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Chuhei
昭和21年、新円切替により発行された10円紙幣です。右はその部分の拡大です。
庶民あての戦時国債、弾丸切手のポスターです。
新円切り替えはなんであったか?
突然! 預金封鎖がやってきた。新聞はいっせいに、銀行・郵便局・信用組合・農業会(農協)の すべての預金が凍結されたことを報じた。時の渋沢蔵相は「悪性インフレーションという重い病気を 治すために辛抱して欲しい」とラジオで全国に訴えた。
昭和二一年二月一七日、私は中学生だった。すぐに小遣いにもらった財布の中身を確認した。五〇 銭紙幣が三枚ほどと、一〇銭硬貨が少しあった。「一〇円札以上はもう使えなくなった。五〇銭札は、 大丈夫だから大切に持っていなさいよ」と母が言った。
やがて、封鎖された預金の払い出しは、世帯主が月額三〇〇円、世帯員一人一〇〇円が限度である 事、給料は新円で五〇〇円以内と報じられた。そして、手持ち現金の一〇円札以上はすべて、その年 の二月二五日から三月七日までの間に新しい円と交換しなければならない事になった。交換できる新 円は一人一〇〇円までで、それ以上は封鎖預金と同様の扱いとなった。
新しい円札の印刷が間に合わないので、旧札の右肩にそれぞれの金額を表示した証紙を貼って新札 の代用とすることが出来た。私もご飯粒で貼り付けた証紙付の和気の清麻呂の像のある一〇円札を持 っていた事がある。
やがて、新円が出回ってきた。国会議事堂の一〇円札と聖徳太子の入った一〇〇円札であった。こ の新一〇円札は中学校でも話題となった。先生自身が授業の合間に、「この一〇円札のデザインをよ く見よ。左の議事堂を囲む四つの丸の模様で(米)という字に見えないか。そして右の鎖が(国)と 読める。この札は米国、すなわちアメリカの占領下であることをあらわす、という人がいる」といっ た。そのほかにも、菊の紋章が鎖に巻かれているとか、議事堂の下の模様は戦艦大和が炎上している ように見えるとかその後、新一〇円札を囲んで皆で知っている事を言い合ったのを私は覚えている。
この預金封鎖は敗戦後の急激なインフレーションをおさえるための処置といわれていた。確かに銀 行券発行高はこれで、一旦縮小はした。しかし、その後の物価上昇を抑える事は出来なかった。私は 今考えてみて、封鎖の一番の目的は、一回限りとして同時に行われた政府の財産税徴収によって、国 民資産を召し上げることにあったのではなかったかと思っている。
昭和二〇年の敗戦時、日本国は多額の負債を抱えていた。戦時国債一四〇〇億円・軍事補償一三五 億円・軍需支払い代金六四〇億・その他を合わせ合計二六〇一億といわれている。今に置き換えれば その二〇〇〇倍の額にもなるであろう。そして政府は占領軍の意向もあるとして、すべての戦時補償 の支払いの打ち切りを決めた。戦時国債も支払われる事はなかった。(財産税の支払いには充当する 事は出来たようだ)
私も戦時中懸命に小遣いを貯めて、子供ながら国のためを思い、やっと二円の「弾丸切手」を郵便 局で買っていた。これは、くじで配当金の当たる一般庶民向けの戦時国債であった。が、もはや償還 されることはなかった。
この様に、政府は国債の支払いや、軍需関係補償を打ち切ったものの、当時の状況下では、税収も 全く見込まれず、戦後を運営する資金の目途が全く立たなかった。そこで考えられたのが、預金封鎖 をして、国民の資産を確定して申告させ、財産税を徴収することであった。
そこで、政府は預金封鎖から間もない、三月三日を基準に国民の全所帯に所有財産申告を義務付け た。この提出を済ませなければ、生活資金の引き出しもできなかった。
