昭和の鞍馬天狗と韋駄天夫人 |
From Chuhei |
大丸ミュージアムKOBEで開かれた『白洲次郎と白洲正子展』
へ私が行った今年2月2日の写真です。
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また、2月28日(土)9時からNHKドラマスペシャルで白洲次郎のドラマが始まります。NHK総合テレビで3回に分かれます。下記がその説明です。
白洲次郎役は伊勢谷友介で、白洲正子役は中谷美紀です。
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参考文献です。 | |
今年(二〇〇九年)二月二日、大丸ミュージアムKOBEで開かれた『白洲次郎と白洲正子』展へ行った。平日で有料にもかかわらず、会場は満員であった。
白洲次郎のことはNHK「その時歴史が動いた」でも取り上げられ、また今年の二月二八日(土)から総合TVのドラマスペシャルで三回に分けての放映があり、宝塚歌劇でも『黎明の星』として昨年上演されているから今は人気が高いのだろうと思った。
私は今まで、本などで多少は知ってはいたが、今回の展示でさらに興味が深まったので白洲次郎(一九〇二〜一九八五)と白洲正子(一九一〇〜一九九八)の残した言葉から、感じる思いを書いてみた。
われわれは戦争に負けたのであって、奴隷になったのではない。次郎(口癖のように言っていた)
敗戦の年の一九四五年九月、次郎は外務大臣に就任した吉田茂からの要請で終戦連絡事務局の参与に就任、翌年次長に昇格する。展示会場には、このときの辞令やいきさつを説明したパネルがあった。
彼はイギリスのケンブリッジ大学仕込みの流暢な英語を駆使して、占領軍に対してもおかしいことはおかしいとはっきりものを言った。GHQと折衝する他の日本人の役人たちが、ぺこぺこと言いなりになっていたのに対し、彼は「従順ならざる唯一の日本人」と言われた。GHQ民生局長のホイットニーに英語が上手いと言われたのに対し、「あなたの英語も、もっと勉強すれば上達しますよ」と切かえした。アメリカ人にそんな事を言うほど、彼はイギリス上流階級のしゃべる英語に通じていた。
敗戦後最初のクリスマスを迎えた時、マッカーサー一家に天皇からプレゼントを贈ると言う事になって、吉田外相の名代として、次郎がマッカーサーの部屋に届ける事になった。部屋に入ると机の上は贈り物でいっぱいになっていたので、マッカーサーが「そのあたりにでも置いておいてくれ」と絨毯の上を指した。その途端血相を変えた次郎が「いやしくもかつて日本の統冶者であった者からの贈り物をその辺に置けとは何事ですかっ!」と叱り飛ばしたのは、有名なエピソードである。
私は次郎の口癖であった「戦争には負けたけれども、奴隷になったのではない」と言う言葉に、敗戦当時のさまざまな事が頭のなかによみがえる。私は中学生だったが、肩を張っていた配属将校は煙のように消えて、小さくなっていた英語の先生が脚光を浴びるようになった。「お前らは陛下の赤子だから、殴って鍛える」と言って平手や拳や棒で殴っていた先生達は生徒を殴るのをやめ、民主主義という言葉を発しはじめた。パンパンと呼ばれる女性たちが、米軍キャンプの付近を徘徊し、子供たちはアメリカ兵を見ると「ギブミーチョコレート」と物乞いした。奴隷というより一転アメリカの乞食になった。その仰ぎ見る頂点にはマッカーサーがいた。しかしシベリヤ抑留者などは、文字通りソ連の奴隷となって、強制労働を強いられた。
私は日本人の多くが、たちまちコロリと変わってしまったこの時期、気概を持って誇り高く生きる次郎が終戦連絡事務局の要職として活躍した事は、占領下の日本にとっては正に一陣の清風であったと思っている。
あたしのおうちは貧乏なんだって、ずっと思っていたのよ。
私は白洲正子のこの言葉に驚いた。なにしろ彼女は樺山伯爵家の次女である。家には馬車が三台あり、大正時代から家紋のついた七人乗りのキャデラックがあって当然運転手がいた。一四才でアメリカのハートリッジスクールに入学している。どこが貧乏なのだ? と、言いたくなってくる。しかし、それまで通った学習院でもそうだが、周りのすべてが大資産を持つ人達に囲まれていると、うちは貧乏なのだと、考えるのかもしれない。正子が生まれたのは、東京麹町区永田町一丁目一七番地で、五一七坪の邸宅だが、付近には佐賀藩主の鍋島公爵邸や三田藩主九鬼男爵邸などがあった。樺島家が付き合う人達の屋敷はみんな自分の家より豪壮でもあったからであろう。しかし、そんな樺島家でも昭和の金融恐慌の影響を受けている。正子がアメリカから帰ってきた原因もそこにあった。
そしてこの一九二七年の金融恐慌は白洲次郎の父の経営する白洲商店を倒産に追い込むのである。そのため次郎もイギリスから日本に戻ってくる。このことが次郎と正子が出会う原因にもなったのである。
二五歳までは結婚しないと言い「いかにすべきかわが心、のおもいは始終私を離れず、大和や京都をあてもなく放浪していたのはその頃のことである」と随筆(『源氏物語と私』)にその頃の気持ちを書いている正子だったが、兄に連れられて行った茶席で、次郎と会うと、いっぺんに一目ぼれをしてしまった。一目ぼれは次郎も同じであった。
