鎮魂の駅 |
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Chuhei
近鉄東青山駅北のオリエンテーリング地図「四季のさと」です。駅前の花壇、旧総谷トンネル、旧東青山駅跡、衝突時の写真です。
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近鉄大阪線は大阪上本町方面から行くと、伊勢中川駅で名古屋線と山田線に分かれる。その 5つ手前の駅に東青山駅がある。大阪上本町から急行で1時間36分ほどかかる、人家のない 山地に囲まれた駅で、改札には通常駅員もいない。それでもここは急行の停車する駅である。
私がこの駅を利用することがあるのは、ここでよくオリエンテーリング大会が開かれるから である。平成19年12月から平成20年4月、そして7月から11月にかけて、三重県のオ リエンテーリングクラブの有志たちが、GPSを使い駅の北側周辺の詳しい調査をして競技用 の地図を作り上げた。その地図により、平成20年12月8日、全日本リレー大会を開催した。 その後、同じ地図で中日東海ブロック大会、スポーツフェステバル大会などがあり、昨年は11 月に関西学連インカレミドルセレ併設大会が開かれた。私はこの2つの大会には、参加している。
駅の前には花壇や噴水、少し高台になったところが芝生の広場となり、休憩場やトイレもある ので集合場所として使いやすい。そこからすぐに、自然の森が広がり、尾根や沢、土崖や、湿地、 池などが複雑な地形を作り出していて、競技には正に好適地である。
近鉄ではこの駅の周辺を「四季のさと」という名称で呼んでいるが、「さと」であれば、当然 幾人かの人が住み、人家がなければならないはずである。
《こんな人の住んでいないところに、なぜ近鉄は駅を作ったのか? オリエンテーリングといっ ても、常に大会があるわけでなく、ハイキング客も多いとは思はれない。花壇や噴水や芝生の手 入れは近鉄がしている様子だし、駅の管理費用とあわせると、大赤字の駅ではないのか?》
私はネットでこの駅を検索してみたところ、今の場所にこの駅が出来たのは、昭和50年に新 しく複線の新青山トンネルが完成した時であって、それまでは、北へ大きく迂回する単線のルー トだった。そして旧の東青山駅は今の場所より北西の山地にあり、昭和46年10月に列車暴走 衝突事故が起こった。このことが、新青山トンネルの完成を一層早める結果となった、というこ とが解った。
私は近鉄の列車暴走衝突事故というと、昭和23年3月に、生駒のトンネルから、ブレーキが 利かず、あの長い急な生駒山の坂を下の花園駅(当時の駅)まで、突き走って、そこに停まって いた普通電車に衝突した満員の奈良発上本町行き3両編成の急行列車のことを思い出して身震い した。私が事故にあったわけではないが、母の実家が奈良郡山にあり、当時母と一緒に近鉄奈良 線をよく利用していたので強く記憶に残っている。死亡者49名、負傷者282名を出したこの 事故は、それでも規模の割りに犠牲者が少なかったと言われていた。その一つは、通報により瓢 箪山駅にいた準急列車を急遽待避線にいれ、ポイントを切り替えて暴走列車をやり過ごし、そこ での衝突を避けたことである。この駅からは平坦となり、その先はスピードが多少は落ちたから とされる。また列車には警察官や近鉄社員が居合わせ、衝突に備え身を伏せるなどの体勢を乗客 に取らせ、空気抵抗を増して減速させようと全部の窓を開けさせた。しかし、恐怖の余り窓から 外へ飛び出した人が2人いて、一人は死亡、もう一人は大怪我を負った。
このような恐ろしい事故が、旧の東青山駅でも起こっていたのであろうか? 私はさらに検索 を進めたところ、当時、伊勢新聞に出た記事と写真が、ネットにあった。それによって、私は今 年秋に使われたオリエンテーリングの地図「四季のさと」をみると、地図には、西北から南東に かけて、古い路線跡が弓の字型に大きく描かれているが、ここを暴走列車が驀進して、地図の南 東端のトンネルで衝突したことが解った。
生駒の暴走事故から21年も経っていて、この時はすでに旧東青山駅の西側の旧青山トンネル にはATS(自動列車停止装置)が設置されていた。ところがこのATSが故障していたのであ る。事故はこのことから起こった。
