From Chuhei
 
映画「バルトの楽園」を観て来ました。エッセーとして送ります。
 
下はそのスチール写真です。
 
 
 
 
  
 
 

          映画『バルトの楽園』  

 

 

「第九の扉が開くとき軍人は人間に帰る」この映画のキャッチフレーズである。

私は封切日の六月十七日の朝、この映画を観た。

 

 バルトというのは、ドイツ語で髭という意味である。松平健演じる、板東俘

虜収容所長松江豊寿大佐が立派なカイゼル髭をたくわえていたことから、そう

呼ばれていた。そして、「楽園」は「がくえん」と読ませる。収容所のドイツ

人俘虜たちは、三つのオーケストラのほかに、二つの楽団、二つの合唱団を持

ち、驚くべき程の音楽好きだったことからであろう。同時にここは、俘虜たち

にとっての模範収容所で楽園(らくえん)であったという意味も含まれている。

 

 しかし、第一次世界大戦の青島で敗れ、日本に移送されたドイツ人俘虜四七

〇〇人が、最初から「楽園」であったか、というとそうではない。彼らの多く

が送られた久留米収容所では、南京虫がわく劣悪な環境で、意見を言えば殴り

つけられ、脱走兵も出るが捕まり、厳しい制裁を加えられた。

 

 そして二年後、十二カ所あった収容所は六ヶ所に統合され、久留米からも徳

島の板東俘虜収容所へ捕虜たちが送られてくる。新たな地獄を覚悟していた彼

らだが、この収容所では松江所長の指導の下に、捕虜たちの自主性を重んじ、

地元民との融和を図ろうとする方針がとられていた。

 

 それでも、脱走者が出たが、地元民の温かさに触れ、戻ってくるということ

もあった。そして、捕虜たちを遠足や海水浴につれていったことから、松江は

陸軍省から捕虜の扱いが手ぬるいと糾弾される。そのため削減された予算の穴

埋めのために、捕虜たちで山林の伐採の仕事をさせる。捕虜たちは喜んで従事

した。ある日、日本人の母を亡くした混血の少女志を(大後寿々花)がやって

くる。彼女の父は調べによって、戦死したドイツ兵士であることが分かる。

(彼女はその後、日本に残る捕虜の一人と、神戸でパン造りをすることとなる)

 

 一九一八年十一月ドイツの敗北により、第一次大戦は終わる。捕われていた

ハインリッヒ提督は拳銃自殺を図るが、一命は取り留める。松江は敗れた会津

藩士の息子だった自分の過去を語り、生きる意義を説く。

 

 捕虜から解放されたドイツ人たちは、松江所長や地元の人々への感謝を込め

て「交響曲第九番歓喜の歌」の演奏を計画し、日本初のこの曲の演奏会がこう

して開かれたのである。

 

 私は、三月に板東を訪問し、収容所の跡地や、当時のスケッチなどの資料が

展示されているドイツ館や映画のロケセットを見て来た。そのために、俘虜の

活動の姿や当時の板東の町の状況などを、この映画が実に正確に表現している

ことが分かって、深く感心した。

 

 しかし、戊辰戦争や敗れた会津人に対する冷遇などをこの映画は取り上げて

いたものの、松江所長の会津人としての本当の気持ち、武士道の精神などが正

しく、この映画の観客に伝わったかどうか、心配であった。

 

 また、第一次世界大戦当時のドイツの文化や技術の水準、それを背景とした

ドイツ人の誇り、それに対応する当時の日本の状況などは、観客にもある程度

の歴史認識が必要ではないかと思った。インターネットでのこの映画の感想の

中に、第二次世界大戦中(アジア太平洋戦争)の話と思って観ていたという人

の話が出ていて、私は驚いたからである。

 