一九二九年一一月一九日、二人は京都ホテルで結婚式を挙げた。次郎二七歳、正子一九歳の時である。 正子は「いかにすべきかわが心」と言っていたが、四歳の時から梅若実について、能を習い、一四歳の時に女人禁制の能楽堂の舞台で始めて「土蜘蛛」を舞うほどであった。が、本当の日本の文化に対する美意識に目覚めるのは、結婚後の事である。
しかしながら、私は展示会場で正子の蒐集していた能面や、屏風絵、古い陶器などの数々を見ながら彼女の美意識の根源には、幼くしてなじんだ能から来るものも大きいのではないか? と言う思いを捨て切れなかった。
夫婦円満の秘訣は、できるだけ一緒にいないこと。
いつも一緒にいて、仲のよい夫婦もけっして少なくはないと、私は思う。そして次郎と正子も特に別々に住んでいたわけでもなかった。展示会場でも二人が過ごした鶴川村の旧白川邸武相荘(武蔵と相模の境に因み、無愛想をかけて名づける)の一部も再現されていた。
しかし、次郎の進んだ道と全然異なる道を正子は進み、関心の持つ世界もそれぞれが全く違った。したがって日常の日々では一緒にいないことも多かったのではなかったかと思われる。しかしお互いにあまり干渉せず相手を尊重して、その活躍を誇りに思っているようなところがあった。こういうのも、確かに夫婦円満を保つ一つの形であることは、間違いない。
次郎はその後、第二次吉田内閣成立時、初代貿易庁長官に就任した。これは輸出の認可をめぐって贈収賄の噂の絶えない貿易庁の綱紀の粛正をするためであった。
その翌年第三次吉田内閣では通商産業省設立に尽力した、これは商工省の硬直化した組織を破棄し、貿易振興を中心した経済成長に弾みをつける斬新な組織を作り上げるためであった。そして、息つぐ間もなく電力事業の再編に取り組んだ。これは国家が統制していた電力事業を民営化して、九つの電力会社に分割する案を実現するためであった。この時、電力民営化推進で有名な電気協会会長松永安左エ門を支えた。 そして一九五一年、東北電力会長に就任した。これは水利権などをめぐって、遅れていた只見川流域電源開発事業をすすめ、当時の電力不足を解消し、安定供給を確保するためであった。
このように、これという大事な時に出現して敏腕を振るい、どれもこれも困難続出の問題を解決すると、さっと引き上げる。連合軍総司令部との交渉や、それに続く憲法改正、講和条約交渉の時も含めて、白洲次郎の活動は正に「昭和の鞍馬天狗」だと言われていたのである。
一方、正子は「韋駄天のお正」と言われていた。このあだ名をつけたのは、古美術、特に陶器の鑑賞眼では天才的と言われ、本の装丁家でもあり、美術評論や随筆でも有名な青山二郎である。(一九〇一〜一九七九)
青山の所には当時文芸評論家の小林秀雄(一九〇二〜一九八三)や、河上徹太郎(一九〇二〜一九八〇)を中心に、当時の有名な作家たちが集まり、出版作品や美術品を中心に、酒を飲みながら、批判し合っていた。正子は最初の頃酒を飲めなかったが、青山に弟子入りして、手に入れた美術品や書いた作品を持ち込んでいた。その多くはコテンパンに悪い所をえぐりだして批判される。新潮に出す予定の随筆『第三の性』も徹底的に青山に批判され、削りまくられた。六万円で買って持ち込んだ香炉を、青山から「それは僕が昨日売ったものではないか」と言われた。正子は幾度も泣いた。それでもやめることなく、すぐに走り回って新しい美術品を次々持ち込み、あちらこちらを取材して随筆を書いた。こうだと思えば、すぐに走り出す。これが韋駄天といわれる所以であった。そしてとうとう、銀座の「こうげい」という染色工芸の店の経営までする。それでもさらに、能に骨董に紀行に、随筆取材にと活動の巾を広げていった。
一九六四年、随筆『能面』が第一五回読売文学賞を受賞。そして、京都を拠点に、畿内の村里をくまなく歩いて「芸術新潮」に二年間連載した随筆『かくれ里』が第二四回読売文学賞を受賞した。一九七二年のことであった。
このように、別々の分野で大活躍していて一緒にいることの少なかった二人だが、一九八五年の秋、次郎八三歳、正子七五歳のとき二人で旅行した。一緒に旅行に行くところなど一度も見ていない子供たちはみな驚いた。
二人は伊賀の陶芸家を訪ねたり、京都嵐山で遊んだりして、本当に久しぶりに楽しんだ。 そして旅から帰ってきて、間もなく心臓と腎臓疾患で入院し二日後、次郎は安らかに息を引き取った。「葬式無用 戒名不要」と書かれた紙が展示会場にあったが、これが彼の遺言書であった。
正子はその後、感傷に浸っている間もなく韋駄天らしく、活動を続けた。『西行』を「芸術新潮」に連載し、西行ゆかりの地を訪ね回る。『白洲正子自伝』などを書き、さらに『両性具有の美』を「新潮」に掲載するなど執筆は大車輪の活動であった。
正子の自伝では西国三三ヵ所観音巡礼にふれ、「悟り悟りては未悟に同じ」という言葉を引いて、開眼というものは一回こつきりではなく、一生繰り返しているうちに見えてくるのではあるまいか? ……草木国土悉皆成仏。で、終わっている。
川村二郎の評伝によると、一九九八年の一二月二六日、体調を崩すと通いなれた病院に入り、サンドイッチを平らげ、医師に痛み止めの注射をしてもらうと、眠ったまま、さっさと逝った。「韋駄天お正」にふさわしい最後だったとある。八八歳の生涯であった。
私は『白洲次郎と白洲正子』展を見た後も、彼らの生きた激動の時代の、諸々の出来事やその思いが次々に浮かび、しばらくは頭から去ることがなかった。
■■◆ 宙 平 |