未踏の銀メダル

From Chuhei
 
 
北京オリンピックで日本が始めてフェンシングで銀メダルを取りました。
 
写真はオリンピック決勝戦で、右側が太田選手です。
 
右の写真はドイツのクライブリングに上手くかわされ、腹部にポイントを挙げられてしまった
ところです。
 
 
  
 
  

 

 北京のオリンピックフェンシング競技男子フルーレで、太田雄貴選手が、日本のフェンシング史上初めてのメダルとなる銀メダルに輝いた。彼は決勝で敗れたあと、残念ではあるが「率直に銀メダルを喜んでいいんじゃないですか」と言った。

 

 昔、フェンシングをしていた私は、この喜びの意味の深さが良く分かった。この競技はヨーロッパで長い歴史と伝統を持っている。そして騎士道精神に基づく、名誉と威信がある。正にヨーロッパのお家芸だからである。それに日本では、まだまだマイナーなスポーツである。それを突き崩して、日本にメダルをもたらすには、それなりに必死の努力の積み重ねが必要であった。

 

 日本がはじめてフェンシングでオリンピックに参加したのは、一九五二年ヘルシンキ大会である。フェンシングの指導員であり、私も良く知っていた、京都の牧真一氏が一人、選手兼視察員としてフルーレ個人で参加した。当時私は大学三年生で、関西学院フェンシング部のキャプテンをしていた。牧選手がどんな戦をするのか? 世界のレベルはどんなものか? 大いに関心があった。結果は予選敗退ではあったが、当時の新聞には、大きく競技の写真が出た。まだテレビの無い時代、日本初めてのこの競技のオリンピック参加であったからであろう。この頃はこの競技でメダルを取る事など想像もつかなかった。

 

 その後フェンシング競技では一九六〇年のローマ大会以後、選手団を送るようになったが、ヨーロッパ勢の壁は厚かった。一九六四年東京オリンピックではフルーレ団体四位まで食い込んだのが、最高であった。

  

 日本フェンシング協会はこれではいけないと二〇〇三年から本格的な強化策を打ち出してきた。プロコーチを外国から招聘し、国立スポーツ科学センターを練習拠点に置き、フルーレ・エペ・サーベルのうち、メダルの期待のかかるフルーレに重点を置いた。その結果、世界選手権で、女子フルーレ団体が三位に入るまでになってきた。

 

 そして、今回の北京オリンピックには、大陸予選を勝ち抜いて、フルーレに太田雄貴(京都クラブ)、千田健太、菅原智恵子(ともに宮城クラブ)、エペに西田祥吾(鹿児島クラブ)、原田めぐみ(山形県体育協会)、サーブルに小川聡(ネクサス)、久枝円(大阪市信用金庫)の七人が出場できるようになった。

 

 私が太田雄貴選手を知ったのは、京都の平安高校二年生に、全日本選手権で最年少優勝をした選手がいると京都在住の後輩から聞いた時である。彼は小学校三年生の時、父親にすめられて、フェンシングを始めた。その後、少年フェンシング大会始め中学・高校を通じてそれぞれのフェンシング大会のタイトルを総なめにしている言う。

 

 私は彼がどこの大学に入るのか興味を持ったが、同志社大学に入り、二〇〇四年アテネオリンピック代表に選抜。日本人過去最高の九位となった。そして、二〇〇六年、アジア大会で日本人として初の優勝をした。

 

 私は、八月一三日に、太田が決勝戦に残ったと聞いた時、昔のヘルシンキの頃を知っている者として、遂に日本のフェンシングもオリンピックでメダルを取れるまで、きたかと思うと、喜びがこみ上げてきた。

 

 テレビで放送されたドイツのクライブリングとの決勝戦は九対一五で敗れたが、随所に太田らしいスピードのある剣さばき、彼独特のうまく相手の背中を突く技が見られ、私にはなかなか見ごたえがあった。

しかし放送されなかったが、今回の最大の山場はイタリアのアテネオリンピック銀メダリスト、サンツォとの準決勝だった。正に一進一退の手に汗握るすごい試合だったそうである。双方の声援が飛び交い、そして、一五対一四の一点差で太田が決勝を決めた時は、会場を揺るがす拍手と歓声が上がったということである。

 

 私は彼をすばらしいと思うのは、彼は自分のことよりも、常にフェンシングと言う競技の、日本での普及発展を考えている事である。

 

 競技の後で彼は言った。

 

「マイナー競技は四年に一度の五輪でアピールするしかない。これでフェンシングの認知度が上がってほしい」

 

 彼がオリンピックでメダルを狙う動機は、日本におけるフェンシングの認知度が高まることであったのである。

 

 彼は日本で代表チームの合宿所に、地元の少年チームが合同練習に訪れると、喜んで練習相手を引き受ける。突きの胸を貸すことも全くいとう事はない。これも彼の眼は将来の日本のフェンシング競技の発展を見つめているからであろう。

 

 今回の北京のオリンピックは、正に日本のフェンシング界にとって、太田により、日本未踏の分野に始めて足を踏み込んだ意義ある「未踏の銀メダル」であったのである。

 

 私の出身大学のフェンシング部では、なかなかフェンシングと言う競技が知られておらず、新しい部員が集まりにくいといつも嘆いていたが、今回の銀メダルで、新人募集にどのような反応があり、またどれだけメダルを将来の目標にする部員が出るか? これは大いに楽しみにしている。

 

 

■■◆      宙 平
■■■     Cosmic Harmony
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