西宮海軍航空隊
平成21年11月3日、西宮市上ヶ原の関西学院大学では、OB・OG
たちが学院に集まるホームカミングデーが開かれていた。
私も案内状をもらっていたので、図書館前広場に面している講堂の前で
記念品をもらい、そして、学生たちが開いている色々な模擬店の中を抜け
て、久しぶりに裏山に新しく出来ている野球場やアメリカンフットボール
の競技場を見に行こうと思った。
体育館の西南の道から一般の道に出て進むと村の鎮守の上ヶ原八幡神社
があり、その本殿にお参りして、裏山に抜けるため左側の境内を横切ろう
とした。すると、横にある参集殿の前に白い訓練帽をかぶった年配の人た
ちが20人位集まっていた。私は一人の人に聞いた。
「今日は何か、ここで行事があるのですか?」
「西空会の集まりで、あの神風神社にみんなで参拝します。西空会は西宮
海軍航空隊の戦友会です。神風神社は、関西学院の敷地のなかの航空隊内
の神社だったのですが、終戦となり焼却する前に住民の方のお蔭でこの八
幡神社の境内のなかに移すことが出来ました」
「それは、ご苦労さまです。私は関西学院大学に昭和25年に入学し29
年に卒業しているのですが、在学中を通じて今まで学院の中に海軍航空隊
があったことは知りませんでした。今初めて知りました。これは驚きまし
た」
「当時、学院の敷地の半分以上は航空隊が使っていましたよ。昭和19年
からでしたが……、あそこに見える『雄飛之碑』は昭和57年に西空会で
建てたものです。今はあの碑だけが、ここに西宮海軍航空隊のあったしる
しです」
その碑は同じ境内にあり、磨かれた御影石の上に、『雄飛之碑』の文字
が太く刻まれていた。その横に明石の海から引き揚げられたという、97
式戦闘機のプロペラと特設掃海艇の錨が海軍の象徴として置いてあった。
私はそこから少し高みにある神風神社に歩み寄り、その前で手を合わせた。
帰って早速、図書館で『関西学院百年史(通史編1)』を見た。その中の
第6章「太平洋戦争と関西学院」のなかに、校地・校舎の徴用というのが
あった。昭和18年11月、海軍省より、当時の大学予科校舎・高商学校
校舎・中学部校舎の借用の申し入れがあり、結局、高商学校校舎を除き、
寄宿舎・学生会館など13棟と3万坪の敷地を翌昭和19年2月に、三重
海軍航空隊西宮分遣隊への引き渡しがなされたとの記録があった。これが
西宮海軍航空隊となったのであろう。
当時決断を迫られた神崎院長の言葉として「軍は、学院をつぶす計画を
しておったのである。折角ここまで育て上げてきた関西学院が、正に風前
の灯の如き有様となった。事態は、いかんともしがたい。私は意を決して、
特に海軍に学院の校舎の一部を貸与した。これは色々な意味で良策であっ
たと思う」と『70年史』の回想の中で語られている。
風前の灯の如き……というのは、戦争によるアメリカ・カナダの教会か
らの援助金の中止、授業料収入の激減、などにより学院の財政は窮迫の度
を深めていたことであった。そのなかにあって、建物の供出は極めて厳し
いことながら、それにより賃貸料収入、政府補助金の増加は財政的に救い
の材料ともなった。
学院としてはさらに、川西航空機から建物1400坪の貸与の申し入れ
があり、中央講堂・高商学校講堂・法文学部校舎・教授研究館を供出貸与し、
中央講堂には動力機械が据えつけられ軍需工場となっていた。
有名な建築家ヴォーリスが設計し、白亜に輝いてキリスト教教育と自由を
謳歌していたスパニッシュ・ミッション・スタイルのキャンバスの建物も
昭和20年には、中央の時計台を含め空襲の時に目立つことを防ぐため、黒
く塗りつぶされていた。そして大学生の多くは学徒動員で軍隊へ、他の学生
のほとんどは、勤労動員のため工場で働くようになっていった。
私は戦時中、甲子園にあった甲陽中学の生徒であったが、関西学院に黒い
時計台のあるキャンバスなど、考えただけでも、全く異様な風景だったろう
と思う。
甲陽中学も校舎の一部や柔道場や剣道場などを陸軍暁部隊に貸与して、私
たちも軍隊と同居していた。校門には衛兵所があり、整列して「歩調とれ!」
「かしら右!」「なおれ!」続いて進み「かしら中!」「なおれ!」「解散
!」と号令をかけなければ、出入りできなかった。「かしら中!」は運動場
を隔てて、校舎内にある天皇と皇后のご真影に対する敬礼であった。
ミッションスクールの関西学院も、ご真影は正門右側の建物の2階にある
院長室の大型金庫内に、奉安庫をつくり、そのなかに奉安されていた。ご真影
の安全は極めて重視されていたと記録にはある。
