今年も地蔵盆が、街の各所で祭られていました。
この写真は、阪神電車久寿川駅南の小公園にある
地蔵尊です。私はこの近くに昔住んでいました。
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そして、この地蔵尊に近づいて、手を合わせました。
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地蔵盆 八月二十二日から二十四日までは地蔵盆の日である。日頃気の付かなかった場所に提灯が飾られ、街のお地蔵さんたちが、その存在を知らせてくれる。町内の人々は地蔵さんを洗い清め、新しい前垂れをかけ、飾り付けてお供え物をし、提灯の下に茣蓙を敷いたりして集まり、ささやかなお祭りをする。
私は街を歩きながら、地蔵盆の飾りを見かけるようになると、入道雲の下まばゆく照り輝いた夏の日々が、いよいよ終わりに近づいて来たことを感じる。そしてそれぞれの地蔵さんを祭る風景のなかに、亡くなった昔の友人のことなど思い出して、そこはかとなく寂しさに身が包まれる時でもある。
西宮の香枦園に住む私は、二十四日に近くの地蔵さんを回ってみることにした。建石通りを南に臨海線を東に曲がると安楽地蔵尊がある。七十年以上も前、西宮浜に打ち上げられていた地蔵さんを、地元の有力者戸崎さんが持ってきて祭ったとされている。祠が広い通りに背を向けて北向きに立っていて、歩道の上に天幕を張り提灯が飾られていた。その道路をへだてた向かいの前浜町七番地に、延命世継地蔵尊というのがある。ここでは昔は地蔵盆には子供が踊っていたらしい。街の角の北向きの祠が飾られていた。ここから私は酒蔵通りに戻り、久保町七番地の身代わり地蔵尊まで行った。酒蔵通りの歩道上にある東向きの祠が、きれいに飾られていた。交通事故で亡くなった子供のおばあさんがこの事故の場所に地蔵さんを祭った。それ以降、長年にわたり近所の人々や商店が世話をしてきた。
そこから、さらに東へ行くと用海町四丁目の堂本家の隣に、南向けの小さな地蔵尊がある。昭和二十年八月五日の西宮空襲の後、焼け跡から子供が見つけてきたものを祭っているとされる。このあたり一帯は焼夷弾爆撃で焼け野原となっていたのだ。そして用海小学校の敷地東南の角の外に、寛政四年建立されたという小墓円満地蔵尊の建物があった。ここは等身大の立派な地蔵さんである。参詣道には萬灯籠が並んで、大勢の人が集まって、夕方から始まる子供向けのイベントの用意がされていた。夜には御詠歌の奉納などがあるようである。
私は東の川を渡り、阪神大震災の時、仮設住宅が並んでいた住江公園の北西にある長音山圓満地蔵尊に手を合わせてから、ふと思った。ここまで来たからには、この地蔵盆の日に、私の昔住んでいた思い出のある久寿川の地蔵さんにお参りしよう。
私は四十三号線沿いに、今津町に入り阪神電車久寿川駅南側の小公園にある地蔵さんの前に立った。ここも天幕が張られ多くの提灯が下がっていたが、未だ人が集まっていなかった。公園には男の子が二人遊んでいただけであった。私はきれいに飾られた祭壇の前で、やや小柄の地蔵さんに手を合わせた後、近くの木陰のベンチで休憩して、昔を思った。
この場所、今公園になっているここは、賑やかな商店街であった。私は中学一年生だった。そして、ちょうどこの場所にはよしのやという本屋があった。西の方に食品屋や雑貨店が続き、阪神久寿川駅の西の踏切を渡る南北の道を越えて、さらに西に商店が続いていた。眼鏡屋もあった。荒物屋があった。国民学校の同級生竹中君の履物屋もあって、下駄などが並んでいた。
昭和十九年八月二十三日というと、なんと地蔵盆の日ではないか。ちょうど今と同じ午後四時だった。当時この近くの社前町の家にいた私はドォゥン! という音を聞いた。「飛行機が落ちた」という叫び声と共に人が家の前を走っていった。外へ出て、北を見ると久寿川駅前商店街あたりから火の手が上がっていた。駆けつけるともう商店街の通りは炎に包まれ通れない。屋根に突っ込んだ飛行機の尾翼が炎の中で揺れていた。
日本海軍の三人乗りの軍用機が落ちてきたのだった。北の方から低空で飛んできて阪神電車の高圧線にひっかかり、直ぐ下の商店街に突っ込んだということだった。下水に油が流れ込んで、マンホールの蓋が飛び上がり地からも火が吹き上がった。やがて、警防団のほか、警官や憲兵も駆けつけてきて、道を封鎖して私たち見物人を追い払った。
履物屋の竹中君とは、勉強塾でも一緒だった。また水泳を一緒にした仲間だった。商店の長男として、将来の旦那を夢見ていたのかも知れない。しかしこの事故による住民二十一名死亡の中に、竹中君とその一家四名も含まれていた。
その翌日死体は近くの常源寺に、そのほかの怪我人は明和病院に収容されたことが分かった。しかし、戦時中のことで軍の飛行機が落ちたなどということは、機密とされ、すべて目立たぬように処理された。私は飛行機がなぜ落ちたのか、その原因も未だに知らない。
ただその後、地元の人達によって、この事故の場所に地蔵さんが祭られることになった。しかし、この場所は事故から約一年後の西宮空襲の焼夷弾攻撃で焼け野原となり、さらに戦後、高速道路の西宮インターチェンジとなり、街の様相は全く一変してしまう。
そして、ようやく整備されて出来た久寿川駅南の小公園に、この地蔵さんが移され、お堂が出来て、地蔵盆にはこうしてお祭りがされているのである。
夏の夕べを告げる風に地蔵盆の提灯が、ざわざわとゆれた。私は竹中君がそこにいるような気になって、再び地蔵さんの前に行って手を合わした。
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