中学校が軍隊になった頃         


From Chuhei
 
昭和18年10月21日。神宮外苑競技場で学徒出陣壮行会が行われた。
これは、文科系学生を在学途中で徴兵し出征させた学徒出陣令によるも
のであった。中等学校においてもこの頃から、学校自体の軍隊化が一層
進んでいった。
 
 
 

 

 昭和十九年四月、私は近所の平内君と甲子園の甲陽中学に歩いて向かった。入学して初めての登校日であつた。校門の近くで上級生に会った。上級生には立ち止まって挙手の敬礼をしなければならない。校門まで来るとその上級生が突然、号令をかけた。

 

「整列!」「歩調とれ!」平内君と並んで、手を大きく振り、膝を上げて進むと、衛兵(上級生)に「かしら右」と挨拶した。そして「分隊止まれ」「右向け右」「かしら中か!」ではるか運動場を隔てた校舎の中に安置してある天皇陛下の御真影に、礼を捧げたのである。「もとえ」「左向け左」「解散!」その時衛兵の一人が飛んできて、私に言った。

 

「おい! ゲートルをどうしたのか?」

「持って来ていません」

「ゲートルなしで、校内を歩くつもりか?」

「すぐに購買部へ行って購入します」

 

 私は、校章入り戦闘帽や、国防色の上下の服は購入して着けていたが、本当に門を入る時の行進や、ゲートルの事など、なにも聞いてなかったのである。

 

 しかし、こんな時、軍隊式では、「聞いていません」「知らされていません」とはいえないのである。知らせなかった人の責任にならないように、自分が悪いと言わねばならない。

 

 そしてすぐに、軍事教練があった。教練は配属将校二人と、退役軍人の一人が担当であった。

最初はその退役軍人が、竹刀をばらした竹棒を持ち、「お前らは陛下の赤子である。赤子であるならば殴って鍛えねばならない」といって、直立不動の姿勢、挙手の敬礼の仕方、そして行進を教えた。行進は、正面を見て背筋をまっすぐ、歩幅七五センチ、膝は水平に上げ、一分間に一一四歩の歩速で、手を目線の高さに振って進まねばならない。一人ずつ順番に歩行させ、少しでも、歩き方が基準どおり行ってなければ、理由をいわず、遠慮なく竹の棒で、頭を殴りつけた。頭に大きなコブがいくつも出来た。

 

 配属将校は若い方と、年配の方がいて若い方は銃剣術が得意で、すこしでも、もたもたすると、すぐに手で殴りつけた。木銃を構えて、前へ進め、突けという基本動作の時に、私にはどこが悪いのかさぅぱり分からないままに、私を指名して校庭の隅に一時間「捧げ銃」したまま立たせ、その後、身体が吹き飛ぶほど殴った。そんなことがいつもあった。私はどうやらこの配属将校に睨まれたらしい。

 

 年配の方は、あまり殴らなかったが、熱心に手榴弾の投げ方などを教えた。訓練用手榴弾を使い、「まず、上部の安全ピンを抜く、実際は歯で引き抜く場合が多い。そして頭頂部を硬いものに叩きつける。すると、撃針が信管に接触し、火薬に点火されて、四秒から五秒で爆発する。硬いものが無い場合は、靴の踵の硬いところを使う。あわてず、一・二・三で投げればよい」そして、何遍も訓練用のもので実際に投げさせた。もたもたしていたり、投げ損ねると「自爆、戦死!」と怒鳴られた。そのほか匍匐(ほふく)前進、校外に出てゆく行軍訓練などがあった。

 

 私が教練を受けた正式の配属将校は、この二人だが、この時、全国の中学以上の学校には、すべて配属将校がいて、軍事教練を取り仕切っていたのである。

 

 私と同年齢の山田さんも地方の公立中学で配属将校に苦い思いがあると言う。山田さんは、私が世話役をしているシルバー人材センター英会話サークルに最近入会された英話好きの方だが、戦時中、中学の時から英語のテキストを手放さずに勉強していた。それを見つけたその中学の配属将校が、「貴様 、敵国の言葉を好むとは何事か!」と怒鳴りつけてきた。その当時英語は敵性語ということで、野球でも「ストライク」は「よし」、「ボール」は「だめ」、「アウト」は「ひけ」と言っていた。特に陸軍はカレーライスを「辛味入汁掛飯」といっていた。(海軍は海軍カレーと言った)そんな時代であったからだ。

 

 しかし、田中さんは反論した。「何故でありますか? 孫子の兵法に『敵を知りて己を知れば、百戦して殆うからず』という言葉があります。敵の言葉を知る事は、戦争には必要であります」私はあの時代、配属将校にこれだけ言える田中さんは、すばらしい勇気のある人だと思う。しかし、その配属将校はカンカンに怒った。田中さんによれば、

 

