3月18日 宙平 エッセー テストパイロット海江田信武ーその墓碑前での対話

From Chuhei
 
西宮市の満池谷の墓地に珍しい墓碑があります。
 
 
プロペラを配した丸い銅板のレリーフが印象的です。
 
 
リンドバークの大西洋横断飛行成功の後、日本では太平洋横断飛行への挑戦
が計画されていました。
 
そのポスターと太平洋横断実行機「さくら号」です。
 
   
 
選ばれた4人の飛行士です。右から海江田・藤本・諏訪・後藤の各氏
 
 
 
 

 テストパイロット海江田信武

―その墓碑前での対話―

 

 

 

 

 西宮市の満池谷墓地、正門から北西のそれほど遠くない場所に珍しい

墓碑がある。

 

 プロペラの後ろに裸の天使が蝶と戯れているデザインの、丸い銅板のレ

リーフが、つい立てふうの石にはめ込まれている。

 

 その下に右からの横書きで海江田信武之碑と銅で刻まれた字が浮き出て

いる。

 

 碑の裏面には海軍予備二等航空士・一等飛行操縦士・一等航空士と肩書

きがあって、経歴が刻まれている。

 

 鹿児島県人・明治三八年一月生まれ。成城中学卒業後、後藤勇吉に師事。

日本航空会社に勤務中逓信省第三期委託練習生として修業。定期航空輸送

に就航。

 

 昭和二年太平洋横断飛行操縦士任命。昭和四年川西航空機株式会社に転

勤。爾来専ら軍用航空機試験飛行に従事中昭和十二年六月十七日殉職。

 

 私は満地谷墓地にこのような墓のあることは前から知っていた。が、最近、

城山三郎の『零からの出発』を読み直した時に次の事が書かれていることに

注目した。

 

「翼よあれがパリの火だ」で有名なリンドバークの、大西洋横断飛行の成

功に対して、日本が大平洋横断飛行を計画し発表したとき、世界的な壮挙

として大いに世論はわき、多くの国民が期待し募金などが寄せられていた。  

 

 ところが川西航空機の作った実行機「さくら号」まで完成していながら、

この飛行は中止されてしまうのである。実際に飛ぶはずになっていたこの

お墓の主人公海江田信武操縦士は大いに残念がり、許可が下りなくても、

「眼をつむって、飛ばせて下さい。北海道で腹いっぱいガソリンを積んで、

必ずアラスカまで行って見せます」と、川西航空機の社長に強く申し出る

のである。しかし、「法を犯してまで、やらせるわけには行かん」と遂に

飛べなかった。

 

 私はそのときの事情や、当時の航空界のことなどを本人から聞きたいと

思った。しかし彼は32歳の時に鳴尾の海上の空で試験飛行中、墜落即死

している。

 

 ここは墓碑前に私が立って、霊界からの波動を受けながら、彼と対話す

る以外には無いと思った。早春の好天で暖かく、微風に乗って。梅の香が

漂う日。私は32歳の彼と対話を始めた。

 

「貴方がお亡くなりになった昭和12年6月。私は満6歳ですが、西宮の

今津の浜の近くに住み、よく甲子園の海岸で飛ぶ飛行機を見ていましたの

で、貴方のお乗りになった飛行機も見ていたかもしれません」

 

「あの時僕はね。性能も大きさも世界一といわれた4発単葉のS型飛行艇

の完成を待っていたのだよ。そのテスト飛行は勿論僕がする予定だった。

その前にこれも新しい水上練習機のテストを頼まれてね。ところがスピー

ドを増すと、尾翼が空中分解して、墜落してしまった。S型飛行艇に乗れ

なかったのが、実に残念だ!」

 

「テストパイロットは、新しい機体のスピード・回転性能・上昇力・急降

下などの限界を試すお仕事ですから明日の命は全く知れないのですね」

 

「僕の生きていた時代はね。飛行機はまだ安全な乗り物とは考えられてい

なかった。しかし危険よりも、新しく出来上がった飛行機が、どれだけそ

の性能を全部出しきって飛ぶか知りたいという気持ちが勝って、胸をとど

ろかして大空に向かって羽ばたいて行ったものだ」

 

「子供のころから、空を飛びたいと思っていたのですか」

 

