From Chuhei
O―RINGEN
―オリエンテーリングの輪という名の大会参加への憧れ―

オリエンテーリングのことを「OL」と略するのは、ORIENTIERUNGS LAUF、(方向を決めて走る)というドイツ語からきている。このOLという競 技が日本に初めて入ってきて高尾山で大会が開催されたのが、1966年といわれ ている。今、この競技は大学・高校でも部活動のクラブが出来て、大学の主宰する 競技大会なども行われているが、1931年生まれの私の学生時代にはこんな競技 は全く日本にはなかった。

私が初めてOLを始めたのは1969年、私が38歳の時である。阪急百貨店の売 り場でOL用のコンパスを見て、説明を聞いたのがその始まりだった。その時、受 けた説明では、近郊の幾つかのハイキングコースには金属製の標識が10ないし1 2設置されていて、その設置場所を示された地図を見て、標識目指してコンパスを 頼りに順番に歩いて回るというものだった。全部回ると10㌔から15㌔位歩く ことになるのが普通だった。

確かに日本に入ってきた当初、当時の総理府では、国民体力作り運動の一環として この競技を大きく取り上げていた。「徒歩オリエンテーリング」実施要領なども作り、 各地にパーマネントコース(常設の標識を設置しいつでも回れるコース)が作られ、 それを100㌔回ると盾がもらえる100㌔コンペなどが盛んにおこなわれるよう になっていた。私もこの当時、休みの日毎に、コースのある最寄りの店に売っている 地図を買って、コース図にある標識の地点を書き込み、あちらこちらのパーマネント コースを歩いて回るということに、熱中していた。その後、仕事で名古屋勤務となり、 東海地区で盛んになり始めていた競技大会にも参加するようになり、そんな大会を 企画し主宰する有力な地域クラブの、愛知OLクラブの会員となった。その頃大会会 場で次のような歌がマイクでよく流されていた。

丘や林を駆けめぐり

頼りのコンパス あやつりて

ルートをたどる 面白さ

OL! OL! オリエンテーリング

1978年、私は再び関西勤務となって大阪OLクラブに入った。当時関西では 会員数も多く、OL大会を開催する力のある有数のクラブであった。OL大会の 初期の頃は市販の2万5千分の1の地図などを使っていた時もあるが、本格的な 大会を開くとなると、一般の地図では役に立たない。特に山地、丘陵地などの正 確な等高線、小川や沢、池、沼などの水系、岩や崖、き裂、藪、植生界、通行可 能度などが詳しく、しかも最新の状況で記されていなければならない。そのよう な、最新のOL用の地図を作り続けることが出来る組織かどうか、が、そのクラ ブの力を示す大きな要素であった。

大阪OLクラブは、大西良則さんが会長で、メンバーは40人位で「大輪言」と いう会誌を毎月発行し、送られてきた。その編集は皆川勝俊さんが中心になって やっていて、当時はまだメールが普及していない状況で、クラブ員をつなぎ、 OLのすべてを知る大変貴重な情報源だった。ただ、「大輪言」は古めかしくて 堅苦しい、「大辞林」などのような辞書みたいな名称だと思っていた。が、 皆川さんによるとスエーデンで毎年夏に行われる「オリエンテーリングの輪」 という意味のオーリンゲン大会をなぞったもので、この大会はヨーロッパだけで なく世界最大のOLの大会で、いつも1万人以上の選手が集まり、5日間に わたり競技が行われる。北欧の各新聞でも1面で大きく報道され、地元では 大きなお祭りとして盛り上がるということであった。私はそんな大会なら一度は ぜひ参加したいと夢見て憧れるようにになった。しかし、当時は海外のOL大 会に出る人はまだ少なかったし、私も長期間の休暇を取るのは難しい 状況だったので、海外のOLに行くのは、それこそ夢のようなことだった。

1980年になって、オーストラリアのキャンベラ近郊で第1回のAPOC大 会(アジア太平洋OL選手権大会)が開かれ、大阪OLクラブからは、皆川さん、 池田さん夫妻と家族が出場された。池田富子さんはこの大会の参加記を詳しく 「大輪言」に投稿された。私は大変興味深く熱心に読んで、一層海外の大会に 行きたいと思った。

当時の大阪OLクラブの活躍は活発で、年数回の練習会、毎夏の合宿のほか 1982~83年にかけて、関西のOLクラブでは初めて走行可能度の 入った地図「北倭」を完成させて、大阪と奈良の県境の山で大会を開いた。 そしてさらに、地図作りのために「箕面」の調査に入ったりした。また、 1982年「CUP82リレー大会」をクラブ初めてのリレーOL大会と して、信太山の「白狐丘陵」で開いたが、この時私は企画から競技運営等 のすべての責任者を勤めた。翌年からOLP兵庫クラブの芝さんの提案に より、「ウエスタンカップOL大会」としてこのカップ争奪のリレー大会 は今でも続いている。そして、これらの活動のすべては「大輪言」に記録 として載せられてきた。

そしてようやく、初めて海外の大会に出ることが出来たのは、1986年 の正月に香港で行われたAPOCの86年大会であった。この時、私は54歳、 クラスはH(男)50Aで香港の西貢地区の山地で行われた。この大会で私は、 最終日の個人コース18人中の3位で銅メダルをもらった。優勝はカナダ人の ケリーアレックスだった。この大会は香港での大会ではあったが、西欧人も大 会の運営には参加していて、西欧の美少女がメダルを首にかけてくれた。 この頃からAPOCの大会では、日本人もメダルを取る人も出てきたが、 ヨーロッパで行われる大会とはレベルも規模もまだまだ違うということだった。 私はぜひオーリンゲン大会には 行ってみたい。なにしろ大阪OLクラブの 機関紙は「大輪言」なのだから……と、思っていた。

