From Chuhei
尼崎古城(大物城)跡から新天守閣へ

尼崎の地に城が出来たのは、かなり昔である。あの「応仁の乱」の西軍の旗頭大内正弘 の軍勢が、1473年(文明5年)12月7日に尼崎城を攻め落としたという記録があり、 すでにその頃から城があったことが分かる。(尼崎市史第4巻、萩藩閥閲録「大内政弘 感状写より」)

戦国時代のはじめ、将軍を擁立し、幕政を統括していた管領細川政元が亡き後、その養子 同士、高国と澄元の細川両家間の抗争が続いた。細川澄元が堺を拠点としていたのに対し、 細川高国は尼崎を拠点として勢力を蓄えて対抗するため1526年(大永6年)海上交通 の要衝尼崎の大物に尼崎城を築いたが、これが、尼崎古城、または大物城と言われている 城である。高国はその後、対立する澄元の病死もあって、京を制圧し天下人となるのだが、 それからも色々な経過があって、巻き返しを図る澄元の子晴元らの勢力に追われ、総崩れ を起こし最後はこの大物の尼崎城に逃げ込み、捕らえられ自害に追い込まれる。これを 「大物崩れ」と呼び、今はその碑が阪神大物駅西側に立っている。

織田信長の時代となり、ここは有岡城(伊丹城)主、荒木村重の領地となり、尼崎城には、 その子の荒木村次が城主となる。信長に対する村重の謀反事件が起こり、信長の軍勢に有岡 城を囲まれた村重はひそかに、尼崎城に逃げ、さらに西国へと逃げ延びるが、残された有岡城、 尼崎城の荒木一族の郎党、家臣の家族など、すべて信長により虐殺される。

本能寺の変の後、豊臣秀吉の時代には、尼崎城はその配下に置かれていたが、大阪夏の陣後、 江戸幕府は大阪の西の守りとするため譜代大名の戸田氏鉄(うじかね)を尼崎藩主に任命し、 元和3年(1617年)新たに城の築城を命じた。これが江戸時代に出来た近世尼崎城である。

この城はその後、青山家、松平家が尼崎藩主を務め、4層の大天守に、多門櫓の小天主が、付 属する美しい姿は琴浦城とも呼ばれて、江戸時代の尼崎のシンボルとなっていた。そして、明 治6年(1873年)の廃城令で城の建物は解体撤去された。

平成27年(2015年)になり、ミドリ電化(現在エディオン)創業者の安保詮(あぼあきら) 氏が、「創業の地に恩返ししたい」と、約10億円の私財を投じて尼崎城の天守を建設し完成後 に尼崎市に寄贈することで合意し、残っていた図面を元に、天守再建が進められた。平成31年 (2019年)3月28日に完成して「開城記念式典」を開き、翌日から一般公開(有料拝観) されている。新しい天守の場所の城址公園は近世尼崎城の西三の丸があった場所にあたる。

令和元年、8月22日。この日、甲子園では夏の高校野球の決勝戦があったが、私は阪神電車を 大物駅で下車して、尼崎古城の跡をさぐり、近世尼崎城の城郭の跡を歩いて、それから、新しく出 来た天守閣に入城する計画を立てた。私はまず、高架になっている大物駅の梅田方面行きプラット フォームの西の端まで行って、西の方遠く、阪神尼崎車庫の向こうに尼崎城天守閣が見えるのを確 かめた。そしてすぐ下を見下ろして緑の木の茂る狭い公園を確認した。この公園の西の端に、細川 高国の大物崩れの碑がある。こうして、この碑と新しい天守との方角と距離を確かめた。私は阪神 大物駅には尼崎県立病院がここにあった頃、東洋医学科や鍼灸に通ったり、近くのライディング スクールで自動車運転免許の更新をしたりして、なじみは深いのだが、大物崩れの碑を見るのは 始めてであった。碑は公園の西からさらに道路をこえた広場の西にあった。「大物くづれの戦跡」 と書かれ横に尼崎教育委員会の説明板があった。

