓におん
ばこという露草を食らって育つ。このガマの油をとるには四面に鏡を張り、その下に金網を敷きそこに
ガマを追い込む。ガマは己の醜き姿が鏡に映るを見て、己が己に己で驚き、たーらりたーらりと脂汗を
流す。それを金網の下にすきとり集め、三・七、二十一日の間、柳の小枝にてとーろりとーろりとよく
煮詰めて出来上がったのがこの油だ。赤い辰砂に椰子の油、テレメンテーナ・マンテーカなる南蛮の妙
薬を練り合わせてさらに作り上げる。
ガマの油の効能は切り傷、ひび、やけど、インキンタムシに、肛門の病。まだある。大の男が七転八
倒する虫歯の痛みを止める。
まだある! 刃物の切れ味を止める。手前とりい出したるこの刀。元が切れて中が切れない、中が切
れて元が切れないという鈍刀とは物が違う。抜けば玉散る氷の刃!。
紙を切ってごらんにいれよう、一枚の紙が二枚、二枚が四枚、四枚が八枚、八枚は十六枚、十六枚は
三十と二枚、三〇と二枚は、六〇と四枚、六〇と四枚は1束と二十八枚。えい! ぱっと散らせば比良
の暮雪は雪降りの形とございお立ち合い!。
このようによく切れる刀も手前のガマの油を塗るときは、刃物の切れ味をぴたりと止める。押しても
切れない、たたいても切れない。
だが、刀を鈍らにするだけの薬など売らないよ! この紙をもちまして、きれいにふき取りますと、
ちょつと触っただけでも、赤い血が出るねお立ち合い!。しかし心配はいらないよ。この薬を傷口にぐ
っと塗りますれば、ぴたりと止まる! 止まらなときはもう少しつける。まだ止まらない! 誰かお立
ち合いの中にメンソレータムを持っておられる方はおらぬか?」
みんな拍手した。私には、生まれて初めて聞いた快い口調の響きだった。祭りも、夜店もなく、大道
芸など全く出来なくなってしまっていた戦争末期のこの時代、どこか懐かしさを漂わせたこの「口上」
にひきこまれた。そして即座に口上の流れと、言葉は殆ど覚えてしまっていた。
戦争が終わり、やがて世の中がやっとおち着き始めた頃、大学の運動部のコンパで雰囲気を盛り上げ
るために、何かかくし芸をやらねばならなくなった時があった。
酒の勢いもありはじめて、この中学時代に覚えているはずの「ガマの油売りの口上」をやってみた。
なんと「さぁさぁお立ち合い!」からはじめて、「メンソレータムを持っておられる方はおらぬか」ま
で続けて口が回って語り続けることが出来た。しかしその時は効能のところなどは、飛ばしていたり、
間違ったことを言っていたかもしれない。
会社へ入って、酒の席などで、なにか一芸を披露しなければならないときは、やむをえず、この口上
をやることにした。それまで多少は自分でも研究していて最初の方に、
「遠目山越え笠の内。聞かざる時は、物の出方、善悪、白黒がトーンと分らない。山寺の鐘ゴォーンと
鳴るといえど、童子来たって鐘に撞木をあてざれば、鐘の音色の良し悪しが分らない!」
と入れることにした。この「口上」は何故か次第に有名になっていって、酒の席だけでなく大会場で
の新年会の後の余興として舞台の上でやらされることになった。誰かが鉢巻きや襷や刀を持ってきて私
に渡し、紙は切断用と、まき散らし用と両方用意してきた。机の後ろには金屏風が立てかけてあり、そ
の前で大勢の観衆を相手に「さーやれ!」というわけである。
その頃は今と違って、大道芸用の少しドスの利いた大きな声が出たので、それで通してなんとかやれ
た。その後も、誰がどう伝えたのか、地域の商工業者の集まりでも「口上」をやってくれと依頼される
羽目になった。
私のは素人芸だから、筑波山のガマが、伊吹山のガマになっていたり、「メンソレータムを持って
おらぬか?」で落ちをつけるのも、正調の大道芸ではないのは分っていたが、いまさら正調を勉強する
余裕もないのでこの時も私の覚えている流儀でやった。緊張はしたが、間違いもなく「口上」の声を響
かせて拍手喝采を受けることが出来た。
その後、「口上」は50歳の半ば頃まで、かくし芸として時々酒の宴などで披露していたが、次第に
大きな声が出にくくなり、いつしかやらなくなってしまっていた。しかし何時かは正調と言われる本物
の「口上」をじっくり聞いてみたいという思いは常にあった。
その機会は私が80歳になる今年になってやっとやってきた。滋賀県大津市の待(まつ)文磨呂とい
う人が、数年前に伊吹山の伝統芸能として「伊吹山ガマ口上保存会」を立ち上げておられるのを、イン
ターネットで知ったからである。私は早速この待さんに電話をしてみた。すると、今年の8月7日に滋
賀県渡岸寺観音堂周辺および高月町内で「ふるさとまつり」が行われるが、その時イベントとして、伊
吹山の正調のガマの油売り口上を披露するから、ぜひお出で下さいということであった。私はその日、
朝早く行くことに決めた。
米原から敦賀行きの普通列車の窓の東側にガマがいたという伊吹山がくっきりと見えて来た。が、そ
