皆様ご存知の浦島太郎の伝説がある。―昔々、浦島は助けた亀に乗せられて、竜宮城へ来てみれば―。
そこでは、歓待されて面白く、夢の中のように月日が立ってしまう。そして暇乞いをして、玉手箱をも
らう。ところが帰ってみれば……。
―もと居た家も村も無く、道に行きあう人々は、顔も知らない者ばかり―。心細さに玉手箱を開ける
と、たちまち太郎は煙とともにお爺さんになった。
私は75歳を過ぎる頃から、この浦島太郎の哀しみが、身にしみて感じるようになった。それはお爺
さんになったことではない。私が記憶している風景や出来事を人に話しても、全然通用しなくなった哀
しみである。
西宮の空襲で家を焼失する前、私は西宮市今津社前町から甲子園球場や甲陽中学に行くのに、福應神
社(今は場所が変わっている)の前から常源寺の門前を通った。久寿川を渡ると南に大きな発電所の3
本煙突が見えた。そして長く続く公設市場の入り口を右に見て、すぐに甲子園焼きの木寅屋菓子店の前
を通り、次の新川は高瀬橋と呼ばれる石橋を渡った。そして教会や二葉幼稚園のあった住宅地を抜ける
と甲陽中学の塀と別館があり、松林の向こうに球場が見えてきた。
私はシルバー人材センターのこの地区在住の何人かに、当時のこんな今津の風景を語りかけたことが
ある。みんな聞いてはくれたが、3本煙突や木寅の甲子園焼きを知らない人ばかりだった。年齢はそう
変わらないのだが……。この地区は空襲で焼け野原になり、その後高速道路が通り、インターチェンジ
が出来たりして様相を一変しているから無理は無いのである。そして私は、年齢とともにそんなことを
語るのが、空しく感じるようになった。浦島太郎の哀しみが分かってきたのである。
その後、図書館で借りて読んだ野間宏の『青年の環』のなかに私の通っていた道と同じ道を、今津の
発電所に勤めていた夫をもつ、よし江という女性が通る記述があって3本煙突も、甲子園焼きも新川の
石橋も出てくるのである。野間宏は私より16歳も年上だったが、今津の発電所の社宅に住み、私と同
じ今津小学校に通っていた。私はうれしくなって、幾度もその場所を読み返した。
昨年の秋、私と同じ浦島太郎の悲しみを感じている人がいることを知った。
それは、戦時中西宮北口にあった航空園のことについて私が電話をもらったことからである。大阪市
立常盤小学校を卒業した岩田さんという女性からであった。小学校の恩師だった方がどうしても知りた
い昔の思い出として、同窓会に招かれて来られた時に航空園の話をされ、誰か詳しいことを知らないか
と聞かれたそうである。
「広場に日本の戦闘機や爆撃機が並んでおいてあった。その操縦席に座って操縦桿を握って昇降舵や
補助翼を動かしたりした。昭和17〜18年で確か西宮北口付近だった」
元先生は、強く印象に残っている小学生時代に体験したその事実を確かめたかったのだろう。しかし、
誰も知っている人はいなかった。岩田さんは恩師のために西宮市史などの資料を調べたが、航空園があ
ったという記述はどこにも無かった。インターネットで「西宮航空園」を検索すると、私が以前に書い
たエッセー「少年―大空への憧れ」に出会った。
その中には確かに航空園の話があった。だが、作者は私のハンドルネームである空色宙平になってい
る。が、そのエッセーの載っているホームページはパソコン同好会「eーsilver西宮」と分かって、私と
つながった。
私はこの航空園のことを昭和17年、当時の大日本飛行協会により設立運営され、阪急西宮北口駅西
南一帯、今の証券会社やスポーツジムや県立芸術劇場から西のマンション群一帯の広い場所を占めてい
たと書いている。そこに航空機の展示場や落下傘塔、グライダー場などがあったことは事実であり、元
先生の記憶に間違いないことを岩田さんからの電話で伝えた。私のエッセーは岩田さんによりプリント
され届けられた。そして元先生から私宛に手紙が来た。その中には
「私の人生その中で、どうしても自分自身納得のいかない。また満足の出来ない事件の一つが、西宮北
口の駅前広場の実物の飛行機の展示でした。(中略)その思い出を共有するために同年輩は勿論のこと、
今でもグライダーを愛している仲間や飛行機好きの知人等を機会あるごとに尋ねても『そんなこと見た
ことも聞いたことも無い』『何か勘違いしているんや』位しか返事が返ってきませんでした」
そして、その時代は岸和田の小学生だったから、他に話の糸口になるようなものは思い出せず困って
いたが、岩田さんから届けられた私のエッセーを読んで、
「今までにもうれしい出会いがありましたが、その何十倍何百倍も感激し、大粒の涙を流しながら、こ
れで人生の終いじたくが出来そうですと、岩田さんに伝え、エッセー『少年―大空への憧れ』の全文を
何回も拝読しました」と、書かれていた。
私も元先生も昭和六年、満州事変が起こった年の生まれである。小学校の全時代を通じ、中学二年ま
で戦争が続いた年代である。その年代の少年が、大空への憧れをもち軍用機の操縦桿を握ったことが、
一生忘れられぬ思い出となったことは、当然の気持ちとして私には痛いほどよく分かる。
また、日本が敗戦となるやいなや、国内では飛行機の展示など戦争に関するものはすぐに取り除かれ、
誰もそのことには何も言わなくなった。役所も新聞も学校の先生も一般の人もみんな言うことが、コロ
リと変わった。そんななかで、西宮航空園は忘れ去られたのであった。
今年2月4日から6日、西宮市が東館8階で開いた西宮「あの頃あの場所」写真展でも航空園や3本
煙突は無かった。
浦島太郎が故郷へ帰りついたとき、玉手箱を開けなくても、年を取っていたのは当然だと私は思う。
しかしインターネットは無理としても、昔の絵か文章で、或いは古老の語り部をつれてきて話し合い、
哀しみを癒してあげ、竜宮城での詳しい記録を残すことがなぜ出来なかったのだろうか。
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■■■ Cosmic Harmony
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