尼崎古城はこの場所にあったのだろうか。この古城の位置については、『尼崎市史』第1巻刊行当時 は、近世尼崎城と同じ場所とする説が採られていたが、その後、近世城下絵図の考証から、近世尼崎 城の本丸の北東、大物の西側が戦国期の城跡と今は考えられている。(図説尼崎の歴史、自治都市と城、 仁木宏記)

確かにWebで、寛永12年(1635年)の尼崎城下絵図を見るとその中に、「古城」と記された 場所がある。その東側に神社があり鳥居まで書いてある。これは今もある大物主神社だろう。私は まずはこの神社まで歩くことにした。

碑から阪神電車のガードをくぐり、南東にしばらく進むと、広場がありそこから段を上がると神社 の境内に出た。賽銭を納めて社殿の左側を見ると、「義経、弁慶隠れ家跡」という小さな石碑があった。 横に説明があり、源頼朝から追討軍を差し向けられた義経と弁慶は、この近くの7軒長屋に潜んで、 西国に逃亡のため大物の浦から船出をしたが、嵐に会い押し戻され、脱出出来ず、結局熊野に落ち、 奥州平泉で最期を遂げたとあった。

この神社の場所までは尼崎古城の区域であったらしいが、古城の中心には本丸と二の丸があって天守 はなく櫓があったとされている。(尼崎地域史辞典)私は地図上、この神社から西へまっ直ぐの線と、 近世尼崎城の本丸から北東に延びた線の交わるところが、古城の本丸のあった場所と考えて、その地点 に行ってみることにした。神社から西に向かって真っすぐに進むと、近世尼崎城の藩主桜井松平氏の 菩提寺深生院の前を通った。そこからさらに進み、行き当たった建物を回り込むと、尼崎港線の鉄道 線路のあった道に出た。その向こうは阪神電車車庫の構内である。尼崎古城の本丸はこの車庫の東の端 にあった可能性が高い。そこは大物崩れの碑から南西になるが、距離はそれほど離れていない。

この本丸があったとされる場所、阪神電車車庫の東端には、電工工場の建物と広場と3階建ての変電所 があった。そして中学2年生の私は学徒動員の電工小隊隊員としてこの場所で電車から取り出される、 モーターの金具を磨いていた。昭和20年6月26日、工場地帯を対象にした大型爆弾による尼崎空襲 があった。広場の端にあった防空壕に入ると、1㌧爆弾らしい落下音が、上空から響いてきた。「落ちて くるぞ、死ぬときは一緒だ」と仲間が叫んだ。爆発音が響き、壕が揺れた。3発の爆弾が落下したのは 同じ北城内で、劇場の平和館などが壊滅し、多くの死傷者が出た。

この場所での出来事は、もう一つある。昭和20年7月19日の尼崎夜間爆撃の翌日だったと思う。広場 の片隅に前日の爆撃の時に落とされたと思える、エレクトロン焼夷弾の不発弾が集められていた。これは 日本家屋焼失作戦に作られた油脂焼夷弾と違って、細く銀色をしている。マグネシュウムとテルミットで 出来ていて、白く輝いて燃焼し、高熱を出す。私と仲間3人で、この不発弾を持って変電所の3階に上がり、 テラスから投げ下ろしてみた。2発が破裂して、広場にあった木材に火が付いて、工場中大騒ぎとなった。 皆で消し止められたが、動員の2年生全員が集められ、全員一発ずつ殴られた。それで事は終わった。が、 この防空壕のあった広場には8月9日から10日の夜の空襲で1㌧爆弾が落ち、終戦時はここに大きな穴が 開いたままになっていた。この尼崎古城の本丸の場所は、先の大戦中、私の戦場だったのである。

鉄道線路のあった道を南西に進むと、阪神電車車庫の敷地に沿って西に向かう道があるが、昔はこの道に 沿って西の庄下川から分かれた大物川が流れていた。東は神崎川支流とつながっていたので、この大物川の 北にあって、さらに北側にも川があった尼崎古城も、川の南にあった近世尼崎城も天然の堀に囲まれた島の 中の城といえる。

