From
Chuhei
70年前の戦争末期、本土決戦にそなえ、日本政府中枢機能移転のため長野県
松代地区の山中に掘られた地下壕です。(写真はWikipedia松代大本営跡より)
|
アメリカ国立公文書館に現存する日本分割統治計画書の図です。
東京は米、英、中、ソ4カ国、近畿と福井県は米、中2カ国による
共同統治の予定でした。(図はWikipedia日本分割統治計画より)
|
狂気の嵐
今年、平成27年は終戦から70年目に当たる。思えば、終戦の年の昭和20年のはじめ、
私は軍隊の予備校のようになっていた中学校で、2人の配属将校と退役軍人の教官から毎日
厳しい軍事教練を受けていた。中学校には歩兵銃が並んでいた。分列行進の時はそれを担い
だ。行軍は甲子園から神戸の護国神社まで往復、この時は木銃を担いだ。
ところが、軍から突然、学校にある銃は軍の倉庫まで全部提出するようにとの指示があっ た。私たちクラス40人は銃1丁ずつを持って、大阪大手前の倉庫へ運んだ。
私はその時、疑問を感じていた。《中学生も本土決戦となると、勤王中学隊となって戦わ ねばならないではないか? それなのにこんな教練用の三・八式歩兵銃までも、取り上げて どうするつもりだろう?》
そして突然、甲子園にあった中学校には陸軍暁部隊が駐屯してきて、軍隊と同居すること になった。敵の本土上陸に備えた舟艇部隊だった。阪急甲陽園駅のすぐ北の山や太師道に通 じる高い尾根の地下には海軍が本格的な壕を掘り始めていた。陸軍が海に備え、海軍が山に こもり出す状況から、私は本土決戦がすぐそこに迫っていることを感じていた。
徴兵検査が乙・丙種だった人も召集されるようになり、私の親しかった従兄弟たちも皆軍 人になっていった。後で知ったことだが、この時期、急に徴兵を増やしたため歩兵銃の数が 足らなくなり、徴収した教練用の銃を実戦用に改造して使うようになったらしい。
この年の3月に東京都に所属する硫黄島が死闘の末、アメリカ軍に占領された。続いて油 脂焼夷弾による東京の無差別大空襲があり、大阪・名古屋・神戸・横浜と続いた。そして、 4月に沖縄戦が始まり、壮絶な「鉄の暴風」といわれる交戦の末、6月23日、牛島司令官 が自決し、日本軍の全滅で終わった。私は学徒勤労動員で4月から工場で働いていたが、そ の工場のある尼崎にも1トン爆弾による爆撃が始まった。無差別大空襲は全国の180の地 方都市に及び、西宮の空襲では焼夷弾の雨に私も直撃の危機に見舞われた。家も焼け失せて、 家族は親類の家に寄寓することになった。
6月22日に制定された国民義勇兵役法により、男子15歳から60歳、女子17歳から 40歳まで国民義勇戦闘隊の編成が始められていた。男も女も国民のほとんど全員が兵士と なって、本土に上陸してくる敵と戦う体制が作り上げられた。新聞には竹槍の使い方が出て いて、まず相手の腹を狙って突け! と書いてあったのを覚えている。
そのような中でも、私達は「勝利の日まで」を歌っていた。
丘にはためく あの日の丸を 仰ぎ眺める 我等の瞳 何時かあふるる 感謝の涙 燃えて来る来る 心の炎 我等はみんな 力の限り 勝利の日まで 勝利の日まで
そして、軍は大本営直轄の下、東日本に第1総軍、西日本に2総軍を設置して、「主敵米の 侵寇を本土要域において邀撃す」という作戦要項を決定し、「斃るるも尚魂魄を留めて皇土を 守護すべし」とする神がかり的な「決戦訓」を示達した。そして、「国土決戦教令」では「戦 闘中の部隊の後退はこれを許さず」とし、傷病者の後送も戦友の看護付添も認めないとした。 当時即、軍の教令は、国民への教令にもなってしまっていた。こうして国民全員が玉砕の時を 迎えようとしていたのである。
8月6日、広島に原子爆弾が投下された。
8月8日、ソ連が日本に宣戦布告して、満州・樺太・朝鮮・千島に侵攻を開始した。8月9日、 長崎に原子爆弾が投下された。
そして、8月14日、天皇の御前会議でポッダム宣言受諾決定。8月15日、天皇が戦争終 結の詔書を放送した。
しかし、空襲は8月14日もあり、私は梅田で、大阪砲兵工廠が集中爆撃を受け猛煙が上がり、 爆発音が響くのを聞いた。京橋駅には1トン爆弾が直撃し、駅に避難していた多くの乗客が亡く なった。
日本の歴史の中で、日本人の殆ど全国民が、一斉に滅亡に向かって暴走していったのは恐ら くこの昭和20年、8月までの「この時」以外には無かったのではないか? と、私はいつも 当時のことを思い出す度に身震いをおぼえる。
《軍の決戦訓の通りにしていれば、どうなったのだろうか?》
私はなじみの深いグーグルクローム君を呼び出して対話することにした。
「アメリカ軍は何時日本本土に上陸作戦を開始するつもりだったのだろう?」
