From Chuhei
文豪たちの川、夙川の流れをたどる

10月16日に地元、西宮市香櫨園地区の「浜脇香櫨園ひろばの会」が主催する文 学散歩の催しがあり、私は行ってみることにした。集合は阪急電車夙川駅改札口南 側に午前10時とあり、講師は神戸国際大学非常勤講師の小西巧治さんで、催しの タイトルは「文豪たちの川、夙川の流れをたどる」とあった。

私は家から近いので、夙川の流れは毎日のように、その堤防を散歩しているので、 流れをたどるといっても、別に目新しいことではないが、文豪たちの川という、 初めて聞く大仰な言葉に、小西巧治さんはどんな話をするのか、興味を持った。

講師の小西巧治さんは1948年西宮生まれで、文芸評論家の河内厚郎さんら と「阪神芦屋研究所」を立ち上げ、阪神間の文化情報を新聞各紙に提供し、阪神 間文化番組への各テレビ局への出演をして、朝日カルチャーセンター芦屋教室の 文学散歩の講師も担当している。元は電機部品メーカーの営業マンとして海外を 駆け回っていた人だったが、作家村上春樹と同じ学年で『海辺のカフカ』など村 上作品に傾倒、退職後、「ハルキスト」が高じて村上作品はじめ、地域文化の研究 者として第二の人生を歩む。私は今まで何回か講演を聞きに行っているから、顔 は良く知っている。

当日、午前中は見事な秋晴れとなり、文学散歩には絶好の日となった。集合場所 にはすでに人が集まり、講師の小西さんの姿もあった。世話役の平野さんに聞くと 今日は23人が集まっているとのことであった。小西さんの話は夙川の説明から 始まった。夙川の流れに沿って、公園が開発されたのは明治40年、大阪の香野 藏治と櫨山慶次郎によって「香櫨園遊園地」が造られたことが始まりで、この時、 阪神電車は香櫨園駅を開業した。遊園地は5年後閉園したが、その後住宅地として 開発され、大正9年、阪急電車の神戸本線の開通と同時に阪急夙川駅が開業し、 大正13年には阪急甲陽線が開業し乗換駅ともなった。主として大阪の船場、島の 内の繊維商たちの内、商売に成功した富商が、芦屋と共に夙川にも別荘を構える ことが多くなった。そして多くの文人、画家、歌人、が好んで住むようになり、 文学作品の中にも夙川の流れに沿った風景の美しさや、そこに住む人たちのことが 描写されることが多くなった。昭和12年夙川の流れの両側が公園緑地として、 南は香櫨園浜の海岸から北は銀水橋まで4㌔に渡り整備された。昭和24年、 1000本のさくらの若木の植樹が行われた。そして、平成2年、「日本さくら 名所100選」に選定されている。小西さんは「春のさくらも確かに夙川の 見どころですが、今では川の両岸の樹々が年々成長し、深みを増し水も清く、 季節を問わず素晴らしい川筋となっています。日本中でこんなところはほかには ないでしょう」と語った。私も川筋の樹々が、昔と比べ大きく育っているのを、 常々感じていたので、年々良くなってゆく夙川は、その通りだと思った。

集まった人たちと一緒に、夙川駅から東側のガードをくぐり北に進むとすぐに 「こほろぎばし」に出た。この橋はアニメ『火垂るの墓』や、昭和34年度映画 『細雪』に登場しているという説明があった。かつて、谷崎潤一郎は相生町から この橋を渡り、西宮の市街地に向かい、野坂昭如はこの橋を見て満池谷町の親類の 家まで歩いたのは間違いないだろうと思った。橋を渡り夙川の西側の住宅地を北に 進み、有名な能楽師の家「瓦照苑」を過ぎると、夙川の支流久出川がありそれを 越えて左に曲がり甲陽線の踏切を渡ったところで、小西さんが再び説明をはじめた。 「丁度この場所に「甲南荘」という洋風3階建てアパートがありました。谷崎潤 一郎はその一室を借りて作品を書いていた時があります。『細雪』には芦屋に暮らす 金持ちの美人4姉妹、鶴子、幸子、雪子、妙子の日常が描かれていますが、妙子が 人形作りをしていた工房の場所も、松濤荘という名称で、この場所に設定されて います」そして、これから向かう相生町の住宅地には、谷崎が寄寓していた根津家 の別荘の離れのあった場所があり、その根津家の夫人だった松子と谷崎は関係を深め、 谷崎にとって3度目の結婚をすることになる。そこには今、新しい家が2軒建って いると説明を続けた。そしてその先にある、今の阪神タイガースの監督の家の前 を通ると付け加えた。