 この映画は、ラストシーンの「交響曲第九番歓喜の歌」の演奏に向けて盛り

上がっていくのである。実際の演奏には、四人の独唱者と八十人の合唱団が参

加したというから、規模はこの映画の場面通りで良かったのではないかと思わ

れる。しかし、実際に演奏を指揮したのは、ヘルマン・ハンゼン軍楽隊長であ

るが、この人のことがあまり出てこない。この人を中心にした演奏への経過や

楽器調達の苦心などを、もっと出せば一層の感動的な盛り上げ場面となったの

ではないかとも思った。

 

 この映画の交饗曲にはカラヤンのベルリン・フィルハーモニーの音源を使っ

ている、これは、当時の実際の音の響きと比べると立派過ぎるのではないかと

思われる。しかし、全楽章を通じ、音の激しい所では悲惨な戦争の場面を出し、

静かなところではドイツや日本の平和な田園風景の場面を出していく手法は観

客に「戦争と平和」のあり方を考えさせ続ける上で、大変に良いと思った。

 

 私は特に、当時の板東の村人が始めてこの曲を聴いて、どう感じたか興味が

あった。映画での村民の表情は、「歓喜の歌」の詩の様に喜びに輝いていたが

……。

 

 いずれにしろ、私は実際にあったこの話が映画化されたことは、当時の日本

の様子を振り返る上で大変喜ばしいことだと思っている。

 

 

 なお、蛇足だが、野球解説の板東英二はこの映画では、久留米の収容所長で

出演しているが、彼が満州から帰国したとき、この板東町の俘虜収容所建物を

利用した引揚者用住宅に住んでいたそうである。



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  ∨  宙 平Cosmic harmony

このエッセーを読んで感想
感想-1
 
 映画「バルトの楽園」のエッセー拝読しました。何時もながらの素晴らしいエッセーには感服しております。
いまではベトーヴェンの第九は年末の行事の一つとして歌われていますが、日本の徳島の片田舎でこのようなエピソードがあったことを知り感激もひとしおです。
3番目に第九が入るBGMですがお聴き下さい。有難うございました。
この映画は是非鑑賞したいと思っています。
 
                                      清水 清氏投稿
 註; 第九のBGMはカットさせていただきました。(管理人)
    
感想-2
宙平様 エッセー 映画「バルトの楽園」を拝読いたしました。

 そして、以前にもご紹介のエッセイを思い出しながら、次のような
 メールをつい最近頂戴し、保存していたものを、何かのご参考にして
 くださればとの思いで、幸い■転送歓迎■とあるので転送を致します。

■■   松江中佐とドイツ人俘虜たち  ■■■■

             
              「私はいま、誇りをもって、この地を去ることが
                できます。それは松江所長のおかげです」

■転送歓迎■ H18.06.18 ■ 34,254 Copies ■ 2,101,899 Views■

■1.「聞こえる・・・音楽が」■

 89名のドイツ人俘虜たちは、銃に着剣した衛兵に厳しく監視されながら、重い足取りで川沿いの土手道を歩いていた。四国の遠い山々は青く霞み、見渡す畑は菜の花の黄色に埋め尽くされている。しかし、俘虜たちは、日本の春を味わう余裕を持っていなかった。

  大正6(1917)年春、徳島県鳴門市近郊の板東。第一次大戦で日本は日英同盟の誼(よしみ)によって、中国でドイツが租借していた青島要塞を攻撃・占領し、4千6百余名のドイツ将兵を捕虜にした。これらの捕虜たちは、日本国内12カ所の収容所に入れられたが、まもなく6カ所に再編された。

  この89名は久留米の収容所から板東に移送されてきたのだった。久留米の48連隊は、青島戦の主力として戦った事もあって、この地には戦死者の家族も多く、捕虜たちを憎悪で迎えた。捕虜たちは小さな南京虫だらけの藁布団に寝かされ、事ある毎に鉄拳で殴られた。だから、新しい収容所に移送されると知っても、何の希望も持てなかった。

