From Chuhei
万博公園を走る

―ウエスタンカップリレー大会―

地図と磁石を持ち、地図上に示されたいくつかの標識(コントロール)を見つけて回る、 その速さを競う競技がオリエンテーリングである。そして、3人が1組となり、リレーをし て競いあうこともある。その本格的なリレー大会を大阪オリエンテーリングクラブが初めて 開催したのは、1982年だった。場所は大阪の信太山で、調査して作った地図のタイトル は「白狐丘陵」、Aクラスの男子と女子の優勝チームには優勝カップを渡すことにして「リ レーカップ82大会」と名付けた。私はこの時コースの設定と競技の進行運営全般を担当し ていた。50歳の時だった。

この大会でカップを持ち帰ったのは男女とも、OLP兵庫クラブだった。そのクラブの芝昌 宏さんから、次の年からウエスタンカップリレー大会という名称でカップを持ち回りにして、 関西のオリエンテーリングクラブで順番に開催運営することが提案された。そのウエスタンカ ップリレー大会がほぼ毎年続けられ、今年は34回大会として太陽の塔のある万博記念公園で 関西学生オリエンテーリング連盟主催のもとに行われることになった。

かつて、リレーカップ82大会を運営し、ウエスタンカップリレーにも初期の頃よく参加し ていた私としては懐かしいこの大会にはぜひとも参加したい、しかしリレー大会には組む相手 が必要であった。リレー大会に参加しょうという人は20歳代が中心で80歳以上はいない。 86歳の私一人だけ図抜けて最高齢で、走る速度は参加者平均の3倍はかかる。天候や体調に より直前キヤンセルの可能性も高い。そこでリレーではなく1人で走れる個人の部に参加申し 込みをしていた。ところが同じクラブの76歳の田中さんから一緒にリレーを組もうとメール があり、クラブで中心になって組み合わせの世話をしてもらっている56歳の沖浦さんからも、 一緒に組んで良かったらMIXオープンクラス(性別や年齢に制限がなく参加自由のクラス) のリレーに申し込みをする、とのメールがあった。リレーができる喜びと、ミスや棄権が出来 ない緊張感を、私は同時に感じた。

2月18日、日曜日。少し寒いが天候は晴れだった。万博記念公園太陽の塔北東、下の広場 の青空会場には、カップ争奪がかかるクラブ代表59チーム、一般・その他51チーム、個人 参加者19名が集まった。

11時30分、代表チームの第1走者が一斉にスタートした。最初はお祭広場北西の園地の角 のスタートコントロール(スタート標識)に向かって走るがそこからは、それぞれの地図の①の コントロール(標識)目指して分かれて走っていく。次いで11時40分、その他のチーム・個 人が一斉にスタートした。私の組んだチームの第1走者沖浦さんも、元気に駆けていった。私は 第2走者、田中さんは第3走者である。沖浦さんがチェンジオーバーゾーン(タッチして次の走 者にリレーを引き継ぐ場所)に帰ってくると、タッチして私が走ってコースを回り、出来るだけ 早く次の田中さんに継がなければならない。

1970年、この場所で日本万国博覧会が開かれ世界中からの多くの人々を集めた。この年の 3月15日から9月14日までの間、私は日曜日ごとに、ここに来て、116棟あった各国・各 企業・などのバビリオンはほとんど見て回った。私が38歳の時であった。風景は今、全く変わ ってしまっている。その後にも幾度かこの記念公園を訪れているが、その都度公園の感じが変わ っていて、いつも新しいところへ来ている思いがしていた。私は待機している間、今日はこの公 園のどんなところを走るのかと考えると、待ち遠しく思えてきた。

