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Chuhei
枚方の禁野陸軍火薬庫跡に残る土堤とトロッコを通していたトンネルです。
禁野火薬庫の大爆発のときの、殉職職員の方々の碑と、殉職の消防関係の方々の石碑です。
当時の火薬庫の内部と大爆発で避難する人々です。(枚方市の平和施策のウェブより)
不気味な爆発の響き
遠くからのようだが、しかし私の体の芯にまで届く気味の悪い、「どおぉんー」という響きが、突然来た。 ――なんだろう? 窓を開けて空を見た。なにも変わっていない。するとまた響きが来た、「どおぉんー」。 ――これは只事ではない。 靴をはいて、近くの広場まで行ってみた。 数人の人が集まって、東の空を見ている。遠くの方に黒い煙が上がっているようだ。 ――あれは、どの辺だろう。 するとまた来た、「どおぉんー」。付近の家の黒い屋根瓦が、揺らいでいるように思えた。
昭和一四年三月一日午後二時四〇分、枚方の禁野にある陸軍火薬庫の倉庫から発火、午後三時四〇分に大爆 発を起こし、その後二九回にわたり、爆発を繰り返した。これにより、枚方の殿山第一小学校焼失、山田小学 校の損壊をはじめ、禁野、中宮、渚、磯島、岡、三矢などの近隣の集落へ延焼し、二日午後三時頃になって、 ようやく鎮火したが、爆風・飛び火などによる家屋の全・半焼など八二一戸の被害を出した。消防関係の殉職 者一五人を含めた死者は九五人、負傷者六〇二人に達した。京阪電鉄の一部不通、一般通行禁止区域などの規 制が厳しく、災害全地域への住民復帰が認められたのは三月五日のことであった。
私が聞いたのはこのときの爆発音である。淀川を越えて、遠く枚方から西宮の今津まで響き渡っていたのだ。 私が今津小学校の二年生のときであった。
あのときから、六九年目の平成二〇年の一月五日、ふと、爆発の響きを思い出した私は、ネットの「戦争遺 跡ガイド枚方市編」を参考にして、枚方の禁野にある陸軍火薬庫の跡地へ行ってみたくなった。私は枚方に家 を買って住もうと思った時期があったくらいだから、枚方のことはよく知っているつもりだったが、禁野・御 殿山・中宮などへ行くのは初めての事である。
京阪電鉄の御殿山の駅を降りて、東に坂を四〇〇b程上りきると、南北に通る殿山百済寺道に出た。この道 を中心にした両側に昭和一四年初頭には、火薬・砲弾の倉庫群があった。十二万四千坪の広大な土地の上には、 土堤に囲まれた一〇〇棟近い建物があったとされる。今は住宅団地として整備された、静かで平和な町であっ た。私はこの道を西に曲がり、財務局枚方宿舎の辺りから、下に広がる町並みを眺めた。 ――ここは枚方の北の高台だ。この下には渚・磯島などの集落があった。こんなところから、爆発物が飛び散 れば、住んでいた人達は大変だったろうな。
再び道に戻り、今度は東側の中宮第三団地に今も残る、火薬庫の土堤に行った。北の土塁にはトロッコを通 したトンネルが、残っていて、その横に次のように書かれた枚方市のプレートがあった。 [『旧陸軍火薬庫の土塁に寄せて平和を誓う』 ここ中宮第一〜第四団地一帯には、一九四五年まで陸軍の兵器用火薬や砲弾、弾薬を収蔵する禁野火薬庫が あった。火薬庫の倉庫群は、編み目のように張り巡らされた土塁に一棟づつ囲まれていた。一棟が爆発しても 他へ被害が及ぶことをぼうしするためで、倉庫の屋根まで達する高さの堅固な土塁であった。倉庫の間にはト ロッコのレールが敷かれ、土塁に小さなトンネルが通っていた。]
この後にも、大爆発の事、住宅団地に生まれ変わった経過、爆発のあった三月一日を枚方市の「平和の日」 とすることなどが記されてあった。さらに近くにもう一つの長い土堤が残っていたが、ここのトンネルは、閉 じられていた。
