父
の 戦 記 松田 龍泉 記
私の父は戦争にいき、九死に一生を得て還ってきた、戦後30数年を生き、畳の上で死ねた父は、亡くなった多くの戦友の方々に比べれば幸せだったのだろうが、その戦争体験での生死は、まさに紙一重の違いにすぎなかったと思えるのである。父は家族に出征中の体験をあまり語らなかったが、折に触れ、ことば少なに語ったことを記憶をもとに書きまとめた。
「父の出征」
昭和16年5月父は出征した、29歳の召集だった。父の軍隊時代の写真が残っている。第一種軍装で肩に星一つの階級章がついているもの、銃剣術の防具をつけ面と木銃を手に戦友と一緒のもの、ガスマスクを胸の所に下げているものの3枚である。ガスマスクは兵の標準装備だと思っていたが、毒ガス部隊だったことは、あとで知った。
入隊後、基礎訓練をへて配属されたのは、毒ガス部隊だった。朝鮮にわたり、移動しながら防毒面にゴム製のつなぎに身をつつんで訓練を受けた。昭和18年初め、部隊は移動し、東部ニューギニアへ上陸した。一等兵になっていた。上陸地点はマダンかウエワク寒い朝鮮からえらい暑いところに連れて来られたと思った。
ニューギニアでは、飛行場建設の任務についた。敵襲もなく、やしの木一本倒すのに15人で2日がかりののんきな作業であった。その飛行場の完成も見ずに、部隊は移動した。船に乗り、ジャングルにおおわれた険しい山を越え、1カ月も南下を続け着いた所はラエであった。むしろを敷いただけの野戦病院があった。手足をもがれた兵たちが「殺せ、殺してくれー」と泣きさけんでいた。ぞーとして、体がふるえた「自分もああなんのかな、えらいこっちゃなー」と思った。
「戦闘」
ある日部隊に、ラエ近くの高地の攻撃命令がでた、夜陰に乗じて部隊が展開し、夜明けを待った。夜明けに「オーライ、オーライ」と言う声をきいた。それと同時に谷をへだてた向こうからバリッバリッバリッときた。小銃、機関銃、大砲、迫撃砲、榴弾砲ありとあらゆる弾が飛んでくる。そばにいた戦友がバタバタやられた。敵はわれわれの動きを察知していたかの様な展開だった。
蛸壺一つ掘る間もない、ただ、銃をつかんで身を伏せているだけであった。かなり時間がたったが、依然耳の横を弾がかすめている、尻に熱いものを感じた、そっとさわると、ドロッと血が出ていた。砲弾の破片が突き刺さったと思った、痛いとは感じなかった、ただ夢中で伏せていた。
まる2日間、弾雨は続いた。岩にしがみつき、ひたすら伏せていた。初陣であったが、いままで思い描いていた戦闘とはまったく違うものだった。銃声がやんであたりを見回すと、戦友たちが屍の山を築いていた。出血は止まっていた。じわじわと這いながら後退して、どうにか野戦病院にたどりついた。軍医が針金で傷口をつついた。カチンと音がした「手術が必要、送還」との診断だった。
「後方送還」
だが、命令は「マダンまで歩いて帰れ」だった。ラエからマダンまで500キロはある。連れがいた、自分より若い大学出の分隊長で、片肺を撃ち抜かれていた。背中に10センチほどの穴があいていて、息をするたびに、肺がパクパク動くのがみえた。塩と砂糖をもらい、尻に親指大の砲弾の破片が突き刺さったままの一等兵と背中に10センチもの穴をあけた分隊長の道中が始まった。「あかなんだら死ぬまでや」と覚悟を決めると気が楽になった。海岸沿いにボチボチ歩いた、よく敵の飛行機が飛んできて機銃掃射もくらった、走って逃げることもできず、その場に伏せるだけのふたりだったが、不思議に弾に当たらなかった。かえって元気な者がやられた。