根津家の別荘の離れのあった場所には、私も以前来たことはあったが、その時 空き地だった場所に、家が建って周りの様子も大分変っていた。「YANO」と ローマ字の表札の出ている家の前を、監督の家だと意識して通ったのは、私に とって初めてのことだった。そして、田辺聖子の『女の日時計』に「神原家は 夙川の山手の、奥まった町にある。ひねもす、しんと静まり返った奥深い町」 と書かれている主人公沙美子が嫁ぐ神原家は、この付近の邸宅に設定している という説明があった。造り酒屋を経営する裕福な家だが、夫の親類との身の置き方、 秘密の恋など主婦の危うさを描きながら、夙川の風景やきれいな自然のおりなす 情景を美しい文章で紡ぎ出している作品である。田辺聖子は伊丹市在住であったが、 母親が西宮市の水道局に勤務していたので、夙川やニテコ池、甲山などには、 なじみが深かったという話も語られた。

相生町から雲井町に入り、西への道に出て小西さんは、道の先にかつてあった パインクレストの話をした。それは『細雪』にも出てくるホテル風マンションで、 画家の東郷青児が滞在し、作家の川口松太郎、吉屋信子など文化人の利用が多かった。 そして、この通りには尼崎城の再建に10億円の私財を投じたミドリ電化創業者の 安保詮(あぼあきら)氏の和風邸宅もあるとも話した。そこから、みんなで南に 進むとカトリック夙川教会の尖塔が見え、阪急の路線の上を越える雲井橋に出た。 この橋の近くの家で育った作家でイタリア文学に造詣が深く、『ミラノ霧の風景』 で女流文学賞をとった須賀惇子はこの雲井橋を渡り、阪急夙川駅から小林聖心女 子学院に通っていた、という話があった。

私は7、8歳の子供の頃、母につれられて何度かこの雲井橋を渡ったことを、 思いだしていた。 伯母(母の姉)の家がこの付近にあったからである。玄関 まで石段を上がってゆく家で、お手伝いさんがいて、大きな犬を2匹も飼っていた。 子供がおらず、養女が一人いて日本舞踊を舞っていた。或る時夙川の堤の上で、 きれいな着物を着こなしたまだ若かった伯母と養女が、目立って歩いてくるのに 出会って、子供ながら「きれいだ」と思ったことがある。今思うと『細雪』を 思わせるような世界だった。その後伯母の家は東京に移ったが、今はもうその 家もなく、甥の私以外近い縁者はみんな亡くなり、東京谷中の金嶺寺にお墓が 残っているだけである。後年、雲井橋近くの家はどのあたりであったか、探して みたが、すでに分からなくなっていた。

「この街の小さな宝石」といわれているカトリック夙川教会、その南側の門の 近くに集まって、小西さんから遠藤周作の話を聞いた。遠藤少年は母の姉に当たる 伯母の影響もあって、この教会で母と共に洗礼を受けた。遠藤の作品には『沈黙』 『侍』『深い河』などがあるが、日本の精神的風土とキリスト教について「ダブ ダブの西洋の洋服を着せられたように着苦しく、それを体に会うように調達する ことが自分の生涯の課題であった」と語っていたそうである。私の甥(妻の弟の長男) がここで結婚式を挙げた時、私はその証人になってサインをしたことがある。

