From Chuhei
 
 阪神武庫川線、3線軌条の線路に蒸気機関車が走っていました。
(昭和20年頃、カラーブックス 阪神より)
 
昭和11年、吉田初三郎西宮鳥瞰図東側
 
 昭和12年 鳴尾村全図
 

阪神電車武庫川線     

 

 

 

 昭和11年に書かれた吉田初三郎の西宮鳥瞰図の東側には武庫川の流れが描かれ、その

河口の西側先端に、小さな工場があり「川西航空機株式会社」と表示してある。この工場

が昭和18年には急速に巨大化して、有数の大軍需工場となり、資材や人員を運ぶため、

阪神電車に緊急の要請として武庫川線を作らせるのである。

 

 昭和12年の鳴尾村の地図を見ると、この工場の西側には競馬場、その隣に陸上競技の

メッカであった南運動場があり、私が幼い頃両親によく連れていってもらった浜甲子園阪

神パークや、毎夏泳ぎにいった浜甲子園海水浴場、そして全国中等学校野球大会の殿堂甲

子園球場などがあり、当時の状況がよく分かる。この鳴尾村に接していたのが今津村であ

ったが、その頃既に西宮市になっていて、私の家はその今津社前町にあった。そして、今

津の浜辺からも、沖合に格好の良い飛行艇が、滑るように走って離水していく姿を見るこ

とがあって「あれは川西の飛行艇や」といっていた。しかし戦時中には、飛行機を作る会

社のことなどは全て軍事機密として扱われていてその実態を知ったのは戦後のことである。

 

 この会社は当初、民間の飛行艇作りとして発足し、昭和5年にこの鳴尾浜に工場を建て

た。その後技術者の充実もあって、世界の最高傑作といわれた九四式水上偵察機を作り上

げ、また航続距離の長く速度のある二式飛行艇を生み出した。昭和13年には海軍の管理

工場となり、やがて、海軍の陸上戦闘機「紫電」を開発する。陸上機となると飛行場が必

要である。昭和17年には姫路海軍航空隊の鶉野飛行場に隣接して、新しい工場作りに着

手する。その時は正に、太平洋の各地でアメリカ軍との死闘が始まっていた。海軍の戦闘

機として、三菱重工で作られていた「零戦」は、優れた性能を持ち、当初確かに大きな戦

果を上げてきていたが、アメリカ軍の対応も早く、昭和18年にはF6F・F4U・P5

1という新鋭機が登場し「零戦」では対抗できなくなる。勿論三菱重工でも「零戦」の後

継機として「烈風」や局地戦闘機「雷電」の開発を進めてはいたが、事は緊急を要し、対

応を急がなければならない。海軍は全面的に、川西航空機の「紫電」の生産を進めさらに

その生産ラインを使えて、その上高性能を加えた改良型の開発を早めるよう技術陣に指示

をした。それが、当時の最新鋭機「紫電改」の開発である。そしてこの時から「零戦」に

変わる海軍の戦闘機作りは、一気に川西航空機にその成果を賭け、日本の空の戦いの今後

の運命を託されることになったのである。

 

 昭和18年に入ると鳴尾の工場は、その大拡張だけでなく、工場の西側一体に急遽、飛

行場が作られ始めた。鳴尾競馬場も、南運動場も、浜甲子園阪神パークもすべて無くなり、

海軍の飛行場となった。そして、工場で働く従業員も国民徴用令により、6万人を越え、

苺畑だった土地に宿泊寮が建ち、鳴尾村は急速に軍需工場の城下町のようになった。尼崎

の相撲部屋にいて後にプロレスラーになる力道山もここで働いていたといわれている。阪

急や阪神の職業野球選手も、また動員学徒も地元だけでなく地方からも集められた。私は

当時、芦屋高等女学校の動員女学生だった人の、後年書かれた川西航空機動員のエッセー

をカルチャー教室で読んだこともあり、急速に規模が拡大していった軍需工場の緊張した

雰囲気はよくわかる。

 

 阪神電車には緊急な戦時体制下の要請が軍から下った。働く人と資材を運ぶ武庫川線の

建設である。当時、阪神電車は、尼崎の工業地帯への路線として、出屋敷―東浜を結ぶ尼

崎海岸線を昭和4年から開通させていて、さらに尼崎築港地帯を回り、武庫川右岸沿いに

川西航空機のある洲先から省線(今のJR)甲子園口に至る路線を企図していた。しかし、

急を要する要請に応じて、まず、昭和18年7月から阪神本線のある武庫川から洲先への

区間全長2`の工事が始まった。突貫工事で線路作業員だけでなく、一般社員や勤労奉仕

隊も参加して、強力な作業の結果、11月には開通して工場への人を運んだ。そして、第

2期工事として、武庫川から武庫川大橋間を昭和19年3月に着工した。当時阪神国道

(国道2号線)には大阪の野田から東神戸まで阪神電車の国道線が走っていた。その武庫

川にかかる大橋の西詰に国道線武庫川大橋駅があった。この工事には地元甲陽中学の生徒

も学徒動員で参加した。私はこの年に甲陽中学に入学したが、1年生には動員はなかった。

しかし学校は全て軍隊式で、配属将校による教練を受け、学期の途中から中学校の校舎の

一部には陸軍暁部隊が駐屯してきた。

 

 この第2期工事も猛烈な突貫工事で昭和19年8月に完成した。さらに第3期工事とし

て武庫川大橋から省線甲子園口間、そして第4期工事、省線甲子園口から省線西宮の路線

が昭和19年11月に早くも完成した。こうして省線西宮駅から工場のある洲先駅まで、

軍事資材を運ぶ蒸気機関車が走ることになった。路線は阪神電車のものであるが、貨物列

車は全線にわたり、国有鉄道の管理下に運行され、貨車と阪神電車の軌道幅が異なるため、

両方の列車が走れる三線軌条が敷設されていた。また、人員を運ぶ電車は洲先駅と武庫川

大橋駅間を往復し、大量輸送のため座席が撤去された車が運転されていた。

 