  「聞こえる・・・音楽が」と戦闘で失明したドンゲルが言った。遠くからかすかにブラスバンドの音楽が聞こえてくる。隊列が進むにつれて、音楽ははっきり聞こえるようになった。間違い
ない。それはドイツの愛国歌『旧友』であった。

■2.所長・松江豊寿■

  俘虜収容所の門をくぐると、ブラスバンドの一隊が整列して いた。青島で別れ別れになった戦友たちの懐かしい顔が見える。捕虜たちは抱き合って再会を喜んだ。

 「捕虜どもを整列させいッ!」と久留米から引率してきた指揮官が叫ぶと、衛兵たちが、捕虜を銃の台座で打ち据え始めた。歓喜の叫びが、悲鳴と怒号に変わり、いまにも暴動に発展しそうな雲行きとなった。

 「やめいッ、よせッ」と鋭い声がかかった。収容所の副官・高木大尉であった。そこに立派な八の字髭の人物が現れ、落ちていた帽子を拾い上げ、土を払ってから、「誰のものか」とドイツ語で聞いた。ヘルマン一等水兵が手をあげると、ニッコリ笑って帽子を手渡した。

   私は所長の松江豊寿(とよひさ)である。ただいまの衛兵たちの非礼について心からお詫びするとともに、あらためて歓迎の辞を申し述べる。

  ドイツ語の丁重な挨拶が信じられず、久留米から来た捕虜たちは、思わず顔を見合わせてしまった。所長に促されて、副官の高木大尉が流暢なドイツ語で通達した。

  諸君。本日に限り、就寝時間が12時までに延長される。二年ぶりの再会だろう。大いに旧交を温めたまえ。

  捕虜たちの間から、ドッと歓声が上がった。

■3.別世界■

  到着した捕虜たちにとって、この収容所の生活は驚くべきものだった。およそ一千名の捕虜が、8棟の兵舎に収用されていたが、それ以外にも図書館、印刷所、製パン所、製菓所など計26棟の洋式の建物が建っていた。ビールやチーズ、ソーセージ、煙草などがこの収容所で作られており、自由に買うことができた。隣接してテニスコートやサッカー場もあった。

  愛用のカメラを首から提げたヘルマン一等水兵は印刷所を訪れた。青島戦に志願する前は大学の文学部に在籍したので、ここで発行される週刊新聞の記者として編集者のマルティン中尉に誘われたのである。

  マルティン中尉はヘルマンを散歩に誘った。鉄条網の向こうに見える畑では、地元民と捕虜たちが一緒に農作業をしていた。

 ドイツ式の農業を教えているんだ。捕虜たちの農作業の様子を見ていて地元民のほうから申し入れできたんだよ。

  収容所の門を出る際には、10人ほどの日本の青少年が入れ違いに門を入ってきた。「地元の中学校の生徒たちだ。週に2回、ドイツ式の器械体操の実習に来ている。当時はまだ珍しかった器械体操を、テンペルホフ上等兵が鉄棒の大車輪などを実演しながら、教えていた。

  外の田舎道を歩いていくと、彼らと同様に衛兵に付き添われたドイツ人のグループが、そこかしこに歩いている。

   地元の工務店で蒸気エンジンの修理を教えている者や酪農や建築を教えている者がいる。松江所長の方針でね。ハーグ条約で保障されている食費や医療費以外に、これらの収入が加わるので、ここの捕虜たちは地元民よりずっと金持ちなんだ。

   ヘルマンは信じられない思いがした。

■4.武士の情け■

  89名が到着して数日後、そのうちの一人カルル・バウムが脱走した。報告を受けた松江に、部下が「徳島の62連隊に協力を頼みましょう」と進言した。松江は即座に答えた。

  連隊はいかん。連隊を巻き込めば、面倒なことになる。周囲は海と山、どうせ逃げられない。怪我などしないうちに、われわれの手で保護したい。

  二日ほどして、カルルが自ら戻ってきた。傷の手当てをされている。しかし、本人は、山の中を逃げ回っていた、と言い張っている。松江は「彼は山中で道に迷った。それで良かろう」と済ませようとした。