教会から南に坂を下り、アララギ派の歌人中村憲吉が池畔に住んでいたという 片鉾池の周りを回った。香櫨園遊園地時代この池にウオーターシュートがあった というのは、知られているが、小西さんの話でその当時、ここに香櫨園旭検番 という置屋があり『花柳界美人の評判記』の番付表に挙げられるような評判芸者 がいたことが記録として残っているという。私には初めて聞いた話であった。 夙川右岸を下り地蔵堂から阪神国道2号線に出た。そこに洋画家の須田剋太の 旧居と書かれた標識が立っている。須田は埼玉県生まれだが、夙川にも住み、 司馬遼太郎の『街道をゆく』の挿絵を担当していたことでも有名である。ここで 子供に絵画を教えていたが、村上春樹はそこで絵を習っていたという説明があった。

ここから夙川左岸「夙川オアシスロード」を南に向かって進む。昭和46年、 ここから左岸堤防の上を車が走っていたのを止めて、香櫨園浜まで遊歩道とした。 今は、私が毎日散歩している道でもある。平成15年、近畿の駅百選に選ばれて いる阪神香櫨園駅を過ぎ国道43号線のガードを抜けたところで、夙川左岸側の 川添町に、井上靖が、毎日新聞記者時代住んでいたという話があった。作品『あし た来る人』では若い「あした」の人を支援する大実業家、梶大助の家を香櫨園の 川西町に設定している。芥川賞を受賞した『闘牛』は西宮球場でおこなわれた 闘牛大会をモデルとしている。ほかに『氷壁』など、私は夢中になって読んで いた記憶がある。

春にはさくらのトンネルになるオアシスロードをさらに進むと、村上春樹が小品 『ランゲルハンス島の午後』に「趣のある古い石の橋」と書いている葭原橋(あし はらばし)があった。この橋の東側に家のあった村上春樹はこの橋を渡って芦屋の 精道中学に通っていた。或る時、川岸の芝生に寝転んで、ランゲルハンス島(膵臓 のインシュリンを出す細胞群)を休ませた。という作品である。そして作品『ノル ウェイの森』には海岸の病院が出てくるが、これは夙川河口西側の回生病院がモデル になっているのはその周囲の様子の記述から明らかとされている。と、小西さんは 説明した。その回生病院には野坂昭如の『火垂るの墓』で、兄妹の母が神戸空襲で 重傷を受け入院する。そのアニメ映画では病院の玄関の様子や、兄妹で水浴びする 香櫨園の浜のシーンが登場している。みんなで葭原橋を渡り夙川河口東側の 端まで歩いて、そこで最後に集まって小西さんの話を聞いた。今、防波堤のすぐ内側 のマンションのあるところには、大きな和風の家が建っていた。この家の様子は 私もよく覚えている。これは谷崎潤一郎の作品『卍』の主人公、柿内園子の住む家 のモデルであったとされる家であった。園子は夫もいて愛も深いが、芦屋に住む 同性の光子に惹かれ、愛し合うようになる。その光子にも男性がいる。という卍 (まんじ)の関係を大阪弁で「園子の独白」という形で書かれている。香櫨園浜で 夏は海水浴ができる。と書かれているところもある。この浜では、村上春樹も 『辺境・近境』で子供の頃毎日のように泳いでいた、魚釣りもし、夜友達と流木 で焚火をしたこともあると書いている。私も子供の頃の夏、開かれていた海水浴場 には良く通った懐かしい場所である。小西さんはこの香櫨園浜(御前浜)は阪神電車 が持っている土地である。ほかに六甲山の土地など資産が多いのに株が安かった ので、村上ファンドに狙われ、阪急電車の経営傘下に入ることになった。と、 語ったあと、「今日は西宮ゆかりの文豪たちが見た夙川の風景を皆様とたどり、 その作品を紹介してきましたが、どうかこれからも作品を読んで頂き、この夙川の 流れにそって歩いてみてください」と結んだ。みんなそこで小西さんに拍手して、 今日の文学散歩は解散した。12時30分だった。

「夙川は、文学作品を生み出す巨大な装置だ」と、毛丹青(マオタンチン・日本と 中国の文壇で活躍する作家・神戸国際大学教授)が書いていた言葉を思い出した私は、 早速装置の恩恵を願って、今日の文学散歩をエッセーに書いてみようと思いながら 家に帰った。

(令和2年10月30日)

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宙 平
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