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Chuhei
この写真は6月に封切りされる映画「バルトの楽園(がくえん)」のロケセット
の正門です。この日はオープン記念日で風船鳩を飛ばしてお祝いをしています
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板東俘虜収容所
私は早速、三宮から高速バスで徳島に向かった。平成十八年三月二十一日のことだっ た。この俘虜収容所というのは、大正三年に始まった第一次世界大戦の時、ドイツ人 俘虜を収容していたもので、今回はそれと同じものを、同じ板東の地の近くに立てた のである。
これは、六月に公開される映画『バルトの楽園(がくえん)』のためのロケセット なのだ。しかし、映画撮影のためとはいえ、総工費三億円、六ヵ月をかけて一万平方 メートルの敷地に建設されたセット群は、細部に至るまで当時のままを意識して造ら れ、背後の風景までも、九十年前の様子を再現されているという。そして、私の訪れ たこの日が、オープンセットを一般に公開する初日だった。
三宮から一時間五十分、午前八時二十分に私はJR ルバスがロケセットまで出る。私の乗ったバスは収容所のロケセットがオープンする 十時に、三十分早く着いた。そこは杉の古い大木のある大麻比古神社から川を隔てた 広場であった。すでに地元の人々らしい多くの見学者が、門の前で開場を待っていた。 門というのが二本の木柱の間に門灯を高く渡したもので、向かって右側に当時と同じ く坂東俘虜収容所と書かれた木札があり、その時代の軍装をした衛兵が銃を右手に立 てて番についていた。また門の前には町並みのセットも作られて、すべてが昔のまま に再現が計られていた。
この板東の地に、俘虜収容所が出来たのは一九七一年(大正六年)の四月であった。 大正三年の青島攻防戦で降伏して、日本に護送されたドイツ人捕虜は四六〇〇余名と いわれ、日本各地に分散収容されていたが、収容施設に限界があり、松山、丸亀、徳 島の収容所の捕虜を転収する目的で新しく造られたのがこの坂東俘虜収容所であった。
さて、第一次世界大戦はドイツ帝国を中心としたオーストリア、ハンガリー側と、 その膨張に脅威を感じたイギリス・ロシア・フランス側の対立を背景に、オーストリ ア皇太子夫妻のセルビア人による暗殺事件を発端として起こったのであった。日本は 当時日英同盟を結んでいたこともあり、大正三年八月二十三日、ドイツに宣戦した。 そして、ドイツ領南洋諸島を占拠し、ドイツが東洋における根拠地としていた青島を 攻撃した。
当時、中国の山東半島にあるドイツの租借地青島は、大きな並木通、教会の塔、き れいな海水浴場、物資の集積地でもあり、理想の植民地といわれていた。また三ヵ所 の砲台を中心に強固な要塞を築いていた。日本軍は久留米の第十八師団を主力とした、 二八〇〇〇の兵力に、イギリス軍一〇〇〇名を加え、中国の竜口、労山に上陸し、青 島を包囲した。一方ドイツ軍の方は急ぎ召集した義勇兵を加え五九二〇名の兵力とな った。総攻撃は十月三十一日に始まり、十一月七日遂にドイツ軍は降伏した。日本の 新聞は青島陥落を高らかに報じ、各地で戦勝の提灯行列なども行われた。
この戦いは、日本軍が簡単に大勝利を得たように報道では伝えられたのだが、私は 大変な死闘が繰り広げられたのではないかと思っている。例えば、ドイツ軍の記録に よると、日本側の死者一三〇三名負傷者四一〇〇名に対しドイツ側の死者一八九名負 傷者五〇〇名である。日本軍の記録でも日本側の死者一〇一四名に対しドイツ側の死 者二〇九名である。これは、攻撃する側が相当に苦戦したことを物語っている。
