「平成」の元号は、平成31年4月30日で終わることが決まった。そしてその翌月、5月 1日からは新しい元号が使われることになる。どんな元号に変わるのだろうか。
天皇の即位に伴い元号が変わるとなると、事務的に煩雑となり、期限の設定や経過年の判 定に手間がかかることになる。そんな元号は廃止すべきだとの議論は今までにも色々あった。 敗戦の年の翌年、昭和21年1月には、憲政の神様と呼ばれたあの衆議院議員尾崎行雄が衆 院議長に改元の意見書を提出した。「昭和」の元号は昭和20年限りで廃止して、昭和21年 以降は「新日本」という元号を使い、無限に「新日本〇~年」として続けてゆくべきだと主張 した。これに対して総理経験者の石橋湛山は『東洋経済新報』の昭和21年1月号のコラムで、 元号は廃止して西暦を使用することを主張した。 昭和25年2月には、参議院で元号の廃止が議題に上がった。ところが、東京大学教授の 坂本太郎が「元号の使用は、独立国の象徴であり、西暦の機械的な時代の区画などよりはる かに意義深いものを持っている上に、日本歴史、日本文化と密接に結合していて、廃止する 必要は全然認められない。むしろ、存続しなければならない意義が沢山に存在する」と、熱 弁をふるい強く存続を主張した。当時私は、煩雑な日本の元号は廃止して西暦一本で統一し てほしいと考えていた。 しかしながら、昭和62年1月6日、父が89歳で亡くなったとき、私は葬儀の喪主として 「父の幼少年時代は明治、青年時代は大正、そして大戦のあった昭和の時代は激動の中の勤務、 父はその勤めを立派に全うし、『明治』『大正』『昭和』を生き抜いて、ここに大往生を遂げる ことが、出来ました」と挨拶をした。後で自分の挨拶の言葉を振りかえってみると、元号ごとに その時代の風景があり、その風景の中に生きていた父の姿が浮かび上がってくるのがわかった。 「明治」時代の宮津の与謝の海、その夏の夕、そこに流れ込む大手川に灯篭を流す着物姿の少年、 それは父だった。その頃の精霊送りの行事は、今のように盛大な花火大会などはなく、静かに川を流れ去る多くの灯火を送る風景があった。宮津に生まれた父はこの古くからの行事のことを、 深い郷愁を込めてよく語っていた。 「大正」時代の父の風景は当時、神戸の原田の森にあった関西学院の山と海が見えるグランドで野 球をしている姿である。そして住宅開発が進められていた阪神電車久寿川駅からの海岸近くの家 (私が生まれた家)に世帯を持った。 「昭和」時代に入ると、完成したばかりの広くてきれいな大阪の御堂筋に面した、大きな建物の 生命保険会社に通う背広姿の父の風景が浮かぶが、やがてその姿は戦争の進展によって、戦闘帽 と国民服に変わり、さらに戦火が激しくなると鉄帽と防毒面をもって行動するようになる。敗戦 後は休日になると食料調達のため、大きなリックを背負って、田舎の農家に買出しに出かける姿 もあった。父が箕面に家を建てて落ち着いた姿を見せるのは、昭和も40年近くになってからで ある。 このように元号名で区切って父の人生を考えてみると、その時代の空気が、姿行動に現れ、独 特の雰囲気を作り出していて味わい深いものであることが分かってきた。数字だけの西暦ではこ んな特色ある雰囲気を持つ風景は思い浮かんでは来ないと思うようになった。 そして、母の事を考えると、母も明治の生まれであるが、まもなく「大正」時代を迎え、奈良 の郡山高等女学校で英国国歌「God save the King(Queen)」を音楽の時間に歌っている風景が 浮かぶ。当時日本は日英同盟中で裕仁皇太子の英国訪問も有り、この歌を習っていたらしく、よ く歌っていた。母は昭和35年7月、大阪の梅田新道を一人で歩いている時に突然倒れて、中津 の共済会病院に救急車で運ばれ、クモ膜下出血と判定されたが意識が戻らないまま54歳で亡く なった。母と元号に関してもうひとつの風景は、昭和12年の7月、一緒に住んで暮らしていた 祖父が72歳で亡くなったとき、悲しみの涙を流している母の姿であった。そして「おじいさん は慶応の生まれでね。それで慶二郎という名前だったのよ」と私に語った。