「アメリカの計画では、11月1日に南九州大隅半島と宮崎海岸に上陸するオリンピック作戦。 そして昭和21年3月1日に関東地方相南海岸と九十九里浜に上陸するコロネット作戦があり ました。オリンピック作戦だけの参加予定兵員77万人で、その損害予測人員は27万人とい うものでした」
「日本に降伏を促すポッダム宣言がアメリカ・イギリス・中国の3国の名で出されたのは、昭 和20年7月27日だったね」
「その前の7月16日に世界初の核実験が成功します。その報告を受けたアメリカ大統領トル ーマンは、それまで犠牲を少なくするためにソ連の日本への参戦を期待していたのですが、こ うなると、アメリカ中心で戦争終結をしたほうが、戦後の占領地管理分担などが円滑にゆくと 考えます。 一方、日本政府ではポッダム宣言を受けて、明確に拒否することも得策でないとする東郷外 相の意見もありましたが、大本営は当然反対であり、天皇の国体護持(当時日本では一番大切 なことと考えられていた)については明確ではないので、鈴木貫太郎首相は黙っているとい う意味で7月28日「黙殺する」と発表します。しかし3国には「黙殺」は(ignore)と訳さ れ日本が宣言を拒否したと判断されました」
「そして、アメリカの原爆の使用となった」
「流れとしてはそうですが、すでに7月25日には原爆使用を決定していたといわれています。 一方、ソ連は対日作戦の計画を作成していましたが、アメリカの原爆の使用後、あわてて不可 侵条約を破棄して、満州に侵攻します。そのあとでポッダム宣言に加わるのです。しかしソ連 だけは日本がぽっダム宣言を受諾したあとも、南樺太でも攻撃を続け、千島から北方4島へは 9月3日までかけて侵攻し占領しています」
「当初アメリカは日本本土をソ連と共同で攻撃しようと考えていた。ドイツの時もそうだった からね。しかし、原爆の使用はその考えを変えたということか?」
「アメリカの国立公文書館に現存する資料には日本の分割統治計画というのがあります。日本 内地を米英中ソで分割し、東京は米英中ソの共同統治となっています。ソ連は当時北海道の 上陸攻撃も計画していました。アメリカはそれを阻止する方向に変わったのです」
「私が今でも、恐ろしく思うのは、日本が降伏せず徹底抗戦を続けた場合、ソ連は北海道を南 下してくる。それに対抗し、アメリカは少しでも早く日本内地全土を自分の国の軍によって占 領を終わらせたい。その為原爆をさらに日本の各都市に使い、日本全体が死の灰におおわれる 可能性のあったことだ」
「日本は長野の松代地区の象山・舞鶴山・皆神山などの山中に地下壕を作り、日本の政府中枢 機能を移転しようとしていました。大本営、皇居、天皇皇后御座所なども作られようとしてい ました。このような地下壕は各地に作られていました。海軍の日吉地下壕、天理地下壕などは 有名です。大阪の高槻にも作られようとしていました。徹底抗戦の場合は砲弾の嵐と原爆にさ らされながら、地下壕に潜みながらの戦いになったのではないかと推測されていますが、日本 民族滅亡の危機となるほどの膨大な犠牲者が出たことは間違いありません」
「海ゆかば水漬く屍 山ゆかば草生す屍、と死屍の山が日本列島に築かれるであろうことは、 明らかだったのに、なぜもっと早く戦争を止めなかったのか? いつも思う」
「高木惣吉海軍少将等による東條首相の暗殺計画などもありました。和平出来る内閣を作ろう としたのですが、サイパン陥落の責任を取って、東條首相が退任したので実行は中止されまし た。駐英大使だった吉田茂を中心として和平交渉により戦争を中止させようとしたグループは、 憲兵隊からヨハンセングループと呼ばれて監視されていました。ヨ(吉田)ハンセン(反戦) の意味です。グループと見なされていた近衛文麿はコーゲン、幣原喜重郎はシーザー、鳩山一 郎はハリスと呼ばれていました。吉田は近衛と協議して、「近衛上奏文」を作成しました。 天皇に早期に戦争の終結を訴えるものでした。そして、陸軍が親ソ連の方針を取っているが、 これは日本が共産化する恐れのあることも、訴えていました。近衛による上奏は、天皇の事態 の現状の認識にはなったようでしたが、「次に戦果を挙げてから……」ということで終わりま した。昭和20年2月24日のことでした」
「その後、吉田は憲兵に逮捕されるのだね」
「陸軍刑法第99条違反、造言飛語罪というものでした。陸軍衛戍監獄や目黒刑務所に収監さ れていましたが、40日後釈放されました。阿南陸相の裁断があったからだと言われています。 陸軍は吉田本宅と大磯の別邸に3名のスパイを書生や従業員として潜入させていましたが、吉 田は全然このことを察知していませんでした」
「結局、ポッダム宣言受諾するかどうかを討議されたのは、昭和20年8月10日の御前会議 ということになるのだね」