「何を言うか!  貴様のような奴は、すぐに一番厳しい戦場の最前線に送ってやる。覚悟しておけ!」といって、田中さんの両頬を殴ったと言う。

 

 私はこれを聞いて、配属将校に当時そんなことが本当にできたのかどうか調べてみようと思った。私も配属将校には睨まれていたからである。

 

 配属将校の制度は大正一四年の、第一次大戦後の軍縮により始まった。これは軍隊のリストラであった。二一個師団のうち四個師団を廃止したのである。そのとき「陸軍現役将校配属令」を公布して、余剰となった将校二五〇〇人が、中学校以上の学校に軍事教練を教える将校として配属となった。今で言う天下りである。最初のうちは私学への配属は任意にするとか、全般に学校側に対する相当の遠慮があったようだが、ところが、昭和も一〇年台に入ると、軍人の権力は強力になる。

 

 各学校には年に一回、軍事教練の「査閲」があって、それには、軍の管区連隊長級が出席する。学校側は教官を先頭に全校挙げて日頃の教練結果を披露、最後に高学年生は三八式銃と帯剣で分列行進を行い、「査閲官」から講評を受けるのである。配属将校は良い講評を受けるために、学生を厳しく鍛えるようになっていった。

 

 中学の配属将校は尉官が多かったが、校長の次の位として、絶大な権限を持つようになった。

軍事教練の成績が悪ければ上級学校に進学できないようになった。そして軍隊に入っても、その成績によって甲種幹部候補生(将校)、乙種幹部候補生(下士官)に振り分けられた。最悪の者は一生兵卒である。生徒にとって軍事教練の成績は一生、さらに生命をも支配することさえあった。このように、軍事教練の成績内申書は軍隊にまで付いて回ったのである。

 

 私の場合も、軍事教練には一生懸命取り組んでいたものの、いつも睨まれて、殴られていたから、恐らく教練では悪い成績が、一生ついて回る事になったであろう。ところが、その若い方の配属将校が、急に前線への配属となった。

 

「自分の行くところは、済州島の守備部隊である。もとより、敵が上陸すれば、守り抜き死をもって国に報わん覚悟である」と皆を集めて言った。私は心の中で――敵が済州島などへ上陸する前に、先ず沖縄が戦場になり、続いて本土決戦になる。そうなると、こちらの命の方が先になくなるだろう――と思って聞いていた。

 

 しかしすでに、この頃は、若い配属将校がいなくなっても、軍隊の「殴って鍛える」風潮が学校内に充満していて、先生は生徒をよく殴った。殴るための棒をもって授業に出ている先生もいた。また上級生は下級生を殴る(なにか小さな事でも文句をつけて平手打ちするのが好きな上級生がいた)ことが、普通になっていた。また「ぜひうちの息子を殴りつけ、日本男児の魂を入れて鍛え上げて頂きたい」と学校に申し出る生徒の親もあったと聞いている。

 

 これは、私のいた中学校に限らず、私と同年輩の他の中学校出身の人に聞いても、当時よく殴られたという。ところが私より、四・五歳年上の人達に、聞いてみると、確かに教練は厳しかったが、「殴って鍛える」のはそれほどでもなかったらしい。

 

 昭和一八年一〇月二一日に神宮外苑競技場で行われた学徒出陣壮行会(二〇歳以上の文科系学生を在学途中で徴兵し出征させた学徒出陣令による壮行会)の頃から、軍隊のやり方が、中学校にも及んできたのであろう。

 

 殴ることや、殴られることになれた生徒の中には、戦争が終わった後も「鉄拳制裁が行なわれない教育は間違っている」と学内の弁論大会で大いに論じ、拍手喝采を受けていたものもいた。

 

 さて、昭和一九年秋になると、陸軍暁部隊が中学の校舎の一部や柔道場・剣道場に駐屯して、校門や出入り口には、本物の兵隊が衛兵に立ち、兵隊との共同生活で、文字どおり中学校は軍隊となった。

 

 一方、軍需工場等の労働不足を補うための中学生等に対する学徒動員令も次々と政府から要綱が出て、最初は期間を決めていたが、やがて一年を通じての動員となった。

 

 私も昭和二〇年四月から、甲陽学徒隊という腕章を巻いて、阪神電車の尼崎車庫に出動した。有り難いことに阪神電車の社員章が交付され、それを見せると関西のすべての鉄道は省線(J・R)も含めて無料になった。家族が同伴しても当時は無料だった。

 

 私は動員先に上級生がいたものの、「殴って鍛える」学校から少し開放されて、ほっとした。電工小隊に配属され、電車のモーターの「アマチュア(回転子)」を取り出し、接触部分を点検して磨いた。昼食は支給されたが、満州大豆だけ、とか海宝麺と呼ばれた黒い海草が入ったぱらぱら飯だった。

 

