From Chuhei
   
風船爆弾(ウィキペデイア風船爆弾より)の写真です。
 
 
風船爆弾放流地跡わすれじ平和の碑
  

    風船爆弾

            

茨城県北茨木市の大津町の海岸に、風船爆弾放流地跡 わすれじ平和の碑と彫られた石

碑が建っている。その台座に、「新しい誓い」と題して作家、鈴木俊平さんの次の詩が刻

まれている。

 

 海のかなた 大空のかなたへ 

消えていった 青い気球よ

あれは幻か 今はもう 呪いと殺意の

武器はいらない 青い気球よさようなら

さようなら戦争……

 

鈴木俊平さんはこの北茨木市平潟町の出身である。あの大戦中の昭和19年11月初旬、

17歳の時、勤労動員による飛行場整地工事の雨中重労働が原因で結核におかされ、生ま

れた土地に戻って療養中だった。漸く散歩を許された鈴木さんが夕凪の浜辺を歩いていた

時、当時気球爆弾と言われていた秘密兵器が打ち上げられた瞬間に遭遇した。

 

「突如、岩陰から巨大なクラゲ状の気球が奇妙な懸吊物を下げて舞い上がった。さらに、

おびただしく気球爆弾がつらなって放流されるようになると、戦争という残酷なドラマの

渦中にいることも忘れそうなくらい華麗な風景としてまぶたに灼きつけられた。気球たち

が、果たしてアメリカ本土へ届くものかどうか危なっかしい思いで遠くビー玉状から点点

となって消えるのを見送った」と、著作『風船爆弾』(昭和55年、新潮社)のあとがき

に書かれている。

 

私は戦時中、軍隊の中に気球を扱う部隊があるということは知っていたが、それは偵察

や観測に使われているものと思っていた。風船爆弾を気流に乗せてアメリカの本土を爆撃

しているということは全く知らなかった。昭和19年12月18日付の朝日新聞に、アメ

リカの報道として、日本の気球爆弾がアメリカ本土各地に爆発火災事件を起こしている。

という記事が載ったということは後年に、知ったが戦時中、私の周りでは話題にもなるこ

とはなかった。風船爆弾のことが詳しく日本で語られ始めたのは、昭和40年を過ぎてか

らで、最初は週刊誌と文藝春秋に記事が載ったのではないかと思う。

 

和紙で作られた球形気球の本体は直径10メートル、その中央帯の周りから19本の麻

縄が下がり、それをまとめた先に高度維持装置と32個の砂袋を着け、その中心に15キ

ロ爆弾1個、5キロ焼夷弾4個(または12キロ焼夷弾2個)が吊るされている。砂袋は

自動的に高度を調節するために使われる。この気球を高度1万メートルの上空に放球し、

強い偏西風に乗せて、アメリカ本土を攻撃するのである。放球場所は千葉県一の宮、茨城

県大津、福島県勿来の3箇所であった。昭和19年の11月から昭和20年3月までの間、

実際に9300発が放球された。アメリカで確認されたのは361発であるが、未確認の

ものもあるため、1000発程度は到達したとする推計もある。

 

私はこれを知ったとき、西宮で体験したアメリカ軍のクラスター(集束弾)油脂焼夷弾

による住宅密集地域の徹底した空襲に比べ、なんと不確定な無駄なことをやっていたのか、

これでは竹槍で、自動小銃や戦車に向かうのと同じで、敗戦の最後のあがきではなかった

のかと思っていた。

 

その後、『女たちの風船爆弾』(林えいだい著、昭和60年、亜紀書房)などの本が出て、

風船爆弾は全国各地で作られていたことが分かってきた。気球の原料となる和紙の生産は

全国の手漉き和紙の生産地に割り当てられた.埼玉の細川紙、高知の土佐紙、鳥取の因州紙、

岐阜の美濃紙、などの生産地で作られた紙は気球を組み立てるための原紙加工の工場へ送ら

れた。加工された原紙は造兵廠や、広く大きな建物を接収して組立と満球テストが行われた。

東京では浅草国際劇場、東宝劇場、宝塚劇場、有楽座、日劇、国技館などが使われた。そし

てこの一連の作業には、全国の女学生、や女子挺身隊たちが総動員された。北は山形、福島、

埼玉、長野、そして東京、それから西は小田原、静岡、名古屋、岐阜、高岡、福井、鳥取、

島根、京都、大阪、岡山、広島、山口、徳島、愛媛、高知、香川、八女、熊本、佐賀、満州

の新京の全国規模の大動員で、昼夜12時間労働の突貫作業が行われた。

 

作業の一つは薄い和紙をコンニャク糊で張り合わせ、乾燥させた後に風船の表面に苛性ソ

ーダー液を塗ってコンニャク糊を強化するものであった。このコンニャク糊をより強く固め

るために水酸化ナトリウムが用いられた。このため、作業していた動員生徒の指紋が消えた

ということも起こった。また蒸気乾燥機を使う工場では、常に熱気と湿気が立ち込め独特の

匂いが充満していた。それでも、彼女たちは懸命に働いていたと言われている。

 

私もこの時期、戦闘帽にゲートル姿で、腕に中学校学徒隊の腕章を巻いて工場へ出勤して

いたが、私と同年配の全国の女学生たちが、このような規模で動員されていたことは全然分

からなかった。動員先での仕事の内容は全て軍事機密で、家族にも一切言えない時代だった

からだ。そして彼女らの作業が、和紙とコンニヤク糊で風船爆弾を作るという如何にも日本

的なその発想と、一時期に急に大量に作りながら細かくよく考えられたそのやり方を知った

時は本当に驚きであった。

 

和紙を使ったのは、材料不足からではなかった。海軍の気球ではゴム製のものも使ってい

た。糊もゴム糊であった。しかしゴム製では重く、高度を上げると膨張することが分かった。

和紙は軽く、高度でも変化せず、加工すると水にも強かった。そして和紙にはコンニヤク糊

が一番適切であった。海軍は気球に関してはその全てを陸軍に引き渡した。

 

一方、攻撃を受けたアメリカの側は、非常に慎重な態度で対応した。なんだ、紙の爆弾か!