ATSは信号が赤にもかかわらず進もうとする電車に働きかけて自動的に電車を止めるもので ある。ところが、4両編成の上本町発近鉄名古屋行き特急電車は信号が青になっても、前に進ま なくなった。そこで、運転手は電車のブレーキの故障と考えて、車輪に手歯止めを挟み、各車輌 のブレーキエヤーの供給コックを止め、エアを全部抜くという非常措置を行っていた。ところが、 列車が動かないと聞いて旧東青山駅から駆けつけた助役が手歯止めを外して、これで動くだろう と電車に乗り込んできた。
そして、運転手がブレーキを解除した途端列車は走り出した。その場所からすぐトンネルを抜 けたところにある旧東青山駅を通過し、エアーの充填がまだ出来ず、ブレーキが効かないまま、 次のトンネルのある下り坂を暴走しはじめた。そしてさらに2つ続くトンネルを抜けたところは、 当時垣内信号所といわれ、ここが地図「四季のさと」の弓字型の路線跡にあたる場所である。こ こでは西と東に信号所を設け、その区間だけを複線にして上り列車と下り列車の交流場所として いたのである。
ところが加速度の付いた列車は信号を無視してその区間を突破し、今の東青山駅のすぐ東側の カーブで脱線転覆して、そのまま、その先の総谷トンネル内に突入した。そして3両目以降は入 り口の壁に激突した。先頭の2両はその時、トンネルを対向してきた賢島発京都・難波行き7両 編成の特急電車と正面衝突した。
この事故で死者25名、重軽傷者227名を出した。暴走車の運転手、そして運転席まで来て いた車掌、旧東青山駅の助役、また対向車の運転手も即死した。
今年の1月5日、私はオリエンテーリングの復習会のために、この東青山駅にまたやつて来た。 大ベテランで地図読みに詳しい辻村さんの主催で、昨年11月の競技のコースを辿る有志の集ま りであった。奈良から笠井さん、三重からこの地図の調査の経験のある宮田さん、名古屋から女 性の長瀬さんが参加した。いずれも競技経験豊富な元気な方たちであった。
当日の地図を見て、12箇所のコントロール(標識)の跡を西の尾根上の岩からスタートして @、Aと順番に時計廻りに巡って行った。Bの小沢に行く手前で、昔の路線跡に出会った。路線 跡は高く盛り土がしてある。私達はその下の古いトンネルを通った。
この路線跡をすぐ北に辿ると二川トンネルの出口がある。しかし、今は使われておらず通る人 もない。その奥には溝口トンネル、滝谷トンネルと続いて旧東青山駅があった。事故列車はここ を暴走したのである。今、この付近は、深い山の中で全く人の気配はない。噂によると、東青山 駅周辺の廃道トンネルは心霊スポットとして有名だそうで、時には女性の悲鳴が聞こえたりする そうだ。そういえばトンネルに通じる道の両側の深い木の茂みなどはどこか不気味である。
Cの子尾根を確認して、その上のやや広い尾根で、私達は弁当を食べることにした。その間に、 辻村さんは、ミニレースをするために、5箇所のコントロールをそこから北の地帯に設置のため 出発した。我々が 弁当を食べ終わった頃、辻村さんが帰ってくると、我々は別の小さな地図をそ れぞれ持って、順番に出発し、示されているその5箇所の場所を廻る、という練習である。コン トロールには短いビニールテープが付いていて、それを取って次に進む。最後になった人が、結 び付けてあるコントロールを撤収して帰ってくる。辻村さんはその間に弁当を食べる。
私は最初にスタートしたのだが、歩いていたので、すぐに長瀬さんが追いついてきて1番を先 に取った。2番への間に宮田さんや笠井さんも追いついてきて、私は2番からコントロールの撤 収担当となった。皆私より若いベテランぞろいだから、これは仕方がない。3番、4番と私は地 形の変化を楽しみながら落ち葉の中を進んだ。5番は沢と尾根の間にある穴だったが、私は一旦 4番の南西にあるピークに登ってそこから尾根を降って行こうと考えた。このあたりは途などは 全くない小藪が続く、私がピークに達したとき、谷間の茂みの彼方から女性の叫び声が聞こえた ような気がした。《あっ! やはりここは心霊スポットだ! 列車暴走事故の霊魂が未だにこ の山をさ迷っている》と私は一瞬思った。怖いというよりも、亡霊がいるのなら会ってみたいと いう気持ちがした。また聞こえた!
