小嶋 裕です。エッセーを送ります
 
From Chuhei
 
 
昭和18年10月21日の神宮外苑での学徒出陣壮行会は雨だった。
 
 
多くの女子学生も雨の中、傘もささずに出陣学徒を見送った。 
 

神宮外苑の雨    

 

 

 ―昭和18年10月21日 学徒出陣壮行会―

 

 

 神宮外苑は雨だった。その中で戦局が危急となり兵役免除を解除されて、戦場に出陣する学徒

25000人の分列行進が始まった。それを見送る学生たちは50000人、その内には、東京

の30校から集まった女子学生25000人が競技場の席を埋めていた。

 

 降りしぶく激しい雨が、参加者全員の身体を濡らした。しかし、行進する生徒も見送る学生
ちも誰ひとり傘をさす者はなく、雨具もつけず整然と濡れるにまかせていた。

 

 私はこの時、国民学校5年生、NHKの志村アナウンサーの実況放送を聞いていた。
東京帝国
大学に始まって、東京商科大学、慶応大学、早稲田大学……と学校名を紹介する
ラジオの声が記
憶に残っている。

 

 この壮行会の映像は映画館で見た。日本二ュースであったか、文部省製作の短い映画であった

かは覚えていない。学生服に学生帽、足にゲートルを巻き、「三八式歩兵銃」に着剣して肩に担

いだ学徒たちは水しぶきを高くあげて行進していた。そして、そして陸軍戸山学校軍楽隊の演奏

する行進曲は「抜刀隊」、西南戦争田原坂の白兵戦での政府軍抜刀隊の活躍を歌った、「われは

官軍わが敵は……」で始まるあの歌の曲であった。

 

彈丸雨飛の間にも 二つなき身を惜まずに 進む我身は野嵐に 吹かれて消ゆる白露の墓なき

最後とぐるとも 忠義の爲に死ぬる身の 死にて甲斐あるものならば 死ぬるも更に怨なし 

我と思はん人たちは 一歩も後へ引くなかれ

敵の亡ぶる夫迄は 進めや進め諸共に 玉ちる劔拔き連れて 死ぬる覺悟で進むべし

 

外山正一の作ったこの歌詞にフランス人シャルル・ルルーが作曲し、明治18年に日本初の西洋風音楽の軍歌として発表されたものであった。

 

 東条首相の「仇なす敵を撃滅して、皇運を扶翼し奉るの日は こんにち来たのであります」とい

う訓示に対して、東大生による出征学生代表の答辞があった。

 

「生等(我ら)いまや見敵必殺の銃剣をひっさげ、積年忍苦の精進研鑚をあげて、ことごとくこの光栄ある重任に捧げ、 挺身をもって頑敵を撃滅せん。生等もとより生還を期せず」

 

 そして最後に、全員による「海行かば」の大合唱があった「海行かば水漬く屍、山行かば草生す屍……」

 

国民学校5年生の私にも、学徒たちが、死ぬ覚悟で出陣するのだということはよく解った。そして降り続ける雨がこの壮行会に一層悲愴な雰囲気を漂わせているように思った。

 

 私はこの映像を見たあと、やがて同じように出陣する私より5歳上の母方の従兄弟から
教えて
もらった歌を口ずさんでいた。

 

 雨は降る降る 人馬は濡れる

        越すに越されぬ田原坂

 

 おいが死んだら桜の下よ

        死ねば屍に花が散る

 

 西郷隆盛は話せる男

       国のためなら死ねと云うた

 

 私も中学校に入ると、配属将校がいて早速、殴って鍛える激しい軍事調練が待っている
だろう。
やがて出陣、そして「海行かば」の歌のように死ぬ。「大君の辺にこそ死なめ
かえりみはせじ」

降りしきる雨の映像は私に漠然とそんなことを考えさせた。

 

 この壮行会に参加した人で生き残った人は、この時の雨の行進を今どう思っているの
だろうか? 

 

「雨の神宮外苑『学徒出陣』56年目の証言」というのが、ネットの中にあった。今から
4年前に
聞くことが出来たあの雨の行進の参加者で、生き残った人の証言である。

 

あれはあきらめの雨だった。

 

(出陣学徒証言1)

 これから人殺しをしなければならないと思うと、「締念」でしたよ。いま俺は、そういう時間

と空間の流れの中にいるんだ。 俺はいやだというわけには行かない。一つの諦めでした。

 

   (出陣学徒証言2)

 とうとう来たかと思いました。軍隊がイヤだから大学に入ったようなものだったから。先輩か

ら聞くと軍隊の厳しさは、人を 人間扱いしない。 教練の成績も悪かったし、軍隊にはできれば

行きたくなかった。みんなそうではなかったんですか。

 

 あれは不条理な戦への暗い雨だった。

 

   (出陣学徒証言3)

 軍隊は非合理でした。上官が、2日目から訳もなく殴る。人の能力をどうしたら引き出せるか、

どうしたら敵に勝てるかというのは ほとんどなく、日本精神でひっぱたいて鍛えることしかないん

ですよ。

 

   (出陣学徒証言4)

 沖縄戦で特攻隊員を命ぜられた。金属の骨に布を張った飛行機だった。これしか残ってないか

ら使ってやってくれという。 こんな捨石には、勝っても負けてもなりたくないですよね。消耗品

になるのは悲劇です。

 

   (出陣学徒証言5)

