ロンドン5輪でフルーレ男子団体銀メダル以上が確定し、喜びを爆発させる太田選手です。表彰式(金イタリア・銀日本・銅ドイツ)と日本フェンシング選手のの戦いです。フルーレ男子団体銀メダル
ロンドン五輪第10日の8月5日。テレビはフェンシング男子のフル
ーレ団体準決勝、日本とドイツの戦いを、ライブで放映していた。勝て
ば日本フルーレ男子団体にとっては初めての銀メダル以上が決まる。
団体戦は1チーム3人(補欠1名)による総当たりだ。千田健太、三
宅諒が稼いでくれた3点のリードを、最後に引き継いだエースの太田雄
貴が守れず、逆に2点リードされてしまっていた。45分勝負の残り時
間は僅か9秒しかない。
そして、その差を1点差に縮めたときは、残りはもう2秒しかない。
太田はあきらめずにアタック! 同点に追いつく! 遂に一本勝負の延
長戦に持ち込んだ。
この1本でメダルが決まる。最初の攻防、相討ちで、ノーカウント。
2度目、相手のランプがつく。胴体の有効部分を隠した反則でやり直し。
3度目、両方が勝った、と手を上げる。ビデオ判定に持ち込まれ、裁定
で太田の攻撃の有効性が認められた。勝ったのだ!
日本の選手が、ピスト(競技用マット、幅と長さが決まっていて、台
上に敷かれる場合が多い)に駆け寄り、太田と抱き合い喜びを爆発させ
た。ウクライナ人マツェイチュク日本チームコーチも歓喜の声をあげ太
田を抱え上げた。
4年前の北京五輪のフルーレ個人で、太田が銀メダルを取った。新聞・
テレビで大きく報道され、その時以降、日本でのフェンシング競技に対
する関心が大きく変わった。
高校や大学でフェンシング部へ入部を希望する学生が増え始めた。太
田自身も大学を出てもフェンシングに打ち込んできたため、決まらなか
った就職が、メダルをとってから森永製菓に決まった。日本のフェンシ
ング界の中では、インターハイで3連続優勝するなど、既に有名であっ
た彼だが、一般に大きく報道され出したのは北京五輪以降である。
日本ではフェンシングはマイナースポーツであまり報道されることは
ない。フェンシングの種目やルールも知られていない。しかし、オリン
ピックでメダルを取ると、新聞は一面を飾り、メダリストは一躍有名人
になり、やがて競技人口も増える。
日本フェンシング協会では既に2003年から本格的な強化策を打ち
出してきた。プロコーチを外国から招き国立スポーツ科学センターに強
化選手を集め練習拠点とした。これも北京五輪の銀につながった一因で
あったろう。
今回のロンドン五輪には、特別強化選手23名を指名して、外国人コ
ーチを4名迎え、今年の1月から3月までの期間に1億8千万の強化費
を投じてフルーレ、エペ、サーブルで5個のメダル獲得を目標に強化活
動を実施してきた。さらに資金面で、協賛してくれるスポンサー企業も
80社近くに増やした。
ロンドン五輪には選手として男子フルーレ4名、女子フルーレ4名、
女子エペ1名、女子サーブル1名を送り込んだ。
結局、個人競技の全員、女子の団体も決勝には残れず、男子フルーレ
団体だけが中国に勝ち、そして、ドイツとの準決勝にも勝ち進んだ。し
かし、決勝ではイタリアに負け、金メダルはならず、銀メダルが決定し
た。
帰国後、大田は日本のフェンシング競技人口についての質問にこう答
えている。
「今、正味の競技人口は5千人ぐらいでしょう。これはどうしても2万
人から3万人ぐらいに増やしたい」そして「フェンシングのようなマイ
ナースポーツを盛んにするには、4年に一度のオリンピックでメダルを
取る以外にはないのです」
このような日本のフェンシング競技の現状が分かっていた私は、今回
ロンドン五輪個人競技で決勝に残るものが、いなくなったとき、未来に
暗雲が立ち込めたような絶望的で暗い気持ちになった。昔、アメリカ軍
の日本占領時代にフェンシングを始めて、大学4年間をこの競技に打ち
込んだだけの私でさえ、そうなのだから、フェンシングの選手。監督・
コーチたちはメダルが無くては日本に帰れない、という思いが切実であ
ったに違いない。それがあの準決勝に勝った時の爆発的な喜びにつなが
ったのだ、と私は思う
私は今回メダルを取ったのが「団体」であったことも、今後のために、
良かったと思う。
北京五輪では太田個人だけに注目が集まったが、今回では大田の他に
も千田。三宅、淡路がメダリストになり、それぞれの試合内容も世界の
トップクラスと対等以上に渡り合えることが実証されたからである。三
宅は慶応大学の学生であり、淡路もまだ若い。さらに自信を得て今後、
大いに活躍が期待される。
しかしながら、5個のメダルを目標として強化活動を続けていた日本
として、今回競技全体としては成功したとは言えない。アジア勢のなか
でフェンシングの先進国であるはずの日本は、今や中国、韓国に大きく
遅れをとっている。
中国のメダルは金2(男子フルーレ個人1・女子エペ団体1)銅1
(女子エペ個人1)。韓国は金2(男子サーベル個人1・団体1)銀1
(女子エペ団体1)銅3(男子フルーレ個人1・男子エペ1・女子フル
