我が家に爆弾が直撃 |
あの戦争では誰もが大なり小なりの犠牲や危険を経験されたと思う。夏になると8 月6 日・8月9 日と8月15日に各地で祈念式典が行われるが、我が家では2月8 日 が忘れえぬ日である。 2 月8 日に人生が一転 私が小2から中2まで住んでいたのは、神戸王子動物園(当時は関西学院跡が護国 神社がになっていた所。)の北西に当る籠池通で、すぐ北の青谷通は外人が多く住ん でいる坂の急な所だった。 中学2 年になっていた私も、毎夜のように1〜3回、B29 が神戸上空に侵入して、 海岸近くの神戸製鋼あたりに爆弾を落したり、偵察だけのこともあるので、山手の住 人は皆油断していた。それに風邪の高熱で休校していた上、警戒警報だったこともあ り、防空壕に入らずにいた。20 年2 月と言えば戦況が悪化してきたとは言え、B29 の本土大空襲が始まる前の頃である。昭和20 年2 月8日早暁、その夜3回目のB29 の襲来で、いつもより長い旋回音と異様な滝のような音に、思わず布団に潜り込んだ 直後、肩に激痛を感じ、凄い爆風と破壊音で、ただ事ならぬ事態を感じ、黒闇の中を 裸足で戸外へ飛び出した。外は5cm程の雪が積もっていた。 表から家を振りかえると、殆ど異状が無いように見えたが、奥の台所付近が破壊さ れていた。裏の軒下に爆弾が直撃したのだ。近所の家で応急処置をしてもらい、300m 程下った上筒井の病院へ運び込まれた。その間負傷した肩は、何かで殴られたような 激痛で右手は麻痺しており、右手はなくなったかと思っていた。どうやら爆弾破烈の 瞬間に被った布団から、はみ出ていた肩甲骨辺の表面を破片が貫通していたのだ。 その時家にいたのは、祖母・父母・兄弟4人で、1階の茶の間近くにいた母と末弟 は即死、私と姉が負傷し病院に運びこまれた。茶の間では姉が女学校4年生で、学徒 動員令で住友プロペラへ、出勤準備で食事中であり、3歳の末弟は母親につきまとっ ていたらしい。その時近所の数軒にも爆弾が落ちたのであるが、小型爆弾であり我が 家ともう1軒意以外では殆ど不発弾だったらしい。 2ヶ月後に退院し、その時私が被った布団を見ると大小数多くの破片が綿の中に突 き刺さっており、これがもし夏蒲団のように薄い布団であれば、私の体が穴だらけに なり、命はなかったであろうとぞっとした。 6 月5 日に全焼 私と姉が入院中に母と末弟の葬儀も終わり、祖母は彦根の伯母宅へ、小2の弟は岡 山県に学童疎開し、急に淋しくなった我が家であったが、大破した台所の修理が終わ り、やっと家具を元通りにした翌日の6月5日、神戸大空襲があり、今度は家が丸焼 けになってしまった。この時も山の方に逃げる途中、周囲に焼夷弾(下図・2)がバ ラバラと落ちるのを見たが、当らないでよく逃げられたと思う。 疎開した彦根でも 近くの焼け残った豪邸の広い地下室で避難させてもらい、数日後に国鉄が動き出し たので、駅舎が焼けた灘駅から彦根に向かった。生き残った一家が伯母宅にお世話に なる。それまで空襲と縁がなかった彦根にも空襲がやって来た。今度は艦載機である。 山かげから爆音と共に飛来し、機銃掃射で地上の人を狙い打ちしてくる。私も芹川の 堤防を歩いていると、突然狙われ堤防下に転げ落ちたことがある。これには戦場さな がらの怖さを味わった。 父の死 そして終戦後の年末に西宮市今津に出てきたが、被爆当時から風邪をこじらせてい た上、無理をしていた父が翌21 年3 月に病死した。父母を亡くした我々4 人はまた また彦根の伯母に引き取られた。中学3年生のときである。 当時の記録(神戸図書館より) 上田浅一氏著の「私の空襲日録」によると、 2月8日(木)雪 午前2時半警報発令。室戸岬より侵入の1機は高知、淡路、大阪を経て志摩半島へ脱去し、3 時23 分解除となったが、更に5時20 分発令あり。四国方面1機、小豆島を経て来襲、凄い音響 を轟かせ、神仙寺、中島、籠池、野崎方面に50 数個の小型爆弾を投下、死者7名、負傷者13 名 を出す。上筒井小学校付近より南部脇浜方面にも被害ある模様。敵機は大阪を経て熊野方面へ遁 走、6時5分解除。 中尾忠介氏著の「神戸空襲と不発弾処理」によると 20 年2月8 日この地に落ちた爆弾は、20Kg 位の小型FRAG 弾で、図・1のように弾頭に赤い プロペラのついた延時信管付きで、爆破すると殆ど水平に炸裂し、その被害状況は実にむごたら しく、溝の中や、橋の下に避難した人々を、まるで肉だんごをぶっつけたように殺していった憎 むべき爆弾である。―図1− (図・2) (図・1) (図・2)は20 年6 月5 日、神戸大空襲で投下された 油脂焼夷弾で、やや細長のエレクトロン焼夷弾と共に投 下された。 これらの焼夷弾は38 本が束ねられた集束型焼夷弾で、 地上近くでバラバラになって落下する。 |