  「そんなことでは、捕虜どもに対するしめしが」と反対する部下に松江は諭した。

  傷の手当てをしてくれたのは、たぶんこの板東の人だろう。だとすれば決して口を割るまい。それを明かさないのは、恩義を感じているからだ、脱走犯を助けたことで、罪に問われることがないようにしたいんだ。目をつぶろう。武士の情けじゃないか。

  カルルが所長室に呼ばれた。殴る蹴るの制裁を受けることを覚悟していた。しかし、松江は優しい声で言った。

  カルル君だね。君に一つ頼みがある。君は以前、青島のビクトリア街で、パン職人をしておったそうだね。どうだろう。炊事棟の要員に加わって、パンを焼いてくれないかね。

  カルルは高木副官に製パン所に連れて行かれた。懐かしいパンの焼ける匂いが充満していた。カルルの視線が台の上でパン生地をこねている一人の手元に止まった。カルルはその手からパン生地を奪い取ると、

  もっとこねるんだ。もっと強く。生地は生きて、呼吸をしている。この手で、それを、それを、、、

  カルルは何度も力任せにパン生地を叩きつけて見せた。しかし、その背中がすぐに動かなくなった。「どうした。カルル」と高木副官が覗き込むと、カルルの目には、涙があふれそうになっていた。

■5.「彼らも、祖国のために戦ったのです」■

  陸軍省からの呼び出しで、松江は東京に赴いた。そこでは俘虜情報局の将校たちが待ちかまえていた。局長の多田少将が、苛立ったような声をあげた。

  君は捕虜たちからの評判もいいようだが、甘やかせば評判のいいのは当たり前でね。あとで必ずしっぺ返しを食う。
  陸軍省からの通達だ。板東収容所については、来月から予算を削ることになった。

   「なんですと!? 理由はなんですかッ!?」と松江は激昂した。

  捕虜どもに、自由気ままに贅沢をさせる余裕など軍にはない。彼らは敵国の捕虜だ。それを忘れてはならん。

   松江の興奮は収まらない。

  片時も忘れたことはありません。彼らは敵国の捕虜、しかし犯罪者ではない。

  彼らも、祖国のために戦ったのです。しかも、わずか5千人で数万の連合軍と互角以上に戦い抜いた勇士たちだ。決して、無礼な扱いをしてはならない。戦争が終わってドイツへ帰還できる日まで丁重に扱うべきだと思うております。

■6.会津武士としての誇り■

  多田の目が、侮蔑の色を見せた。「松江中佐。君は、会津の出身だったな。いつまでたっても、会津は会津だな」 言葉を飲み込んだ松江は、多田をぐっと睨みつけた。

  帰りの汽車で、まっすぐに背筋を伸ばして、座席に腰をかけた松江は、ただ一点を見据えていた。「会津は会津だな」、そういう侮辱を、今まで何度受けてきたことか。

  約50年前の明治維新の際、会津藩は藩をあげて薩摩長州の官軍と戦った。敗れて生き残った藩士たちは「降伏人」と蔑まれ、本州最北端の下北半島の斗南(となみ)の地に押し込められた。

  松江はそこで生を受けたのである。西南戦争で会津武士たちが活躍し、ある程度の名誉を回復したが、まだ松江のように将校にまで昇進した人物は少なかった。会津武士としての誇りが、松江を支え、そしてドイツ人俘虜たちへの同情となっていたのだろう。

  予算削減への対策として、松江は山を買って、捕虜たちに木の伐採をさせた。それを薪として市価よりも安く買い上げ、収容所内の炊事や風呂炊きに使って、予算節約につなげようというのである。事情を知った捕虜たちから、志願者が自発的に集まり、ドイツ本国で営林署に勤めていたクリーマント軍曹の指揮のもと、熱心に働いた。