の列車は「まつり」へ行く人で満員になり風景を楽しむ余裕など無かった。長浜駅に着いても降りる人
は少なかった。そして高月駅で大半の人が一斉に降りた。この日だけは駅から巡回バスが朝から夕方ま
で30分おきに3コースに分かれて、観音堂や薬師堂のある多くのお寺を回ってくれるからである。し
かし私はガマが目的であるから、駅から歩いて渡岸寺の観音堂に向かった。5分くらい歩くと寺の山門
があり、その山門の横に口上を演じる舞台があって、「ガマの油」と大きく書かれた旗が3本ほど立っ
ていた。
口上の午前の部は10時から始まる。それまで少し時間があるので、出店の立ち並ぶ境内を通り観音
堂にお参りして、収蔵庫にある有名な十一面観音立像と胎蔵界大日如来坐像を拝観した。作家井上靖は
この観音像に魅かれて幾度も訪れ『星と祭り』を書いたそうだ。
戻って、舞台の前の椅子に座り、待さんらしい人がいたので声を掛け挨拶した。待さんは主演者兼演
出者のほか、ほとんどの段取りを一人で取り仕切っている様子で忙しく走り回っていた。
やがて、鉢巻きと襷をした待さんが現れ、拍子木を鳴らして「東西! 東西! 只今より陣中膏は天
下御免のガマの油売りの口上を申し上げます!」と大声を響かした。
境内にいた人々が、さっと舞台の前に集まってきた。そして、
「筑波山にも油の取れるガマがいたが、ガマの油の薬の発祥は歴史的に見て一番古いのが伊吹山です。
これは地元の伊吹町史や大道芸辞典の記事にもあって、間違の無いことです。そこで、近江の国伊吹山の
伝統芸能として、ガマの油口上保存会を立ち上げました」と前置きしてから、「さぁさぁ! お立ち合い!
お立ち合い! ……」と口上が始まった。
「手前とりい出したるはガマだ!」で生きた本当のガマが出るかと思ったが、出てこなかった。説明では
横の箱に入っているということであったが、これは本当かどうかわからない。口上の流れとしては、筑波
山が伊吹山になったほかは、大体は私の記憶と同じように進行した。しかし、大道芸の面白いところは、
集まった人々との言葉のやり取りである。
私の隣に座っていた地元のおじさんが、油の効能は肛門の病、痔にも効くと言ったとき、
「おい本当に効くのか? 痔で困っているのだが……」と声を上げた。
「それでは直ちに、ここで塗って直して進ぜたいところながら、場所が場所、あそこにいる警官が目を光
らしているので、後程別室でじっくり塗って進ぜよう」と待さんが返した。
「痔はなあ、薬を塗る前に専門の良い医者に診てもらったほうがええで……」と私。
「いや、本当はなあ、来週病院で、診てもらうんや! ハハハ!」とおじさん。このおじさんとは始まる
前から言葉を交わし、私が甲子園球場のあるところから来たというと、「西宮か? ようこんなとこまで
来たな!」と、それから、年齢と学徒勤労動員の話、年少志願兵のことなど、色々と話が弾み「夏祭り近
江の人と語りけり」の状況となっていた。
また別の所から声がとんだ。
「ほんまに、そないに効くんかい?」
「いや! 効かぬものもあるぞ! 一つは恋患い! 恋の想いの届かぬ病だ! そしてもう一つ! 浮気
の虫。まだある! そこにもおられるが、禿と白髪には効かない!」と待さんがまた返した。
やがて待さんが袋に入った刀を取出し、紙を切って、紙吹雪を散らしそれを扇子であおった。 私はこ
の「口上」の締めくくりに注目していた。まさか、メンソレータムで終わらすことはあるまい。
すると意外にも子供を使ったのである。普通、「口上」で刀の切れ味を試す時には、演者は自分の手を
切るそぶりをする。ところが待さんは集まった人々を見まわし、男の子を見つけると、その子を舞台に招
き、椅子に座らせ子供の片手をつかむと、「えい!」と刀の刃を当てた。と、たちまちその手が血に染ま
った。一瞬あっと驚いたが、本当は赤い絵の具を塗りつけたのだった。
紙で丁寧に血(絵の具)をぬぐい、ガマの油を付けると、たちどころに子供の傷は消えて元通りになっ
た。そして、
「このようによく効く伊吹山のガマの油! 本来は一貝が2百文のところを、今日は年に一度のふるさと
祭り、その半額の百文。さあどんどん買ったり! 買ったり!」これで終わるのが正調であった。
血が止まらないので「誰かお立ち合いの中に傷薬を持っておられる方はおらぬか?」との落ちを使うのは、
後年の落語ネタなのだろう。メンソレータムも同じである。
あとで他の人の口上もあったが、私は集まった人とのやり取りをする待さんの口上に一番迫力を感じた。
あの戦争末期、武庫川の河原で上級生の口上を初めて聞いて、面白い! 懐かしい!すばらしい! と思
った気持ちが、私の胸に66年ぶりによみがえった。
そして、帰りの車窓から再び伊吹山を見て、その麓には今でも薬になる油を流すガマが一杯いるような架
空の想像に取りつかれ、楽しい思いに私の心は弾んでいた。
(平成23年8月13日)