その後、大阪OLクラブでは奈良県榛原市の「長者屋敷越」の地図の調査作 成を開始し、1995年には、20周年記念大会を盛大に開いた。私もこの 頃は近鉄榛原駅から歩いて調査や運営のためによく通った。そして、200 0年の25周年大会を「箕面」で開催する計画を立て準備を始めようとして いた。そんな時、オーリンゲン大会へ行く話が来た。日本オリエンテーリン グ委員会の専門委員だった田口肇さんが中心になって、日本人のグループを 組んで、1997年の7月フィンランドのFIN5大会と、スエーデンの オーリンゲン大会5日間に出場しようという計画があるという話である。私は ぜひこの機会に参加したいと申し込んだ。この時集まったのは、男性8名、 女性5名の13名のグループだった。大阪OLクラブからは、私のほか皆川 さん、上手さん、室井さん、女性では夏目さん、松原さんが参加した。

フィンランドでの5日間の競技はパイミオに競技センターがあり、そこから バスで各競技会場へ通った。テレインでは北欧の岩だらけの荒野といたる ところにある湿地に苦戦した。私はH65クラスに出て、5日間通算9時間 14分12秒もかかって完走した。が、81名中75位という成績だった。 出場した日本人の成績は皆、私の順位と似たり寄ったりだった。大会の規模、 参加者の多さ、コースの難しさ、参加者の走る速さ、などすべてにレベルの 違いを感じた。そして、バルト海を船でわたり、スエーデンのストックホル ムに着き、空路で500㌔北にあるウーメオという河沿いの町の宿舎に着いた。 いよいよ会誌の「大輪言」を見て以来、憧れていた待望のオーリンゲン大会 はここで始まった。

ウーメオにある広い軍隊の兵舎を借り切って、競技センターが設けられていた。 競技参加者全部で11400人、クラスはキッズ(子供)クラスからH(男) ・D(女)90歳まで5歳刻み、同じ年齢クラスでもLong・Middle と細かく分かれていて、108のクラス数があった。5日間でそれぞれ会場が 変わり、そこへバスがセンターから続々とピストン運転で往復した。それぞれ の会場には臨時の大シャワー場、飲食、スポーツ用品店が立ち並び、世界最大 のOLイベントであることを感じさせた。私のクラスはH65M、7月21日 から25日まで5日間を走り回った私の全ての時間は6時間43分21秒。 とにかく完走した。このクラスは107人が出走したが76位となった。 OL後進国の日本の65歳台の選手としてはまず上出来だといわれた。が、 そんな順位よりも、この大会で北欧の森林の広さ、湿地や岩のある平地を自由 に走り回る難しさと楽しさ、を十分に味わい堪能できたことが嬉しかった。

そして何より素晴らしいと思ったのは5日間とも最終の標識から、まるで 飛行機の滑走路のような広いレーンを大勢の選手が、周りの歓声を浴びながら、 ゴールに駆け込んで行くスペクタルな情景だった。日本の大会と比べて、その 背景も規模も参加選手数もスタッフの数も設備も段違いに、大きく多く凄いの を実感した。私はこのオーリンゲン大会に参加してみて、大阪OLクラブが会 誌を発刊するに際してこの世界一の大会を理想として「大輪言」と名付けた意 味と、その名付けた人の気持ちが分かってきたような気がした。
そして、さらに分かってきたことはスエーデン、ノルウェーなどの北欧諸国 の森林を利用するスポーツへの考え方である。スエーデン、ノルウェーでは森 林に所有者の許可がなくても、自由に立ち入ることが出来る「森林享受権」が 認められていて、「野外リクリエーション法」などもあり、自然へのアクセス を妨げる塀や柵の設置は認められていないという。OL競技などの野外の活動 は何処の場所でも自由に出来る環境にあることであった。もう一つは、学校教 育にOLがカリキュラムに組み入れられて、OLクラブのクラブ員が指導して いる、ということであった。これらの国では殆どの人が子供の時からOLに親 しんでいるということになる。私は「成程、北欧人がOL競技に断ぜん強い わけはここにあったのか」とも思った。

私は今年で88歳になる。今までH65で出場したオーリンゲン大会の後も、 海外の大会ではWMOC大会(世界マスターズOL選手権)でフィンランド (クーサモ)、オーストリア・ドイツ・イタリア、ニュージーランド(オー クランド)、APOC大会でカナダ、中国、ニュージーランド(ウエリントン)、 韓国、などを回ったが「大輪言」の言葉から憧れて参加した1997年のオー リンゲン大会は、その規模も内容も、私が参加した海外のどの大会よりも最高 であった。そして、年齢、走力に配慮して、広くOLの輪を提供する本当のO L大会のモデルとして、その後の私のOLに参加する原動力となった。

このオーリンゲン大会の5歳刻みで年令別のクラスを作り、子供から90歳 を超えた高齢者までを、選手として受け入れるという理念はやがて、他の多 くのOL大会でも生かされるようになってきた。そして、この理念をすべて のスポーツに広げた「世界中のすべての年齢者にスポーツを」を目的とする WMG(世界マスターズゲームズ)大会は1985年カナダのトロントで行 われて以来、4年ごとに世界の各地で開かれるようになった。

2021年5月、そのWMGが日本の関西で31競技59種目にわたり開かれ、 世界を含め約5万人の選手が参加する。OLは峯山高原、ハチ高原などでも 行われる予定である。今、私は年令別90歳台コースに何とか身体の故障が なく元気に参加申し込みが出来るように心がけて、懸命に生きている。

(2019年10月5日)

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宙 平
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