「僕の生まれた年の2年前にね。アメリカのライト兄弟が世界で初めて飛

行に成功して、輝かしい人類の夜明けといわれた。しかし、この時は飛行

時間僅か59秒、飛行距離260メートルだよ。それから、飛行機は急激

にその性能を伸ばしはじめる。8年後の明治44年(1911)には、

アメリカ人マースが日本に来て、大阪練兵場や鳴尾ゴルフ場の上空をカ

ーチス複葉機で飛びまくった。その翌年には、アメリカ人アットウオータ

ーが西宮の香櫨園海岸から、水上機で大空高く飛びあがった。日本人でも

飛行機に夢中になる人が増えてきた。小説家の稲垣足穂なんかね。「ヒコ

ーキ野郎たち」という本を書いて、自ら本当のヒコーキを作っていたよ。

外国で免許をとり、日本で飛ぶ人たちもいた。

 

 大正5年(1916)、アメリカ人ナイルス・スミスが鳴尾上空で宙返

りをやり、翌年にはアート・スミスが『きりもみ』や『アーチ抜け』、ま

た夜間飛行などもやり、みんなそれを見て驚嘆した。そんな空気の中で僕

も飛行機乗りになりたいと思ったね。そして、その頃になると、日本でも

飛行機を作る会社が多く出てきた。関西の地方財閥川西家は次男竜三を

社長として、神戸に川西機械製作所を作って飛行機製作に乗り出した。大

正9年(1920)だった」

 

「この会社が後の川西航空機なのですね」

 

「そうだよ。この会社には天才的な技術者がいて、高速競技や距離競技に

はいつも優勝するような飛行機を作っていたがね。全然売れなかった。最

初は軍もそっぽを向いていた。

 

 川西竜三社長は、それなら自分で航空輸送の会社を作って自社製の飛行

機を使おうと、大正12年(1923)に日本航空株式会社を作った」

 

「貴方はこの会社に勤められて空を飛ぶことになるのですね」

 

「この会社にはね。当時日本一の飛行技術を持つといわれていた後藤勇吉

パイロットがいた。僕はこの人を先生として技術を教えてもらった。そし

て逓信省の委託練習生となって資格を取り、この会社の定期航空輸送のパ

イロットになった。大阪―福岡間を川西の作った最新の水上機で郵便など

を運んでいたのだよ」

 

「昭和2年(1927)、リンドバークがニューヨークからパリまで、

単独無着陸大西洋横断飛行を33時間余で成し遂げました。これをきっか

けに日本で太平洋横断飛行をするという機運が盛りあがるのですね」

 

「その年、南極探検で有名なアムンゼンが日本に来てね。気象上、西か

ら東へ風が吹く太平洋横断飛行は日本がやるのが順当であるなど講演した。

帝国飛行協会は国産機で、日本人による世界初の太平洋横断飛行を発表し

て、国を挙げてやろうということになった。

 

 機体は日本一周機を作った実績のある川西飛行機部が引き受け、パイロ

ットは一周飛行で実績のある後藤勇吉、そして藤本明男、諏訪宇一、僕が

選ばれたのだ」

 

「当時東京で太平洋横断飛行展覧会が開かれ、多くの小学生たちも献金し

た。また、宮中の女官たちまで熱心に金一封を集めたと聞きましたが、こ

れは貴方のお父さんが、宮内庁侍従だったからですか」

 

「いやー。それは分らないよ。しかしこの時は日本中が期待で湧き上がっ

たね。アメリカのシアトル市でさえ、日本の太平洋横断飛行成功者に1万

5千ドル懸賞金提供を申し出たくらいだった。そして海軍が全面的に後援

することになった。僕たち4人は上京し、霞ヶ浦で猛訓練がはじまった。

実行機のさくら号の完成も近づいていた」

 

「それなのに、なぜ中止になったのですか」

 

「悲劇が起こったのだ。この訓練飛行中に後藤操縦士が墜落、焼死した。

僕と藤本、そして後藤と諏訪が組んで、海軍機で、長距離飛行訓練をした。

僕と藤本は先に霞が浦から九州の大村まで飛んで帰ってきた。その後、

後藤・諏訪組も同じコースを飛んで、帰りに諏訪が操縦したが、悪天候

で低空を飛行中柿の木にひっかかり、頭から墜落爆発した。諏訪は何とか

脱出したが……残念だ。昭和3年(1928)2月のことだった」

 

「この事故が中止の原因ですか」

 