その後、西宮海軍航空隊に入隊されていた方の記録として、図書館で園田
正一さんの自費出版回想録『西宮海軍航空隊』を見つけた。またインターネッ
トでは『テル爺の戦時体験記』を西川晃男さんが書いておられるのを読んだ。
お二人とも旧制中学3年生となった昭和18年に「甲種飛行予科練習生」
に志願されている。園田さんは府立中学で、軍関係の諸学校への強制志願
割り当てがあつたことを書かれている。西川さんの場合は当時の戦況が容
易でない事を感じ、「誰かが行かねば世間様に恥ずかしいし早く戦闘に参
加しないと日本が負けてしまう」という義務感で志願された。
親しかった私の従兄も旧制中学の剣道部の主将だったが、この同じ年に三
保海軍航空隊へ志願入隊している。私には、当時この年代の若者たちが志願
して入隊したいと強く思っていた気持ちは良く分る。志願しようとしまいと、
徴兵年齢が引き下げられ日本人全員は(女性までも)戦闘に参加せざるを
得ない状況が迫って来ていたことは事実だったからである。
当時の日本の戦局は危急であったから、平時では3年間の予科練教程を8
か月に短縮する息つく間もない、厳しい猛訓練の連続が待ちうけていた。
当時よく歌われた「若鷲の歌」に
今日も飛ぶ飛ぶ霞ヶ浦にゃ、
でっかい希望の夢が湧く
という言葉があった。が、大空を飛ぶ搭乗員の夢は、やがては戦局が進み、
日本は航空機も燃料も無くなってきて、果たせなくなるのである。戦争末期
には、水中特攻、本土防衛へと多くの練習生が転出していった。
園田さんの回想録によると、昭和20年5月、「総員体育館に集合」の命
令が出され、水中特攻兵の志願の説明がなされた。◎は熱望する。〇は希望
する。×は志願しない。渡された紙にいずれかを書いて提出しなければなら
ない。数日後、人選が行われ1200人の内600人は「帽振れ!」の声に
送られ柳井潜水学校へと旅立って行ったと書かれている。
また、西川さんも特別陸戦隊が編成され、「海軍内部が再編成されて本土
決戦に備えて動き出したのがひしひしと伝わってくる」と当時の緊迫した状
況を書いておられる。
私はこの体育館を知っている。私が入学した頃は、未だ剣道は禁止されて
いて、フェンシング部に入ったが正式の練習場所もなく、高等部の北西の隅
にある、当時すでに壁が落ち板も破れていたおんぼろの体育館を勝手に使っ
ていた。この体育館こそ、特攻志願の説明がなされた場所であったと思う。
今は別の場所に立派な体育館が出来ていてその跡形もない。
雄飛の誓いいや堅く
空の御楯と勢いたつ
我等は空の少年兵
これは西宮海軍航空隊歌の一部であった。雄飛の碑はこの言葉からとって
いる。戦時中の上ヶ原にも雄飛を誓って青春を過ごした若者たちがいたのだ。
だが、操縦桿を握って大空に羽ばたくことはすでに出来なくなってしまって
いた。やがて飛行予科練習生の教育は凍結となり、20年6月30日には航
空隊は解散となるのである。そして多くの練習生は本土決戦要員として各地
の陸戦部隊に編入されていった。西川さんは姫路海軍航空隊へ派遣され、残
った飛行機を守る掩体壕の新設や滑走路の保全などにあたった。園田さんは
本土決戦のための沿岸防衛隊として、田辺海兵団に配属となった。
当時アメリカ軍の日本本土上陸時期は、昭和20年秋と考えられていた。
沖縄戦は6月20日に実質的には終わっていたとみられる。
私は今でも本土決戦と聞くと身震いが止まらない。沖縄戦では中学生は鉄
血勤皇隊となり戦闘に参加し、女学生はひめゆり部隊となって看護隊となっ
た。そこに艦砲射撃や爆撃、そして砲撃、機銃などの鉄の嵐が吹き荒れて、
多くが死んだ。また追い詰められた人々は自決した。
日本ではその後の6月22日、国民義勇兵役法が制定され、国民学校卒業
以上の男子65歳、女子45歳以下は、国民義勇戦闘隊に編成されることに
なった。日本国民は根こそぎ兵士とならざるを得なくなったのである。
そして、8月のソ連の樺太への侵攻に際しては現地で義勇戦闘隊が結成され
戦っている。
西宮でも甲陽園には地下壕が掘られ、本土決戦に備えていた。そのまま戦
争が続けば中学生だった私の命もどこかで失われていたことだろう。そして
ソ連も北から攻め込んできて、日本は2分割されてしまったであろう。
西宮海軍航空隊が上ヶ原に開隊してから、解散するまでのこの間に太平洋
の制海権はアメリカに奪われて、日本の空までも自由にアメリカの艦載機が
飛び回るようになった。
本土決戦しか残されていない!。日本の国民全体が死の崖淵に向かって進
みつつあった恐ろしい時代であったことを私は今改めて感じているのである。
(平成23年10月8日)