私はその時「慶応」 という元号を初めて覚えた。宮津藩士の家に生まれた祖父は、まもなく明治の時代を迎え廃藩置 県、士族制度廃止、の波をまともに受け苦労があったことは十分に想像できた。 翌、昭和13年弟が生まれた時は、慶応生まれの祖父の慶の字をもらって慶博と名付けられた。 今私は「慶応」という言葉を聞くと、福澤諭吉の顔と祖父の顔が重なって浮かぶ、昔、夢中で読 んだ『福翁自伝』の影響があるからであろうと思っている。 「天平」という元号も、私にとっては奈良と母を連想させる。母が亡くなる少し前、たまたま母と 二人、東大寺から若草山にかけて奈良公園を散策したことがあった。「天平」という言葉は井上靖の 『天平の甍』などによってイメージされていたものがあったが、母と散策したときは、正倉院展で 見た『鳥毛立女屏風』の天平美人を思い出した。どこかふっくらした顔立ちは奈良郡山生まれの母 と似通うものがあって一緒に、天平時代の奈良の風景を想像しながら、ゆったりと歩いたことを覚 えている。 私は家の近くの夙川下流の堤から甲山を川の正面に眺めるたびに、「天長」という元号の時代に 想いを翔ける。天長5年の2月、京の淳和天皇の妃であった真名井御前が官女二人とともに、女性 3人でこの甲山を登り、紫の雲のたなびく中でお告げを得て、神呪寺を創建して如意尼と名乗る。 そして、あの弘法大師空海がこの寺を再三訪れ、如意尼を想いモデルとした観音像を彫り上げる。 それが今、秘仏として年一回のみ開帳される有名な如意輪融通観音の原仏だとされている。また 淳和天皇も如意尼のいるこの寺に後を追うように行幸されている。虎関師?の『元亨釈書』はこの 「天長」の話を詳しく伝えている。私は開帳日にこの如意輪観音像を見ると、これこそ天長美人の 典型だと思ってみていた。 このように、その時代の風景を浮かび上がらせる元号自体が日本の文化ではないか、元号は廃止 しない方が良いと、私は思うようになった。しかし、歴史の時間の流れの中に元号の位置関係を明 確にする必要があるので、「天平」西暦729~748。「天長」西暦824~833。というふう に西暦も使うことは、今では絶対に必要であり、不可欠なことだとも思っている。 昭和天皇が亡くなり、テレビのニュースで小渕官房長官が「平成」と大きく書かれた紙を掲げて 見せた時のことを私はよく覚えている。この元号は中国の古典『史記』から「内平らかに外成る」 と、『書経』からは「地平らかに天成る」より引用されたものだといわれていた。「昭和」は、命の 脅威にさらされる空襲など戦争が続き、食べものがなく、預金は全部封鎖されるどん底から、やが て一転して平均株価が3万円を超え、土地が底知らずに上がり続けるバブルとなり、そしてバブル 大崩壊、という浮き沈みが激しかっただけに、「平成」は、なんとか平らかに、ひたすら平らかに なることを、その時私は願っていた。 その「平成」もあれから早くも30年を迎えることとなった。確かに昭和よりは平らかに経過し ていることは確かなのだが、私はなにをしていたのだろうか。平成の初めにパソコンを習い始め エッセー教室に入って、毎月一篇、何を書くか、あれこれ考えやっと書いて、提出するとまた次の 提出日が迫ってくる、ということの長年の繰り返し、それが私の「平成」だ。よく続くものだと 自分で自分に感心している。 新しい元号は今年の秋には発表されるだろう。そして2019年5月1日からは、新しい元号 となる。その時満87歳になる私にとっては恐らく、それが人生の中での最後の元号となるだろう。 ネット上では、新元号を「玉晴」とか「妙幸」とか色々言われている。最も有力なのは「安」の字 が入る二文字で「安仁」「安久」「安栄」「安永」「安平」などの予想元号が並んでいる。 私は最期の時「これから先、日本は安泰で安全抜群の国になりました。どうか安心して、何の不 安もなく、安らかにお休みください」と言われて、全く安心して永遠の安息の眠りに入ることが出 来る国になっていて欲しい。その安心安全万全の国になった風景に、ふさわしい年号であることを 期待している。