ーレ団体1)であった。また韓国の個人女子のエペ準決勝では、韓国の
選手が試合終了残り1秒での相手ドイツの得点は、既に終了時間を過ぎ
てからのものである、と強く抗議してピストに泣きながら1時間も座り
込んだということもあった。韓国はこの種目で銅も逃しているが、実質
の女子個人エペは銀と見ている。日本はフルーレ団体で中国には勝って
おり、トップクラスの技術・能力面では決して中国・韓国には劣っては
いないと思われる。
日本として女子の個人及び団体の3種目と、男子のエペ・サーベルの
個人及び団体には、徹底した金メダルへの選手強化策を、ロンドン五輪
の反省の上、幅広く意欲的に進めなければならない。そうすれば、必ず
次のブラジル五輪では成果が得られると私は信じている。
日本のフェンシングはオリンピックと深い関係がある。
あのヒットラーが演出したベルリン五輪の4年後の1940年(昭和
15年)に、東京五輪を準備していた日本は、オリンピックでは欠かせ
ない主要種目のフェンシングの普及を計り、大学や高専の部活動に取り
入れることを働きかけた。そのときアメリカのフェンシング競技大会で
大活躍して有名になっていた森寅雄は、日本にメダルをもたらす事を期
待され、この五輪に出場するため帰国してきた。森は幕末の剣豪北辰一
刀流四天王の一人森要蔵のひ孫である。全国中等学校剣道大会では毎年
連続優勝をし、剣道錬士六段となり、剣道普及のためアメリカに渡った
が、南カリフォルニア大学でフェンシングを学んだ。そして翌年、全米
フェンシング大会で準優勝して「タイガー・モリ」と異名を取り、稀代
の名選手といわれるようになっていた。
ところが、戦争が迫り1940年の東京五輪は中止となり、日本はア
メリカ・イギリスと開戦、彼は桐生に疎開した。
敗戦となり、日本はアメリカに占領され、占領軍の命令より、剣道は
禁止された。森は戦後の日本にフェンシングを教え、昭和22年日本フ
ェンシング協会を設立して副会長になった。
私がフェンシングを始めたのは昭和25年である。中学時代から剣道
をしていた先輩が昭和24年11月に、関西学院のフェンシングクラブ
を復活させて、間もない頃であった。1948年(昭和23年)ロンド
ンでオリンピックが開かれていたが、敗戦国日本・ドイツ・イタリアは
参加できなかった。
関西学院のフェンシングクラブに入ったものの、当時は練習をする環
境を整えるだけでも大変な時期だった。練習場はない。部室もない。コ
ーチもいない。使用する剣も品質が悪く固くてすぐに折れる。
まず、フェンシングクラブを大学の運動総部の会議で正式な部として
昇格する決議をしてもらい、僅かでも補助金を得た。そしておんぼろで
も一つの部室を確保した。大阪のYMCAの体育館で、戦前に設立され
た関西学院や関西大学のフェンシング部のOBで、競技を続けている先
輩に合流して練習することにした。そのほか、昔から残っていた古い板
張り体育場を時には練習に使った。学生の連盟もなかったので、同志社・
立命館・関西大学・関西学院と組んで関西学連を作り、全日本学生連盟
と結んだ。そして信州での合宿には、中央大学の須藤監督と主要な選手
2名を招いて、森寅雄直伝のフェンシング技法を学んだ。森寅雄は中央
大学で体育課講師として昭和23年から2年間フェンシングを教えてい
たからである。
1952年(昭和27年)ヘルシンキオリンピック大会になって、日
本は初めてフルーレ個人に牧真一の参加を決めた。当時私は大学3年生
でフェンシング部のキャプテンをしていた。どんな戦いをするのか?
大いに関心があった。予選で敗退したが新聞では大きく競技の写真が出
た。まだテレビのない時代であった。
森寅雄はその後再びアメリカに渡り、1960年(昭和35年)のロ
ーマ五輪大会ではアメリカのフェンシングチーム代表監督を務め、19
64年(昭和39年)東京五輪ではアメリカフェンシングチームのコー
チを務めている。その東京五輪で日本はフルーレ男子団体4位とメダル
に迫った。しかしその後、本当のメダル獲得は北京五輪の太田の銀まで
待たねばならなかったのである。
オリンピックでメダルを取るには、「残り一秒、あと一本」のぎりぎ
りの修羅場を勝ち上がって、最後まで勝ち抜かねばならない。それには
練習によって築き上げられた強い精神力を持たねばならない。そして、
さらに強い精神力は「気品のある礼節に裏付けされた、敢闘する根性」
という騎士道精神の徹底により生まれる。それが自信に溢れた堂々とし
た態度となって、対戦相手を圧倒するのである。
この点を徹底的に意識して、選手強化に励むならば、次のブラジル五
輪のフェンシング競技では、圧倒的多数の日本のメダリストが生まれる
のは間違いないと私は信じている。
(平成24年8月28日)
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:★:cosmic harmony
宙 平
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