 空襲の跡の線路の復旧にも、参加した。阪神の芦屋から深江の間の線路の真ん中に爆弾が落ち、レールが空に向かってひん曲がっていた。付近の防空壕には大勢の人が埋まって死んでいた。私はその掘り出しも手伝った。 阪神国道二号線の淀川大橋に爆弾が命中し橋が大きくえぐられていた。二号線には阪神電車国道線が走っていた。切断された架線を繋ぐために、淀川の真ん中でふらふら揺れる鉄橋の支柱に登り、作業をし続けた同じ中学の仲間もいた。

 

 阪神電車には軍人はいなかったが、主要な軍需工場には、軍の技術将校がいて厳しく監視していた。私の中学ではないが、小銃の部品を作る工場に動員していた生徒が間違って一〇〇個近い不良品を作ってしまった。彼は技術将校に「貴様は重営倉だ! 」と一喝され、殴り倒された。彼は責任を感じて、短刀で切腹して死んだ、と聞いている。

 

 昭和二〇年六月ごろ、市から私に兵役のための身体検査の通知が来た。この時義勇兵役法が公布されたのであった。一五歳以上で六〇歳以下の男子、一七歳以上で四〇歳以下の女子にはすべて義勇兵としての兵役の義務を負うというものであった。沖縄戦の各中等学校の鉄血勤皇隊や、女学生のひめゆり部隊やまたドイツの国民突撃隊を参考にして作られた男女とも徴兵する制度であった。――いよいよ本土決戦――と私は思った

 

 これは、女子にも兵役を課し、国民総戦闘隊を想定した驚くべきものであったが、学校単位で結成される場合と、地域単位での場合が考えられた。しかしその時、中学校の教練用の三八式銃などは、すべて軍に提出させられていた。それでも「本土決戦の先兵は学徒で」と、東海軍管区などでは先駆けて「学徒義勇隊」を編成した。そして幾人かが選抜されて、爆雷をかかえて戦車めがけて突撃する、「人間地雷」の特訓を受けたという話を聞いた。

 

 毎日のように、続いた空襲の中でも、八月一四日午後一時、大阪砲兵工廠周辺への一トン爆弾などによる集中爆撃は、B―二九が一六一機、投下爆弾七〇五トンに及び、京橋駅ホームにも爆弾は直撃した。駅にいた数百人は吹き飛んで即死した。勿論、砲兵工廠で働いていた人達、また動員学生達の多くは犠牲となった。私はその時西宮空襲で家が焼けて、千里山の親類宅に寄寓していたが、その同じ家に大阪空襲で寄寓していた大阪の中学生が、血と泥にまみれて、夕方帰っ

てきた。彼は砲兵工廠に動員で働いていたが、入った防空壕はくずれ、埋まった土の中を、やっと這い出して天六まで歩いて逃げて、帰ってきたと言った。そして、砲兵工廠は完全に破壊され

てしまったと呟いていた。

 

 私は後でこの爆撃は、ポッダム宣言受諾を早く促すための日本爆撃の一つだと知った。しかし、東京では、この爆撃の一時間前の御前会議でポッダム宣言受諾が決定していた。翌日の八月一五日はポッダム宣言受諾通知のあとの詔勅の録音が放送された。このよく晴れた日の静けさ、明るさに比べて、前日の爆弾の大量投入の激しさとは、極端な対比を見せた。

 

 

 私は今香櫨園に住んでいて、夙川の堤を散歩する時、よく通学途中の甲陽学院中学の生徒たちに出会う。彼らは白い上着と黒いズボンでリュックかカバンを肩に、阪急または阪神の駅から、夙川左岸の堤を南に歩き、風情のある葭原橋を渡り、学校の正門に向かう。帰りのコースも同じでどうやら決まっているようである。今では中学・高校一貫で有名大学を目指すランクの高い進学校になっていて、皆勉強していそうな感じである

 

 しかし、紛れも無く私の後輩たちであり、あの戦争末期戦闘帽をかぶり、腕章をつけゲートルを巻いていた私と、年齢も同じ生徒たちである

 

 私はグループで歩いている生徒たちに対して、大きな声で「整列!」「歩調とれ!」「前へ進め!」と号令をかけたい衝動に駆られる時がある。勿論そんな事をすると、「けったいなジジイに、注意!」と要注意人物にされてしまう。また「昔は中学校が軍隊になった」と話しても、受験一辺倒を目指す彼らにはまともには聞いてはくれないだろう。

 

 いや! 待てよ! 私は或る時、「俺たちだって、その軍事教練とか言うのを受けて、戦争とかをやって見たいよ! うわ、おう、うわおう、うら、うららら!」という声がどこからともなく聞こえてきたような気がして、どきっとして立ち止ったのであった。

 

 

■■◆      宙 平
■■■     Cosmic Harmony
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