 フィリピンのジャングルの中での経験ですが、黄色い水というか泥水があちこちに流れて
いるん
です。水のそばには必ず死体があリました。それも頭、手、足がばらばらになっている
んです。
ダンテの「地獄編」を読みましたが、その地獄そのものでした。 真善美を追求する
学生としては、
あまりにかけ離れた世界でした。

 

   (出陣学徒証言6)

 英文学者になるのが夢だった。軍隊に行ってなければ、好きな英語の勉強に打ち込んで、
その道
のベテランになっていたかも しれない。今言っても仕方のないことだけど。

孫たちに、「戦争がなくて幸せだなあ。何でもやりたいことができるんだから」と言っています。

 

 そして、この時見送った女子学生だった人の証言もある。

 

 あれは別れの悲しみの雨だった。

 

   (女子学生証言1)

 56年前の出来事ですが、鮮明に記憶しています。あの日は、どしゃ降りの雨で、頭から
下着ま
でずぶぬれでした。会場全体が、 白と黒中心の全く色彩のない風景でした。

 

 学生たちがゲートを出て行くとき、予期しない出来事が起こりました。女子学生が出口に
どーっ
となだれを打って駆け寄ったんですね。いまから出陣する人に、女が近寄るのは不謹慎
であること
はわかっていました。ただ近づいて雨と涙で行ってらっしゃいと 言いたかった
のです。彼等は、
手を振るでもなくただまっすぐ前を見て、銃を背負って出て行きました。学生が出陣しなければならないのは、戦争は終わりですよ。「一期一会」、これで終わりだと思う
から、タブーを犯したわ
けですね。しかし、ほとんど 帰る希望のなかった学生たちへの餞に
なったと思います。

 

  (女子学生証言2)

 兄をスタンドから見送りました。かなり寒かったんですが、雨でも傘をさしませんでした。
この人
たちが、もし生還できたら いいのになあ、でも100%死ぬんだと思いました。
しかしそういう希
望のもてる時代ではなかったですね。兄は9ヵ月後 サイパンで戦死しました. 私が兄を見送れたのは、運がよかったのかもしれないですね。

 

  (女子学生証言3)

 前途ある人たちが、どうして戦地に赴かなければならないのか。聖戦という思想に
染められてい
ましたが、さめた気持ちでこれでいいのかという気持ちがありました。歴史の
大きな流れの中に巻
き込まれた感じですね。私は学生寮にいたため助かり ましたが、家族は全員空襲でなくなりました。

 

  (女子学生証言4)

 出征直前、婚約した彼が軍服で挨拶にきました。初めて二人になったとき、彼は襟を正して
言い
ました。「この戦争は間違ってる。 国のためならともかく天皇のために死ぬのはイヤだ」
と。当時、
日本は神国だ、天皇のために死ねとの教育でしたから、私は びっくりしました。

 

 あの時、なぜ戦争がイヤなのかを聞かなかったのか。そんなにイヤなら二人で死のうとなぜ
言え
なかったのか…。出征を見送るホームで、彼は笑っていたけど涙していました。「どこへ
連れて行
かれるのかなあ」それが最後でした。彼は沖縄で死にました。 彼の気持ちを受け
止められなかった
のを今でも悔やんでます…。

 

 いまの若い人たちに頼みます。世界中が平和になるような世界をつくってください。

 

 

 雨の神宮外苑の学徒出陣壮行会の時から、今年で70年が過ぎた。その間、私は激しい雨の
音を
聞くときには、あの壮行会の映像をよく思い出し、その時はいつも抜刀隊の曲が私の身体に響き渡っていた。

 

 しかし今、あの壮行会のことを語れる人が何人生きているのだろうか。あの壮行会と時を
同じく
して、中等学校でも本格的な戦時動員体制が確立し、軍事教練はさらに強化され、
学校の門には衛
兵がおかれ戦闘帽にゲートルなど軍隊と同じような体制になっていった。

 

 学徒の徴兵免除は無くなった以上、赤紙の徴兵令状によって、一兵卒で出征するよりも
どうせ軍
隊に入らなければならないのであれば、自ら志願して甲種幹部候補生となつたり、
軍の学校に入り
軍事技術を習得したほうが良いと、当時の多くの学生が考えていたことも
事実であろう。

 

 私が親しくしていた従兄弟達も一人は大学から海軍予備学生になり、その弟は海軍甲種予科
練習
生となった。私と同年配の友人たちも陸軍幼年学校を受けたり、富士山麓の陸軍少年戦車兵学校に入学した。

 

 しかし、ミッドウェーの大海戦で大敗を喫した後も、ガダルカナル敗退(転進と発表されて
いた)
アッツ島全員玉砕と続き日本軍兵士の屍の山が野に重なり、海に沈んで積もるように
なった。戦局
の先行きの見通しは全く立たなくなり、真っ暗闇となっていった。

 

 このような中で、殆どの当時の学徒は否応なく、「死ぬこと」と向き合うことになって
行ったの
である。当時、京都帝国大学の有名な田邊元 哲学教授の「死生」という講演が
生き方より「死に
方」を説いて、大きな注目を集めたのも、そのような背景があったからだ
と思うのである。

 

 あの神宮外苑の壮行会の雨は、全国の学徒への「死に方始め!」の大号令に対し、悲しみ
極まっ
て泣き出した人々の涙の雨ではなかったかと私は思っている。

 

                        (平成25年5月18日)

 

 

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:★:cosmic harmony
      宙 平
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