From Chuhei
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フォレスタの歌声
フォレスタは平成15年に日本テレビが『BS日本こころの歌』開始に当たり、 結成された混声合唱グループである。美しい日本の言葉、美しい日本の旋律を次 世代に歌い継ぐことを目的としている、音楽大学・大学院の出身者ばかりの実力 派のグループで、童謡・唱歌そして明治から平成までの心に残る名曲を熱唱して いる。
現在の主要メンバーは、男性はバス1名、テノール3名、バリトン3名。女子 はソプラノ5名、メゾソプラノ1名。そしてピアニスト3名で構成され、結成当 時と比べると相当に入れ替わっている。
我が家では3年ぐらい前から、妻が新聞の番組表{毎週月曜日、BS4チャン ネル21時〜21時54分}を見て『日本こころの歌』を楽しみにするようにな った。私は普段BS放送を見ないので、最初のうち妻は別室にある小型テレビで 見ることにしていたようであるが、その内、居間にあるテレビにチャンネルを合 わすようになった。その時、いつも私は《やかましいなぁ!》と思い、テレビ画 面を見ることはなかったが、あるとき、軍歌の歌声が聞こえてきた。《え!フォ レスタが軍歌を歌っているの?》と、急に耳をそばだてて画面を見た。幼児の頃 から中学2年生の終戦まで、私の頭の中には軍歌の歌詞や響きが重ねて叩き込ま れていて、消えることがない。その時の歌はあの有名な「戦友」だった。
ここはお国を何百里 離れて遠き満州の赤い夕日に照らされて 友は野末の石の下♪
で始まるこの歌は、回想に入り「ああ戦いの最中にー俄かにはたと倒れーしっか りせよと抱き起こしー折から起こる突貫にーそれじゃ行くよと別れたー思えば去年 船出してー玄海灘で手をにぎり、名を名乗ったが始めにてー死んだら骨を頼むぞと 言いかわしたる二人仲―友の最後をこまごまと、親御へ送るこの手紙―読まるる心 おもいやり、思わず落とす一雫♪」
何度も聞いた歌だが、若い声量のあるフォレスタに、感情を込めて真剣に歌い込 まれると、私も思わず一雫の涙を落とした。この歌は明治38年発表、日露戦争奉 天会戦の時のこととされる。他、「旅順開城約なりて♪」の水師営の会見(明治43 年)も、特にフォレスタが歌うと戦争の深い悲しみが私の全身に染み渡ってくる。
「轟く砲音 飛び来る弾丸♪」の広瀬中佐(明治45年)そして、「徐州徐州と人馬 は進む♪」の麦と兵隊(昭和13年)、「あぁあの顔で あの声で♪」の暁に祈る(昭 和15年)、「朝だ 夜明けだ 潮の息吹き♪」の月月火水木金金(昭和15年)、 「エンジンの音 轟々と♪」の加藤隼戦闘隊(昭和16年)、「貴様と俺とは同期の 桜♪」の同期の桜(正式には昭和20年)なども今まで歌われている。
その後、私も次第にBS4の『日本こころの歌』の画面や曲に惹かれ、毎月曜日の 21時を意識するようになった。フォレスタが、これぞ日本の旋律と歌うのは滝廉太 郎の曲、「春高楼の花の宴♪」の荒城の月(明治34年)、「箱根の山は天下の嶮♪」 の箱根八里(明治34年)などで、男性のコーラスで歌われる。女性のコーラスでは、 「いのち短し 恋せよ少女(おとめ)♪」のゴンドラの歌(大正4年)、「春すみれ咲 き 春を告げる♪」のすみれの花の咲く頃(昭和5年)などもある。勿論、混声コーラ スでは、多くの日本の名曲が歌われている。
去年の6月10日、フォレスタの男性バス歌手の大野隆が西宮に来て、兵庫県芸術 文化センター小ホールで、コンサートを開いたのを聞きにゆく機会があった。他のフ ォレスタ外の仲間二人との出演であったが、直接聞く大野の歌「おいら岬の灯台守は♪」 の喜びも悲しみも幾歳月(昭和32年)などはなかなかの声量で、迫力に満ちていた。 驚いたのは彼の人気の高さだった。終わって彼が劇場の出口で挨拶に立ったところ、握 手を求める参加者の列が長く続いた。歌を聴いて眼を輝かした高齢の女性が多かった。 やがて我が家では、見逃してはならないテレビ番組NO1は『BS日本こころの歌』に なってしまった。
去年の夏の終わる頃、平成28年1月25日にフォレスタのコンサートが大阪のフェ スティバルホールで開かれるので、その予約が始まるということを知った。地元のコー ラスグループに所属しフォレスタにも関心を持ち始めた妻の妹が先行予約開始日初日に、 チケットぴあに予約電話をしてくれた。ところが朝から電話が混み合って全くかからな かったらしい。このコンサートの人気が高く多くの人が電話予約に殺到しているという ことである。相当時間が経ちやっと私と妻その妹、3人分の席が取れたと連絡が来た。 席は舞台に向かって左側の2階席で、A席6500円だった。