スタートから28分42秒で第1ランナー沖浦さんがチェンジオーバーゾーンに駆け込んでき た。私は右手を大きく出してタッチした。私は走りながら封印されていた地図を開いた。自分の コースはタッチしたあと、初めて知ることが出来る。そしてコースには幾通りかの種類があり、ス タートコントロールまで走ったあとは、まず自分が持つ地図を見て、その①の地点まで方角を定め て走り、①を見つけると次いで②へと、番号の順番に走る。私の地図には21ヶ所コントロールが あった。距離は3・5㌔、高さは50㍍である。①の柵の角は太陽の塔の中心から西南の今は森と なり木が密集している地帯、その地帯の開けた空き地に入ったら見つかった。(万博の時はこの一帯 はオーストラリア館に続いて大きな丸いドームのアメリカ館があり、月の石の展示が人気で、いつ も長い行列が出来ていた。4時間待の時もあった)西へ進み径の分岐②があり、池の飛び石を渡り、 径の曲がり③を見つけた。さらに北西に向かい、池を回って④・⑤・⑥と進んだ。(この付近には三 菱・富士・日立グループそれぞれのバビリオンがあった)ここから東の方向に向きを変え、⑦茂みの 間、⑧西の広場の角と進む(ここにはガスバビリオン・人間洗濯機を展示していたサンヨー館・サ ウジアラビア館などがあった)⑨へは遠く離れた太陽の塔の東側の地帯に向かう。(塔の近くには フランス館があり、軽快な音楽を流していた。その横にはドイツ館、その向かいにはカナダ館があ った)公園正面入口の前を過ぎ、坂を登り東へ進み石垣の終わりに⑨を見つけた。(ここには三菱 未来館に続いて生活産業館があった)更に東の径の分岐⑩から北の石垣の下⑪をチェックして、今 でも残っている唯一のバビリオン鉄鋼館の西側に回り込み、柵の角の⑫を見つけた。(鉄鋼館は日本 鉄鋼連盟が出展して音響機器や音響彫刻などで有名であったが、今はEXPO70のバビリオンの 模型などが展示され当時の様子を伝えている)ここから南の茂みの角、⑬へはビジュアル区間だ。ビ ジュアル区間というのは、この大会の会場のすぐ南側を走るので、会場の皆に見てもらう区間をいう。 そしてリレーの次の走者が先の走者を見て、間もなく帰ってくることを知り準備をするためにも設け られている。私の名前を誰かが叫び「がんばって、ファイト ファイト」と声がかかる。この区間を 走るときだけでも、胸を張って足を上げて良い格好をして元気のあるところを見せなければならない。

⑬から⑭の柵の角までは、太陽の塔の北側を西へ向かって走る。この時はすぐ北側の道路は工事中 だったので、お祭広場を横切り、道を超えて⑭をチェックした。(当時、お祭広場の上に、建築家丹下 健三は巨大な大屋根を設計した。シンボルとなる造形を担当する岡本太郎は、その中に収まりきれない 高さ70メートルの太陽の塔の計画を主張して、丹下と岡本の両天才は激しくもめた。結局大屋根の真 ん中に直径54㍍の穴を開け、その屋根を突き抜けた塔の上部が、大きな独特の太陽の顔を支えた)北 東に進んで、池の南西の角の⑮を見つけ、北へ橋を渡って⑯、東に池の周りの⑰続いて⑱・⑲とチェッ クした。(この池の南側には、タイ・エチオピア・アブダミ・クエート館、北側にはスイス・せんい館 があった)そして、いよいよ会場に近づき、東側の池の角の⑳から最終コントロール園地の北東の角の ?をチェック、テープにしたがって会場に入り、待ち構えている第3走者田中さんにタッチした。私の かかった時間は59分56秒だった。(この会場の広場は科学工業館・リコー館・コダック館のあった 場所である)

私がゴールしたあと、47分12秒で第3ランナー田中さんが会場へ帰ってきた。私の組の3人の合 計時間は2時間15分50秒となった。年齢も性別も制限がなく自由なこのクラスは4組が出場したが、 私の組の3人の合計年齢は218歳で、一番高い。1位の組や2位の組は20歳台が中心で合計年齢は 私の組の3分の1にもならない。3位の組でも合計年齢116歳である。4位になったといっても、こ れは当たり前である。1位の組は1時間12分4秒だった。そんなことよりも私は、34回の思い出の 深いこのリレー大会で、参加者全員のなかで最も高齢の古いランナーとしてリレーをつないで、完走で きたことが何よりも嬉しいことであった。大阪オリエンテーリングクラブからは6チームが出場、全チ ームが完走し、内2チームが銅メタル表彰を受けた。走り終わったみんなの顔は冬の日の光に映えて生 き生きしていた。

私は走り終わった地図のコースと、参考に持ってきていた万博の開催当時のバビリオン配置図を照ら し合わせてみた。すると、走り終わった茂みの深い森や、遠くの丘につながる芝生の広場の風景に重な って、私の覚えている当時の色々なバビリオンの姿が私の頭に浮かび上ってきた。48年前、私はそこ に集まって来た世界各国からの多くの人々、そしてこの丘陵全体にみなぎっていた熱い活気を思い出し、 思わず三波春夫の歌っていた『世界の国からこんにちは』を口ずさんでいた。 2021年5月には、世界の国からこんにちは、と、老いも若きもオリエンテーリング競技を含めて 多くのあらゆるスポーツ好きが集まってきて17日間にわたり、生涯スポーツの祭典ワールドマスター ズゲームズ(第10回)がこの関西で開かれる。私はその時までになんとか生き続けて、90歳台クラ スのスプリング(短いコース公園などが使われる)、ロング(山地の長距離コース)のいくつかのコー スをすべて完走するのが、今のただ一つの目標である。

(2018年3月26日)
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宙 平
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