あの夏の思い出
 
 昭和20年6月、中学に入学して2か月後のことです。B29による油脂焼夷弾の絨毯爆撃で
私の住んでいた御影(当時兵庫県武庫郡御影町、現在神戸市東灘区)の家は完全に消滅し、その後は
姉の嫁ぎ先、石橋(池田市)に世話になっておりました。その家も爆撃に遇いあいましたが、
油脂焼夷弾ではなかったので、なんとか消し止めることが出来、消失は免れました。しかし、伊丹
飛行場に近かったので艦載機が低空でやってきて、激しい機銃掃射、防空壕に逃げ込む暇もなく、
部屋の隅の押入れに頭を突っ込み、敵機が飛び去るのを待つことなどもしばしば、昼も夜も、空襲・空襲に
悩まされておりました。何とか空襲から逃れたいと言うのが唯一の願いでした。
 
義兄の昔の取引先で石川県輪島にいる人が、空いている家があるから貸してもよいと言うので、そこなら
B29は飛んでこれないだろうと、急遽疎開をすることになりました。8月に入って数日後だったと思いますが、
持てるだけの身の回りの物をもって、夜行列車で能登半島の北端に向かう事に、夕方に国鉄大阪駅の
中央コンコースの所定の改札口で長蛇の列に並び、もし空襲警報が出たら、駅の裏側に逃げよう、解除になったら
早く戻ってこれるようになどと言いながら、時の来るのを待ちました。
 
真夜中近くになり、漸くホームから列車に乗り込みましたが、いっぱいの人で客室には入れず、乗降口の脇の
便所と洗面所の間の通路から先に動くことは出来ない。それでも何とか乗り込めただけでもましな方、列車が
動き出して京都までは覚えていたのですが、それまでの疲れが出たのか、洗面所の扉にもたれて立ったまま
眠ってしまいました。夜が明けて間もなく金沢に着き、乗換のため下車しました。
 
金沢から輪島行きの七尾線はすいており、ゆくりと客席で休むことが出来き、昼過ぎに輪島に着きました。
やっとここまで来れたと一安心、しかしそれから数日後、ソ連参戦の知らせがあり、「えらい所へ来てしもた」
ということになった次第です。
ソ連参戦になってからも、ソ連が空襲をしてくる様な気配もなく数日が過ぎました。
よく晴れた暑い夏の朝であったと記憶しておりますが、「正午に重大発表があるから
近くの神社に集合するように」と町内会より連絡があり、昼前、蝉しぐれの神社の
境内に行ってみると大勢の人が集まっており、ラジオ放送が聞ける用意がされており
ました。正午の時報の後、玉音放送で終戦の詔勅が読み上げられました。最初は
聞いていても何のことかさっぱり解らず、詔勅の後のアナウンサーの解説で、戦争を
やめることになったのだとわかりました。
その夜は、灯火管制が解除され、電燈に掛けられていた黒い布を外して、部屋中明るく
なった中で床に就くことが出来、夜もこんなに明るかったんだと実感し、平和の有難さ
を感しつつ眠ることが出来ました。
 
6月5日の空襲で焼け出されてから、ほとんど学校に行った事がなく、漸く空襲もなくなり
何とかして学校に戻らなければ、しかし食料事情もあり、輪島を離れずらかったのですが、
9月になって母や姉たちを残し私だけ先に大阪に戻ることになりました。
 
久しぶりに登校してみると、高架の上にあった阪急西灘駅(現在の王子公園駅)は焼け落ちて
東寄りの高架に上がる手前に枕木を並べた木造の仮駅ができていました。
学校に入ると友達たちが「お前今までどないしとってん、出席簿に名前あれへんぞ」と言われ
担任の教師に事情を説明し、名前を復活させてもらいました。クラスは入学当初から見れば
半分くらいになっていたかと記憶しております。
 
ある授業(修身?定かではないのですが)教師が黒板に「終戦の詔勅」を書き、生徒はこれを
ノートに写して暗記するようにとの課題が与えられ、敗戦の悔しさを一生忘れないように、
ということかと推測するのですが、間もなくこれは中止となりました。(進駐軍の管理下に
おかれたためか?)
小学4年生で暗記させられた「教育勅語」は今でもその大半を記憶ししているのですが、
この詔勅は長いし、短期間であったので今でも記憶しているのは次の2か所だけです。
   「米英支蘇四国に対し共同宣言を受託する旨通告せしめたり。」
   「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」
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長々と古い話を書き並べ申し訳ございませんでした。
会員の中には、この当時を体験されてない方も多いかと思いますが、
こんな時があったのかと感じて頂ければと存じます。

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