「鈴木貫太郎首相は天皇臨席での最高戦争指導会議(御前会議)でぽっダム宣言受諾の可否を 問います。東郷茂徳外相は天皇の地位存続のみを条件とする受諾案を主張し、米内光政海相と 平沼騏一郎枢密院議長が同意します。阿南惟幾陸相はあくまで本土決戦の主張をしていました が、最後には天皇の国法上の地位存続、日本軍の自主的撤兵と内地における武装解除、戦争責 任者の自国における処置、占領の拒否の4点を条件とする案を出し梅津美治郎陸軍参謀総長と 豊田則武海軍軍令部総長とがこれを支持して対立します。結論が出ないので鈴木首相は天皇に 最終判断を願います。天皇は『外務大臣の申している通りに同意する』と、即時受諾案に賛成 します」
「最終の受諾決定は8月14日の再度の御前会議まで延びているね」
「連合国側の回答は、天皇および日本政府の国家統治の権限は連合国最高司令官に従う (subject to) ものとする。と、ありました。外務省はこの文章を『制限の下に置かれる』と訳 し、あくまで終戦を進めようとしたのに対して、陸軍では『隷属するものとする』だと解釈し、 天皇の地位の理解が外務省と軍の間で別れ、再度天皇にその件で判断を願ったのでした。翌日、 終戦の詔勅の放送の前早朝、佐々木武雄陸軍大尉を中心とする徹底抗戦を唱えるグループに 鈴木首相は総理官邸と小石川の私邸を襲撃されます。警備官に救い出されますが、この日は他 にも、過激な将校たちに、近衛第一師団長森赳中将が殺害され、宮城は一時占拠されました。 しかし陸軍首脳部及び東部軍管区の説得に失敗した彼らは自殺をする者、また逮捕された者も いて、日本の降伏表明は当初の予定通り行われました」
「狂気の嵐の時だったなぁ! 戦争は狂気を生むが、最初はそれに気づかぬものだ。ところが 戦争が進んでゆくと、狂気は戦争指導者だけでなく、軍人だけにも留まらず、どんどん広がっ て、狂気が狂気を生む。私は中学生だったが、その中にも熱狂的な軍国少年が大勢いたよ。戦 争が終わっても軍隊式鉄拳制裁を礼賛する者もいた。そして狂気を覚ますのは大変難しい。 今大切なのは、一度狂わせられたら、二度と狂わされまいとする真剣な自己反省と努力がな ければ、また狂わせられるということだ。今、すでにすこし狂わされているのかもしれないの だよ。それには常に戦争の実態を語り継ぎ、又真剣にそれを聴くことだ。と、私は思っている。 あっそうだ! 新語・流行語大賞2014年間大賞に『集団的自衛権』が選ばれたのも、どこ かに将来の狂気拡大の気配が感じられる言葉だったからかもしれないね」
「それは、『ダメよ〜ダメダメ』ですね」
(平成27年1月5日)
参考文献 保阪正康「太平洋戦争を考えるヒント」PHP研究所刊、2014年 江口圭一「大系日本の歴史二つの大戦」小学館刊 1993年 Wikipedia「ヨハンセングループ」「ダウンタウン作戦」「鈴木貫太郎」「宮城事件」 「松代大本営跡」
******* 宙 平 ******* |
小嶋 裕 様
◆◇◆今日は 大塩 二郎です◇◆◇
エッセー「狂気の嵐」を拝読しました。
70年前のことを良く覚えておられることに感服します。書き留めておられることも多い
のでしょうが・・・・・
また文献からいろいろ調べられたご努力にも感心します。私もYouTubeで日本がなぜあの
戦争に向かってしまったかの動画を良く見ます。
あの忌まわしい戦争のことは、70年も過ぎた今となっては、今、75才位の方以上でないと
実状を記憶しておられないかと思います。忘れ去られられないことと、歴史を繰り返さない
ためにも多くの記録を残すことが大切ですね。
しかし、あの戦争は今となって考えてみると、昭和16年12月8日の「ニイタカヤマノボレ」
の暗号で、真珠湾攻撃をしてしまったことが、間違いの始まりでしょう。
軍部の思い上がりで、「虎の尾を踏む」ミスをしてしまったことです。日本は常に神風が吹く
とでも思ったのでしょうか。
ドイツ国民も、ヒットラー首相の演説に、群衆心理を引き起こさせたことも失敗でしたね。
私も元気であれば「私の8月15日」を書いてみたいと思っています。
あの戦争犠牲者の人数も正確な数字は解らないと云われていますが、下表のような記録
もあります。西宮市は敗戦寸前の8月の数日のようですが、戦災死者825人と云う記事も
あります。私の家が罹災した神戸市は、私の肉親3人も含めて6200人位とあります。
もっと多いのは、軍人の戦死者は210万人と云われています。
世界中の国の指導者は「戦争をする政治家は愚か者」であることを知るべきである。
**********************
大 塩 二 郎 oshio@jasmine.ocn.ne.jp ********************** |