どうやら、コンパスの示す5番の穴の方角と声の方向が一致している。私は夢中で尾根を駆け 降って行った。最後のコントロール5番の穴に女性の長瀬さんがいた。私が遅いので、ここまで きて私を呼んでいたのだった。
ミニレースの後、我々は大会のコースDEFと回った。ここからGへのルートは大会で皆が迷 ったところである。小径が明確でなく沢・尾根・湿地が微妙に入り組んでいるからである。私も 時間を取ったところだが、皆で廻ると、難なく場所がわかった。
H、I、と微地形地帯から沢、尾根と進んで山地では最後のJのあった尾根まで来た。この尾 根を南にもっと進むと、列車が正面衝突した総谷トンネルの上部に到る。大会の当日私がここま で来ると、スタッフの学生がいて、既にコントロールを撤収したところだった。「もうチェック 出来ないのか?」と私が聞くと「時間がオーバーしていますから」と答えた。日本の学生の大会 では、若者向けの長いコースのクラスしかなく、おまけに一般人のスタートは、一番後の遅い時 間からになるので、私のような高齢者は時々規定された時間をオーバしてしまうことがある。K は惣谷池の堤防の東の端。そしてゴールは西の端であった。
この日宮田さんがこの池の水際の部分を確認したいと途中で離れていた。私は静かで大きな惣 谷池に向かって「おーい!」と声を上げた。池はその声を吸い込んだまま、午後の光を紺青に輝 かせていた。私は事故現場近くの霊気を感じ、ふと霊場恐山の宇曽利湖を思い出した。この堤の 西端のすぐ下は、あの路線跡で脱線した現場だ。東側の奥には列車が衝突した廃道の総谷トンネ ルが口を開けている。事故当時この辺は正に修羅場のような状態だったろう。事故の時刻は15 時58分。私達がここに到達した時刻に近い。しかし今は気味悪いくらい静かである。芝生広場 の休憩場で休んでいると、宮田さんも帰ってきたので、復習会はここで無事解散した。
駅員のいない改札口で芝生広場の高台を振り返ると、段状になった花壇の上に、小寒の日には 珍しく、穏やかな午後の光が差し込んでいた。
《ここから見ると、段状の花壇はまるで葬儀の祭壇に見える。あの暴走事故の霊魂たちも今日は あんな陰鬱な廃道トンネルの中なんかにいないで、この祭壇の上の大空を飛び回っていることだ ろう。そして、やがて春になるとさくらが囲んで彩を添える》
今の近鉄東青山駅は、正に列車暴走事故犠牲者への「鎮魂の駅」だったのである。
(平成26年1月29日)
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:★:cosmic harmony 宙 平 *−*−*−*−*−* |
小嶋 裕様
◆◇◆今日は 大塩 二郎です◇◆◇
昔懐かしい”青山高原”の名前を読みました。
石坂洋次郎の”青い山脈”の映画や、歌が流行ったころ、20才の青春時代に最初にハイキングに行ったのが、
”青山高原”でした。残念ながら写真は1枚もありません。 今日のエッセイでオリエンテーションにちなみ、鎮魂の駅の謂われを読みました。
昭和46年に青山トンネル付近で近鉄事故があったのですね。そのことは私の記憶には残っていませんが
昭和23年の近鉄奈良線・花園駅のことはよく覚えています。 当日、学生時代だった私は、午后近鉄上六駅前を通ったのですが、救急車が沢山集まり、上六駅から担架
に載せられた怪我人が次から次と運ばれて救急車に乗せられて行くのを見ました。何があったのかは解らず 家に帰ってから、石切駅から運転手が電車から離れた間に電車が動き出し、生駒山の下り坂を、朝の超満員 の木造電車が100Km/hのスピードで、花園駅に停車していた鋼鉄製電車に衝突し、大惨事を起こしたようで した。 その数時間後に現地で手当てが出来なかった犠牲者を電車で運んできたのを目撃したのでした。上町筋には、
国立病院や、赤十字病院など大きな病院が当時からありましたから。 関西では、それ以来の大事故は、信楽鉄道の大事故と、JR尼崎での大事故かと思います。
しかし、きょうのTVニュースで、北海道JRでATS(自動停止装置・別名、バカ除け)をハンマーで叩き壊した
職員の裁判のことは出ていました・・・クワバラ・クワバラですね。 |