「いやこの事故が直接の中止の原因ではない。この事故でむしろ一層関心

が高まったくらいだった。原因はこれだけの国民の盛り上げにかかわらず、

逓信省航空局が、航続力不十分を理由に、堪航証明書を出そうとしないのだ。

これがないと飛ぶことが出来ない。

 

 航続力は心配ないと、川西側は航空局に強く申し出て、海軍側もとりな

してくれた。しかし、搭載燃料と航続距離をめぐり激しく対立し、航空局

側はますます硬化するばかりだった」

 

「なぜ、そんなことになったのでしょう」

 

「いや! 陸軍と海軍の対立があったのだ。当時航空行政は、陸軍主導で

行われていた。海軍はこの太平洋横断を契機に主導権を取り戻そうとした。

それに対抗して航空局の技術課長の児玉常雄陸軍中佐(日露戦争の立役者

児玉源太郎の息子)などは、『飛行協会が川西と組んで一般から金を集め

ているのはけしからん。こんな計画を叩き壊せ!』言っていたということ

だ。彼は国策の航空輸送会社設立法案を国会に提出し、国際定期航空を拡

大するつもりだった。だから、横断機の製作設計と実行を許可して遭難事

故でもおこされたら、自分の責任になると考えた。また成功すれば海軍の

手柄となり、海軍の力が強くなる。最初から計画には消極的だったのだ」

 

「それでどうされたのですか」

 

「実行機のさくら号が完成して、それを目の前に見たとき、僕は悔し涙を

流した。そして本気で航空局など無視して、一人でも飛んでやろうと思っ

た。僕は根室からアリューシャン列島沿いにアラスカまでなら、絶対に成

功する自信があった。社長は僕の気持ちを分っていたようだが、川西家の

川西清兵衛会長が『法を犯してはならない』と行かせなかった」

 

「その後は、川西航空機のテストパイロットになられるのですね」

 

「航空局は日本航空輸送株式会社を設立させて、順次民間航空会社の路線

をこの会社に統合させていった。僕のいた川西系の日本航空も同じ運命を

たどった。川西機械は飛行機製造部門を独立させ、川西航空機株式会社と

して、武庫川尻にある、鳴尾ゴルフ場の一部を買収して新工場を建設した。

昭和4年(1929)僕はこの会社に、転属して新しい機種のテスト飛行

をすることになった。横断の中止以降、海軍は川西に4年間で150機も

の生産を発注してくれたのだよ。こうなると海軍の指定工場にならざるを

得なかった。僕のテストも海軍機が多くなっていった」

 

「貴方はその当時、宝塚ホテルから会社へ通い、なかなかのダンディーで、

女の子にスター扱いされていたという話を聞いたことがありますが……」

 

「アハハ…。こんな歌があるだろう。

  飛行機乗りにーは 

娘はやれーぬよ 

  今日は花嫁 明日は後家、ダンチョネー」

 

「それでは、そのころの貴方の夢は何だったのですか」

 

「僕はね。その頃水上飛行艇の操縦を多くするようになって、この太平洋

全体を広大な国際水上飛行場だと考えるようになったのだよ。だから大型

水上飛行艇で太平洋を囲む国々全部を思い切り飛び回りたいという夢を持

つようになってきた」

 

「貴方が亡くなられた後、世界初の大型飛行艇は完成してその内の18機

も、横浜―サイバン―チモールの定期航空便やサイバンを中心に、バンコ

ック、トラック、ポナペ、など、日の丸をつけた巨大な飛行艇が、西南太

平洋の全域を飛び回った時期があったのですよ。やがて、米英との戦争が

始まって、川西航空機は海軍の戦闘機作りを主体とした大軍需会社となり、

技術陣は世界最高水準の名機『紫電改』を作ましたが、空爆により工場は

破壊され、敗戦。今はもう鳴尾の工場はありません。しかし、会社は新明

和工業に引き継がれ、飛行艇作りも始めています」

 

「それだ! 最高技術の水上大型飛行艇の多くが日本の明日を拓く。作れ!

 作れ! そして、広い太平洋を自由に飛び回り、その周りの国々と交流

をし、共に栄える。僕はそれを見つめているよ……」

 

 私の前のレリーフのプロペラが、回り始めた。すると銅板の蝶の羽がは

ばたき、裸の天使を乗せて、空中高く舞い上がった。

 

 私はその後を追い、彼が活躍していた大空を見上げたまましばらく、そ

こに立ちつくしていた。    

 

                     (平成23年3月18日)

 

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:★:cosmic harmony
      宙 平
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