そして、その申告を基にして、財産税がかけられたのである。財産税は一〇万円を超える金額には 二五%、一〇〇万円を超える金額には七〇%、一五〇〇万円を超える金額には実際に九〇%の税金を かけて、資産を召し上げた。そのほかにも、非戦災者特別税(家屋を所有しているものに臨時に税金 を課した。戦災者には還元していない)取引高税(売り上げの一%を購入者が負担する税金)再評価 税(インフレにより増大した資産価値を再評価して六%の税金を課した)と新たな税金を課して、緊 迫した財政難を乗り切ろうとしたのである。そして、この財産税を徴収しお終わった昭和二三年七月 に、預金封鎖は撤廃された。
財産税の徴収は資産のない庶民には関係なかったが、当時の金利生活者、軍需関係利得者に大きな 打撃を与えた。また、皇室や宮家の財産も例外なく徴収された。大部分は物納されたといわれている。 赤坂プリンスホテルや高輪プリンスホテルの場所は当時の宮家の屋敷であった。一方紙屑同然となっ た国債を安く買い集めて、それらの不動産に換えて納税し、その不動産を取得するという手口を使っ た人達もいたといわれている。
この時、私の一家は戦災で家は無く、親戚の家に間借りしていた。米の配給だけでは足りないため、 両親は食糧を確保する事に懸命であった。私は母と一緒に休日になると、大きなリュックサックを担 ぎ田んぼ道を歩いて、近郊の農家に米の買出しに出かけていた。小学校時代の友人の山口君一家は茨 木市の農家の本家に戦後帰っていたので、そこにも何回か訪ねて米を分けてもらった。
預金封鎖の時であったので、新円を準備するのが、大変だったろう。しかし、私は中学生だったせ いかも知れないが、「お金よりも、米が無かったら生きていけない」という思いが当時強かったよう に思う。そして物々交換で米を手に入れる人も多かった。
昭和二〇年の今年一月、私は大阪で大手証券会社主催の講演会に出席していた。資産運用としての 国債や外国債券の話であったと思う。丁度、十五分の休憩時間に隣に座っていた八十歳年配の身なり の良いお年寄りの女の人が、「国債を買うのは、私は怖いのですよ」ぽつりと私にいった。
聞くとこの人の実家は、あの預金封鎖の時資産の大半をなくし大変な目にあったという。また戦時 国債がただの紙くずになった事を知っているからだといった。そしてこう付け加えた「あの戦争末期、 政府は戦時国債を細かく小額にして国民一般に売り出しました。政府が個人に国債を売り出すように なると、私は怖いと思っています」それ以上詳しく聞けなかったが、弾丸切手を紙くずにした私はそ れを聞いてドキッとした。
現在、国債や借入金などの国の借金の総額は八二七兆七九四八億円(平成一七年六月)といわれて いる。この膨大な借金をどうして、いつ返すのか? 考えると恐ろしい。その時いつも言われるのが、 日本には国民の個人資産が一四五〇兆円ある、個人負債を差し引いても一〇〇〇兆円はあるので心配 はない、という説明である。
私もテレビで政府高官がこの説明をするのを聞いたことが二回もある。しかし国民の個人資産を国 の借金の裏付けにするという事はとんでもない話である。こんな話が時々語られるという事は、財政 破綻した時の緊急措置として、再び預金封鎖をして新円に切替へ、財産税を徴収するという図式が考 えられている可能性がある。
預金封鎖は今まで多くの国でも行われている。六年前にはアルゼンチンで行われたのは記憶に新し い。そんな事もあってか最近は日本でも、資産を金(きん)に変えたり、預金を外国に逃避させたり した方が良いという人がいる。
しかしながら、あの大日本帝国の時代、「国の大事に命を捧げるのは、正に皇国の民の面目である」 と教えられ、本当にその気になっていた私としては、僅かな財産ながら、祖国日本の財政危機に殉じ て、召し上げられても「かえりみはせじ」と思うことにしている。
■■◆ 宙 平 |