私はそこから南へ、広い団地の中を抜けて中宮北小学校の東側にある、「殉職義烈之碑」に行った。これは 大爆発から一年後に建てられた殉職した火薬庫職員、三八名の碑である。当時、第一五号倉庫で、上海から還 送された重迫撃砲弾の信管を離脱する作業中に発火し、それが填薬弾に引火したのが大爆発の原因とされてい る。その場で作業していた人達は大音響とともに、ひとたまりも無く吹き飛ばされたものと思われる。
私はさらに南西に向かい禁野保育所の敷地内にある「殉職記念碑」にも行った。これには爆発時、消火等に 従事していて殉職した枚方町消防組合員一五人と町会議員一人の名前が裏面に記されている。
この時の消火救援活動には、第一六師団の工兵一個中隊、第四師団の歩兵一個大隊、工兵一個中隊、憲兵隊、 そして府警一〇〇〇人、消防一七〇人が参加した。砲弾は次々に誘爆を続け、その飛び散る破片は二`四方に 及んだと言われている。消火救援は正に命を賭けた活動となったものであったろう。私が覚えているのは大爆 発翌日の新聞に、天をおおう黒煙を背景に落下物を避けるために、布団をかぶって逃げてきた地元住民の人達 の姿の写真が大きく出ていたことである。私は碑を前にして、改めて当時の大惨事に思いを馳せた。
私はここから百済寺跡公園を通り、京阪電鉄交野線宮之阪駅まで歩いて帰ることにした。が、その前に、少 し東にある中宮平和ロードを通った。この道路こそ戦時中弾薬輸送の軍需路線として片町線(今の学研都市線) 津田駅から禁野火薬庫や、隣接していた兵器製造所につながった支線の鉄道線路跡であった。今は平和ロード の中央分離帯に、機関車のモニュメントが作られていた。
ここに軍需専用鉄道が作られたのは昭和一一年のことだった。明治三〇年、禁野の西側に火薬庫が出来た頃 は淀川を利用して火薬や弾薬が輸送された。そして、明治四二年には猛暑による自然発火で爆発事故を起こし ている。しかしながら昭和五年頃からさらに禁野の東側にも拡張が続けられた。昭和一二年に陸軍造兵廠大阪 工廠枚方製造所として、九っの工場を火薬庫の隣の三三万坪を超える土地に造り、昭和一三年には砲用弾丸・ 爆弾・信管・火具の製造を開始した。そして、陸軍の大・中口径の砲弾の七〇%はここで作られるようになっ た。この頃になると、輸送は鉄道が中心になり、支線を経て、大阪の砲兵工廠ともつながる片町線は正に軍用 鉄道であった。
昭和一四年には、香里地区にも宇治火薬製造所香里工場の建設が始まり、枚方は一大軍需生産地となって行 ったのである。火薬庫の大爆発は丁度このような時に起こった。
この昭和一四年という年は、支那事変と呼ばれた日中戦争が泥沼状態になっていた時であった。南京陥落後 も蒋介石率いる国民政府は奥地の重慶を臨時首都にして抗戦を続け、それを、アメリカもイギリスも支援して いた。彼らは日本軍の中国から撤兵を要求して、日本に対する石油や鉄鉱石などの輸出禁止という経済制裁を 強めようとしていた。しかし日本の超軍事国家体制は進んで行って、男はすべて国民服カーキ色が普通となり、 「ぜいたくは敵だ」の言葉と共に、国民精神総動員特別委員会はパーマネントの廃止案を決定した年でもあっ た。 ――パーマネントに火がついて、見る見るうちに禿げ頭、禿げた頭に毛が三本、ああ恥づかしい恥づかしい、 パーマネントは止めましょう。
私はこんな歌を子供同士で歌っていた。日・独・伊三国は、防共協定に続いて、三国同盟を締結しょうとし ていた。そして、多くの無謀だという意見がありながらも、日本はアメリカ・イギリスへ宣戦布告して世界大 戦に突入する体制の準備とカウントダウンを進めつつあったのだ。
やがて、大戦に突入しその末期になると私は一トン爆弾の真上からの落下音、壕がつぶれそうになる振動と 爆発音。艦載機に追い回された機銃音。火炎に包まれて聞いた焼夷弾の落下音など、色々と命がけの体験する ことになるのである。が、あの遠くから響くように聞こえた、枚方禁野からの日本製の火薬・砲弾の爆発音は、 それにも増して、最も不気味な音として未だに私の身体に残っている。
あれは、いよいよ日本が世界大戦突入への幕開けを告げる、前触れの響きでもあったと私は思っている。
■■◆ 宙 平 |