私はさらに南西に進み、次の道を西へ歩くと、右側に三の丸公園があり、その左側には立派な石柱があり、 そこに「市立文化財収蔵庫」の標識があった。ここには中世尼崎城の模型や、数々の文化財の展示がある らしいが、今は建物が工事中で、展示は中止して中には入れない。しかし、この場所に近世尼崎城の、 回りが正方形をした内堀で囲まれた城郭の中心があった。そして4層の大天守もここにあったのである。 その後、この場所の北半分は尼崎高等女学校、南半分は尼崎第一小学校となり、その西側に尼崎市役所が あった。今は文化財収蔵庫の南は市立明城小学校となっている。私は明城小学校の西側を南に歩き、阪神高 速神戸線の手前を左に回り込むと、そこにある「尼崎城跡」の大きな碑の前に立った。横に尼崎市教育委員会 の説明板があり、このあたりは、正方形に城郭を囲む内堀と中堀を結ぶ横堀や、内堀と外堀を結ぶ竪堀が あったところ、と書かれていた。

私は文化財収蔵庫の前の道に戻り、今度は市立琴の浦高等学校の壁に沿って、右に曲がり北に進むと突然、 左側に広い緑の広場が開け、その向こうに、新しく出来たばかりの天守閣が姿を現した。さすがに新しい城 の白い壁と黒い屋根のコントラストは、美しく映えている。私は新しい城の周りを回ってから、入城すること にした。天守の北側と西側には堀が作られていた。阪神電車の尼崎駅からは庄下川の橋を渡り石垣と壁の道を 通って、南側の緑の広場から入城するようになっていた。

戦国時代と江戸時代の城跡を歩いてきた私は、新しい天守閣に感動して入城した。入場料500円の チケットを自販機で買うと、すぐエレベーターで5階まで上がって、そこから1階ずつ降りてくる仕組みに なっている。最上階の5階に着くと、部屋板の木の香りがした。この階は展望ゾーンで3方向に大きな窓があり、 手前のタブレットはそこからの江戸時代の風景を映し出していた。私は北側に見える阪神電車車庫の古い 赤レンガを見て、学徒動員の頃を思い出していた。4階は城郭画家として有名な萩原一青氏(1908~ 1975)の「名城手拭百城」の展示があった。3階は金のふすまの前でのコスプレを体験するコーナーだった。 私は若い外国人のカップルの女性が、お姫様の色打掛を着て、男性が写真を撮っているのを見ていた。他に忍者、 兜、陣羽織、侍姿など色々なコスプレ衣裳があった。2階は映像による体験コーナーで、ゲーム風に剣術や鉄砲 の体験が楽しめる。この階にあるVRシアターは、巾10㍍の巨大画面で江戸時代の城や城下町の賑わいの様子 を映し出して、映像上で落語家の桂米團治の近松門左衛門に扮した語りで、その画面の説明があった。私は10 分間、画像を見てその語りを聞いた。1階には、昔の籠が展示され、今の尼崎の地図などが床一面に映し出され、 他に尼崎を紹介した写真などがあった。出口は入城したエントランスにつながり、そこには名物の販売コーナー もあった。

城を出た私は再び緑の広場から、振り返って天守閣を仰ぎ見た。「昔の形を復元した天守閣が出来て本当に 良かった」と私は思った。天守の上の空も青く雲も白く、風もさわやかである。ここはもう工場地帯の煤煙に 汚れた灰色の街尼崎ではない。数々の詩歌に詠まれた白砂の浜辺にあり、異浦(殊うら)、に美しいとされた 「琴浦城」が復活した魅力ある深い歴史のある街なのだ。

私はこの日、阪神電車尼崎駅内の喫茶店で軽く昼食を取った後、さらに本興寺、大覚寺、長遠寺など、11の寺が 集まっている寺町を歩いて出屋敷駅から帰ることにした。

(令和元年9月2日)

********
宙 平
********