武庫川と同じくらいの川のほとりで爆音を聞き、二人は手近な草叢に入り込んだが、近くにいた兵隊がやしの木に登った、敵機はこれに目を付けた。旋回を繰り返し、やしの木にすがるその兵隊を訓練の標的がわりのように旋回してはバリバリ、また一回りしてはバリバリ、兵隊が落ちるまで続けていた。一日生き延びられたらいい、そんな気持ちで歩いた、分隊長も耐えてあまり苦痛も訴えなかった。
ふたりにとって幸いだったのは、沈められた輸送船の食料が、海岸につぎつぎ漂着したことだ、米、塩、薬品まで手に入った。もっとも、じりじり焼け付くような熱気のなかで、傷口に塗った薬もそれほど効果はなかった。
傷が化膿し、尻が腐りかけていたのに、蛇をとったり、竹で魚を突いたり、生きるためだが、遊びのようでもあった、約2ヶ月の道中も、なんとかマダンにたどりついた。分隊長も頑張り、二人は輸送船に乗ることができた。
輸送船には、病人やけが人が千人くらいいた。ところが、船内で皮膚病がはやり、たくさんの兵が死んだ、分隊長もここまで頑張りながら、それにやられた。パラオの病院に1ヶ月、台湾で4ヶ月、その後朝鮮釜山の病院にいて、昭和19年秋召集解除になり帰ってきた。そして、戦後30数年を生き、畳の上で死ぬことができた。
敵を倒すことは兵の本分であり、死闘の末敵を倒された方には敬意を表しますが、父の話から推測するに、父は一人も人を殺していないことが、私には何か救いでありました。
「ニューギニア行」
M市のライオンズクラブ(LC)がパプアニューギニア(PNG)に学校を建設し、その完成、寄贈式に現地へ行くというので父が戦った場所を見て、慰霊碑にお参りをして、帰れなかった父の戦友の霊をお慰めすることも父の供養になるかとの思いもあって、同行させてもらうことにした。
「父も見た星」
夜中、外に出て、ふと空を見上げると、満天の星空、サザンクロスがはっきり、クッキリみえている、北半球では見られない星、そして、父も見たであろう南十字星を見た感激はなにものにもかえがたい思いがした。父は怪我をして、あすをも知れぬ身でこの星をどんな思いで見たのだろうか。
海岸線は南太平洋の紺青の海と、すぐに迫るやしやバナナの林につながり、父がこんな海岸を傷を負った身体で歩いたのかと思うと、平和ないまの風景がのどかすぎるので、なおさらまぶたの裏があつくなった。
「慰霊碑参拝」
ラバウルで山本五十六元帥がブーゲンビルで撃墜されるまえ滞在したことで通称「山本バンカー」と呼ばれている、コンクリート製の地下司令部を見学する、いくつかの写真などが展示してある。その後、慰霊碑に、父の戦友の皆さんの労苦を思い「安らかにお眠りください」とお祈りをする。
ご縁があって、パプアニューギニアを訪れ、慰霊碑にお参りして父の戦友のご冥福をお祈りできたことは、父への供養にもなったかと思っています。
帰路「大発洞窟」を見学し、ココポの戦争博物館を訪れる、ここには、高射砲、野砲、戦車、機関砲、魚雷、サーチライト、飛行場建設に使用したであろうブルドーザーなどが展示され、室内には1升瓶、錨のマークのついた杯など、日本海軍のさまざまの生活用品などが展示してあった。
戦車の残骸を見たとき、なんて貧相なのだ、これは軽自動車だ、ドイツのタイガー戦車どころか、アメリカのシャーマン戦車の足元にも及ばない、これでは、勝負にならんわと正直おもった。
日本にとって戦争は遠い昔になったが、ニューギニアでは92パーセントの死亡率であったといわれている、戦争の悲惨さを思うと2度と戦争を起こしてはならないと改めて思ったパプアニューギニア旅行であった。
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