また従軍したドイツの宣教師が残している日記によると「日本軍の攻撃は犠牲をか まわず突進させる」と激しい肉弾攻撃が繰り返されたことが記され「占領した場所を ドイツ側に奪回された時、奮闘して最後まで生き残った将校が捕虜になるのを好まず、 自ら口中に拳銃を発射して自殺した」また、「戦闘の際、無闇に日本刀を振り回して 射殺される将校がいた」とも書かれている。全力を尽くして戦った以上、捕虜になる ことも良とするドイツ側と、日本側の命惜しまぬ肉薄攻撃との考え方の違いがあつた ことも、この戦闘の死者の数の違いとなったのであろう。
さて、開場の時間が来て、私はロケセットの坂東俘虜収容所の中に入った。すぐ右 の建物が管理棟であった。所長松江大佐の部屋があったところで、椅子も机も棚もそ のままに造られ、小道具がそろっていた。
その松江大佐は立派なカイゼルひげを蓄えていたといわれている。ドイツの俘虜か らはder Bart (ひげ)といわれた。映画の題名『バルトの楽園』のバルトはこのことか ら、きている。明治五年生まれの会津若松出身で、戊辰戦争で官軍に敗れ、朝敵の汚 名を受けた会津藩士の子供として苦しい生活を体験したといわれる。「ドイツ人も国 のために戦ったのだから」といって、一〇〇〇名余の捕虜全員に対して温かい人間的 な処遇をした。映画では松平健がこの役を演じている。
同じく、この管理棟に詰めていた副官の高木大尉は、明治十九年の尼崎生まれであ るが、語学の才に恵まれ、ドイツ語は勿論、ロシア語、イタリア語にも通じていた。 松江大佐を一体となって支え、ドイツ人たちの心服を得ていた。私は管理棟に続く面 会室を覗き、倉庫に続いて酒保と回った。酒保にはカウンターと椅子があり、キリン ビールの提灯が下がっていた。さらに長いバラッケ(兵舎)の中を歩いた。二段ベッ ドではあるが、兵舎というより学生寮のような雰囲気であった。ほかに製パン所や印 刷所があった。また、ミルツという中年捕虜が作ったという浴室もあった。
この日は管理棟とバラッケの間にある広場で、地元の獅子舞などのイベントがおこ なわれていたが、この広場で大正七年六月一日、日本ではじめてベートーベンの「交 響曲第九番 歓喜の歌」が演奏されたのである。
映画『バルトの楽園』は、収容所のドイツ兵と、板東の人々との様々な交流を、描 きながら、最後に捕虜たちの「歓喜の歌」の演奏と合唱に向かって物語が盛り上がっ ていくのである。演奏の指揮者は、軍楽隊長のヘルマン・ハンゼンで、第四楽章まで の全曲が演奏された。合唱は当然男性のみであった。
この収容所では他にも、楽団や合唱団があって活動していた。楽器は青島から持っ てきたものの他、救援団体の援助、捕虜手作りのものまで、苦心して整えていた。ま た、演芸、出版、のほか、活動は畜産、食肉加工、製パン、製菓、野菜栽培にまで及 び、販売や地元指導までしていた。これは大正七年十一月に大戦が終わった後も続き、 役目を終えたこの収容所が閉鎖されるのは大正九年二月のことである。
私は、ロケセットを出て、大麻比古神社の裏手にある、めがね橋とドイツ橋を見に 行った。これこそ捕虜たちが作った現存の石積みのアーチ橋である。両方とも小造り ではあるが、静かな林の中に異国情緒が漂っていた。
私はその美しい橋の姿に、あの青島攻防戦で日本軍なら玉砕したであろう戦いを、 生き抜いて、欧州の技術や文化を日本に伝えた俘虜たちの生命の輝きを感じた。
その後、俘虜収容所跡地のドイツ村公園近くのドイツ舘に立ち寄り、第九シアター で、実物大のドイツ兵の人形が「歓喜の歌」を自動的に演奏するのを聞いた。ドイツ 村公園では、ドイツ兵士の慰霊碑に手を合わせた。
私はJR 神戸のバウムクーヘンで有名なユーハイムやパンのフロインドリーブ、そして洋菓子 のデリカテッセンの創業者は、板東ではなかったが皆、青島から日本へ来たドイツ人 捕虜だった。日本は彼らの影響を大きく受けている。
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