そして当日、2700人の座席があるフェスティバルホールが、満員で幕を開けた。最 初に男女混声合唱で歌われるのは、美しき天然(明治35年)である。
空にさえずる鳥の声 峯より落つる 滝の音 大波小波 とうとうと 響き絶やせぬ 海の音 聞けや人々面白き この天然の 音楽を 調べ自在に弾きたもう 神の御手(おんて)の尊しや♪
この歌は最初、高等女学校で歌われていた歌ではあるが、その後活動写真が出てきた時 代になって、サーカス小屋の呼び込みや、街を流すチンドン屋のジンタの曲として使われ た。ジンタとは、”ジンタッタ ジンタッタ”の擬声語だが、明治時代には市中の音楽隊がそ う呼ばれていたそうである。しかし、私にとってジンタといえば、幼い頃聞いたこの「美 しき天然」の曲である。そして懐かしさのなかに漂う哀愁に誘い込まれる。
上演中、ふと気が付くと、私の真後ろの席から、舞台の歌声に合わせた鼻歌が聞こえて いる。《困った人もいるものだ!》その時、隣の席の妻が私の腕を、激しく突き始めた。 《あっ!私が鼻歌を歌っていると思っているのだな? 私じゃない、私じゃないぞ!》指 で後ろを指したが通じない。そこで、思い切って首を回して、後ろの人の顔を見た。相当 高齢に見えるお爺さんだった。鼻歌は止まった。《恐らくジンタを聞いた年代の人だ!解 る! 解る! 歌いたくなる気持ちが……》 舞台では、「冬景色」「四季の雨」「月の砂 漠」「箱根八里」「荒城の月」「古城」「流浪の民」と進んで、前半最後は「若く明るい 歌声に♪」の青い山脈(昭和24年)を参加者全員で歌った。今まで舞台で直立の姿勢で 歌い続けていた、男声メンバーは客席に散らばった。私たちのいる2階にはテノールの榛 葉樹人が来て歌いながら通り過ぎた。女声メンバーは舞台で手を叩いて調子を取った。我 々3人も周りの人達も、大きな声で歌った。この歌を歌い始めたのは青春の時代、敗戦後 の日本列島にやっと明るい光がさしかかろうとしていた時期だった。
後半は「ラデッキー行進曲」の全員による手拍子で始まった。「まつり」「恋人よ」 「君こそ我が命」「愛のフィナーレ」「ふたりの大阪」「ふりむかないで」「ヴォラーレ」 「君は我が運命」と進んで最後は川の流れのように(平成元年)が歌われた。
知らず知らず 歩いてきた 細く長い この道 振り返れば 遥か遠く 故郷が見える でこぼこ道や 曲がりくねった道 地図さえない それもまた人生 ああ 川のながれのようにゆるやかに いくつも 時代は過ぎて ああ 川のながれのように とめどなく 空が黄昏に 染まるだけ♪
美空ひばりが歌った歌だが、フォレスタが歌うと、聴いている多くの高い年齢の人たちが、 今まで歩き続けてきた人生を、それぞれ川の流れのように思い出すのであろう、拍手が鳴り 止まなかった。アンコールに応え、歌劇「椿姫」の「乾杯の歌」などが歌われ幕が下りた。
「やっぱり、舞台から実際の声で聴くと、よいものやね!」「そうやね、テレビで見るのと は違うね!」と、妻とその妹は言い交わし、私は「若い歌い手たちから、昔歌った歌を一杯 聴くと、老いた身体がシャンと若返り、大変に良いことだなぁ!」と、一人で呟いていた。
このコンサートがあってから、急に忙しくなった。妻が言った。
「フォレスタの大野隆が、友人テノール歌手の竹内直樹と7月11日、神戸東灘のうはらホ ールへ来るの。チケットの予約電話をしてほしいけど?」 {OK!} 「料金は一人当たり4500円。コンビニへ行って払込お願いします!」 「OK! ちょっと高いなぁ!」 「その前の5月7日、神戸国際会館ホールで、フォレスタのコンサートがあるの、神戸では 初公演となるのよ!三宮のホールへ直接行って急いでチケットを買いましょう。一人当たり 5500円。妹は友達と行くと言っている」 「OK!」 東京で発足したフォレスタも、全国展開のコンサートを開くまでに発展し、いよ いよ神戸にもやってくる。彼らにとって、環境・年齢・メンバーが揃って、全員の声量はまさ に今が旬! の時期である。
そしてフォレスタコンサートを追っかけ始めた私たち婆さん・爺さん追っかけも、今こそ旬! の時期を迎えているのである。
(平成28年2月22日)
******** 宙 平 ******** |