■7.「諸君、新聞を出したまえ」■

  1918(大正7)年11月、ドイツが降伏し、第一次大戦が終わった。戦勝を祝って、徳島の大通りも花山車や提灯の灯で光の洪水となった。沿道を埋め尽くした群衆は日の丸の小旗を振って、
  沸き立っていた。しかし、板東の町はひっそりとしていた。「ドイツさんが可哀想だ」と泣いている女性までいた。

  収容所も静かだった。いつもなら活気のある印刷所は音もな く、皆ぼんやりと、雨にけぶる窓の外を眺めていた。そこに松江が現れて、「今まで出していた新聞をどうするんだ」と聞いた。ヘルマンたちは顔を見合わせて、「この状況では、とても手につきませんから」と答えると、松江は言った。

   諸君の気持ちは判るが、どんな苦しみのなかでも、人は光を見つけ、将来に立ち向かう勇気を持つべきだ。

  そういう松江は、酷寒の地・斗南での会津人たちの絶望的な生活を思い起こしていたのかも知れない。

   諸君、新聞を出したまえ。そして、そのことを紙上で全員に呼びかけたまえ。

  粛然とした一同に、松江の力強い言葉が響いた。「これは私の命令だ」 全員が、深く胸を打たれていた。「松江所長、判りました。 命令を感謝します」と、一同は日本式に頭を下げた。

■8.「われわれには敵味方の区別はなくなった」■

  1919(大正8)年6月、ヴェルサイユで第一次大戦終了の調印式が行われた。松江所長は捕虜全員を中央広場に集め、訓示を行った。

  私はまず、このたびの戦争で亡くなった敵味方の勇士に対して哀悼の意を、、、もとぃ、今、私は敵味方と言ったが、これは誤りである。去る6月28日の調印終了の瞬間をもって、われわれには敵味方の区別はなくなった。今や諸君は捕虜ではなく、一個の自由なるドイツ国民となったのである。

   すでに諸君が想像しているように、敗戦国の国民生活は悲惨なものである。どうか困難にめげず、祖国ドイツの復興に尽力してもらいたい。

  最後に松江は捕虜全員を見渡し、力強いドイツ語で言った。「本日ただ今より、諸君の外出はまったく自由である」 捕虜たちの間から、一斉に拍手と歓声が沸き上がった。「ダンケ!ダンケ!(ありがとう)」という声が収容所を揺るがし、放 り投げられたたくさんの帽子が、青空に舞い上がった。

■9.「我が友に・・・!」■

  元気づけられたドイツ人たちは、板東の人々への感謝に、ベートーベンの第9交響曲を演奏する事にした。日本各地のドイツ関連施設から楽器を取り寄せ、総勢45名での演奏である。これが日本での第9の初演となる。

  演奏の前に、青島総督だったハインリッヒ少将が挨拶を述べた。

 青島での戦闘に敗れ、われわれは捕虜となって、この地へ参りました。私はいま、誇りをもって、この地を去ることができます。それは松江所長のおかげです。

  松江所長は、私の人生で、もっともつらい時期に、勇気と力を与えてくれた。勇気と力−−−。我々は、ベートーベンのフロイデ(歓喜)を感謝のしるしとして、皆さんにプレゼントしたい。世界のどこに、バンドーのようなラーゲル(収容所)があったか! 世界のどこに、松江のようなラーゲル・コマンダー(収容所長)が、、、

  感極まって、ハインリッヒが声を詰まらせた。会場は水を打ったように静まりかえった。ハインリッヒは松江のもとに歩み寄って、愛用のステッキを差し出した。「我が友に・・・!」

     二人を包んで、嵐のような拍手が沸き起こった。

                            以上  おしまい      
                                         田村 昇三氏投稿