と一笑に付すようなことはなく、「日本人は神秘的」と後年調査団の一人が言ったように、

なにをするかわからない? というような恐れを持っていたようである。

 

実際のアメリカの被害は3箇所の森林の小さな火災のほかは、昭和20年5月5日、オレ

ゴン州の森林公園で牧師の夫人と近所の子供たち5人がピクニック中、落下していた風船爆

弾に接触して爆発、全員死亡したことがあった。夫人は妊娠中でもあったといわれている。

また、ワシントン州リッチランドのブルトニウム製造工場の送電線に引っかかり、停電をお

こした。これが原子爆弾の製造を遅らせたのではないか? という話があった。が、アメリ

カは政府の最高命令として、風船爆弾に関しては厳重に報道管制を布いた。アメリカ本土に

風船爆弾の幾らかが、到着している情報を日本側に知られることを、極度に警戒していた。

 

太平洋の北側には、冬のあいだ西から東にかけて強い偏西風が吹く、この対流圏上層の強

い流れをジェット気流というが、さらにその上空成層圏に近いところでは季節に関係なく強

い風が吹く。アメリカは、この風と気流を、日本に対する弱点として恐れていたのではない

か? と私は思っている。

 

アメリカは細菌、または毒ガス兵器の搭載を恐れ、着地した風船爆弾の調査には、防毒マ

スクと防護服を着用した。また日本兵が風船に乗って米本土に潜入する懸念を持っていたよ

うである。

 

この風船搭乗特攻隊については、陸軍だけでなく、海軍からも実際に志望者がいたようだが、

まだ課題も多く、実施されなかったが、細菌または毒ガス弾の搭載攻撃については、いつでも

可能な状態にあったと言われている。

 

これについては、半藤一利著の『昭和天皇ご自身による「天皇論」』(平成18年、五月書

房)の「もうひとつの聖断、風船爆弾に積んで」にはそのときの状況が書かれている。

 

昭和19年7月、サイバン玉砕の責任を取り、東条内閣は総辞職し、参謀総長は東条から梅

津に引き継がれた。この時、風船爆弾に壊疽性ガス弾や細菌弾を搭載してアメリカ本土を攻撃

する案が強力に浮上した。

 

勿論、国際条約ではその使用を禁止されている。しかし、各国とも製造し準備はしていた。

アメリカは、日本またはドイツが使用したら,直ちに報復のため大規模な科学戦に入ることを

決めていた。日本の大本営はこれを極度に恐れ、アメリカに対して毒ガスを使用することを絶

対に禁止していたのである。

 

しかし、国家滅亡の断崖に立たされた時、次のような強硬論が参謀本部をひとり歩きしはじめ

ていた。

 

「報復行為を恐れていてなんで真の決戦ができるというのか。すでに中国大陸で使用したのに、

なぜアメリカ本土に使わないのか、決断できぬのは臆病以外の何物でもない。最後の一人まで戦

い抜く。それがわれわれの悲壮な決意ではなかったか」

 

決断を迫られた梅津総長は、悩みに悩んだ末、風船爆弾の実施を、昭和天皇に奏上したとき、

細菌爆弾使用についてもつけ加えた。昭和19年10月25日のことである。天皇は作戦の実施

については、これを裁可した。しかし、細菌爆弾使用については「イェスともノーとも一言もな

く部屋をでられた」さらに侍従武官を通じて「殺戮用細菌は使用してはならない。国際的信義は

大切にしたい」と天皇の意向が伝えられた。それでも、断固使用すべしという強硬論がまだ渦巻

いていたが、梅津総長は、11月3日風船爆弾打ち上げ日ぎりぎりに、細菌爆弾不使用を決めた。

 

私はもしこの時、風船爆弾に細菌弾を搭載して放流いたなら、それが、日本側が当時十分に用

意していたペスト菌だったとしたら、やがてアメリカ本土で分かって全土で感染の恐れに慄いた

であろうと思っている。同時に、その報復のためアメリカが大量に準備していた致死性持久ガス

のマスタード(別名イベリット)を液状にして雨のように散布する攻撃機が各基地から飛び立ち、

日本軍駐留陣地および日本本土を毒ガスの巷にしたこともほぼ間違いないことだったろうと考え

ている。

 

戦争は一旦始まってしまうと、その報復の連鎖が続き、双方に大勢の人が死ぬ。そして絶対に

簡単には終わらない。終わらすには大量破壊大量殺人が必要で、そのときは軍人より、民間人が

大量に死ななければならない。

 

かつて、日本は海のかなた、大空のかなたに、呪いと殺意のこもった青い気球を放流させなが

らそんな戦争を戦っていたのである。

        

                                                              (平成27年7月20日)

 

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宙 平

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