 昭和20年、中学2年生になった時、学徒動員となり、私のクラスは阪神電車の尼崎車

庫工場で働くことになり、足にゲートルを巻いて「甲陽学徒隊」という腕章をつけて出勤

した。前から動員されていた4年生の生徒が、武庫川の右岸、堤防の上に私達2年生全員

を連れて行った。堤防の西側の下には、開通してからまだ間がない阪神電車武庫川線の電

車が走っていた。2年生を座らせて、その4年生の一人が語り始めた。

 

「昨年、我々4年生はこの堤の下を走っている武庫川線の開通工事に参加していた。戦局

は危急であるから一日も早く完成させなければならなかった。我々は毎日、必死の思いで

バラストを運びそれを敷き重ね、枕木を並べた。そして、甲陽学徒隊はその汗と力をつぎ

込んで、線路の基盤を作り上げ完成させたのである。開通した電車が初めて走った時、皆

な『万歳』を叫んだ」

 

 やがて、私は電工小隊に配属され、車体から取りはずされたモーターの点検整備をして

いたが、その後、深江駅の東で線路の真ん中に爆弾が落ち、レールが象の牙のように跳ね

上がっていた路線の修復などに参加することにもなる。が、動員最初の4年生の話には、

感心して聞いていたことを思い出す。

  

 人員、資材の輸送体制が確立し、最新鋭機「紫電改」の生産がいよいよ進み始めたが、

昭和20年の3月を過ぎると、戦局はますます厳しくなり、アメリカ軍の占領した太平洋

上の島々の基地から、本土への爆撃が激しさを増してきた。川西航空機も鳴尾の工場の他、

甲南工場、宝塚工場に製造ラインの分散体制をしき、部員一千人以上いた設計部門はじめ

本社機構は、西宮市の関西学院・神戸女学院などに疎開を始めた。関西学院の外人教師が

帰国して空いていた洒落た家々も宿舎となった。講堂も、部品を作る工場として使われた。

当時宝塚の小林聖心女子学院にいた須賀敦子(作家)は、学徒動員され教室の一部が改造

された学校工場で、紫電改の翼になるジュラルミンの加工に「折り曲げ隊」として参加し

ていたことをその作品に書いている。そして甲山山麓の甲陽園に掘り進められていた巨大

な海軍地下壕にも工場の一部が移転する計画であった。

 

 昭和20年3月19日、紫電改を集めて戦うという源田実大佐の構想により、松山基地

で編成された紫電改56機、紫電7機の編隊は、アメリカ艦上機160機に対し、空中戦

を挑みアメリカ軍機58機の撃墜を報告した。この戦果により紫電改は空戦機能が確実に

優れており「零戦」の後継機であることが実証され、一層の増産体制に入ろうとした。

 

 ところが、時期が既に遅かった。軍需工場を狙い爆破するアメリカB―29爆撃機の本

格的な戦略爆撃も始まっていた。昭和20年5月11日、甲南工場は精密に目標を定めら

れた高高度昼間編隊爆撃により主要設備の大部分が破壊されてしまった。次いで6月9日、

B―29約100機の編隊が鳴尾工場を空爆する。その日の朝の始業後警報が鳴り、防衛

隊員を除いた全従業員が、武庫川の堤防や川原に退避した。それでも爆死23名、行方不

明6名、重傷231名を出し、工場は73%が破壊された。そして、7月24日、77機

のB―29による1d爆弾の爆撃を受けて宝塚工場は瓦礫の山となり、83名が犠牲とな

るのである。そして川西航空機は全事業を国の軍需工廠に譲渡、鳴尾工場は第一製造廠と

なるが、やがて終戦となった。8月24日には軍需省から主力工場のほとんどが焼け落ち、

無一文の会社が帰されてきた。航空機の製造は指令により禁止、企業規模はほとんど零の

状況となり、民需の仕事を探さなくてはならなくなった。そして、新明和興業(現在は新

明和工業)と名前を変え、宝塚工場跡地はその後、仁川の阪神競馬場となる。会社の場所

はその北側の隣接地に移って、鳴尾に残っているのは、かつて川西航空機の附属病院であ

った、医療法人明和病院だけとなった。いや、鳴尾に残っていたのは、もう一つあった。

それは阪神電車武庫川線であった。

 

 軍需路線であったその武庫川線は、昭和21年1月1日より運行を休止した。私はそれ

を知った時、甲陽学徒隊が汗を流した路線だけに残念に思い、なんとか動かしてくれない

ものかと、密かに期待していた。

 

 既に鳴尾飛行場跡にはアメリカ進駐軍がキヤンプを作っていた。昭和20年9月25日

に、鳴尾の沖に上陸用輸送艦艇が集結し、海岸に近づくと艦首が開いて上陸用舟艇が発進

し、戦車が続々と上陸して飛行場を占領したのであった。このキャンプに資材等の輸送が

必要とされ、やがて武庫川線は貨物のみの運行は続けることになったが、旅客営業はどう

なるか分からない日々が続いた。

 

 そして昭和23年になって遂にその年の10月、武庫川線は一般の旅客向けに武庫川駅

から現在の洲先駅までの1・1`の運行をすることが決まった。その時は未だかつての工

場跡は、進駐軍の管理下であり、戦時中の洲先駅のあった場所と比べれば相当に短い距離

であったが、軍需の為だった路線が、平和を取り戻した街をつなぐために動き始めたこと

は、大きな転換として注目された。

 

 考えてみれば、水上飛行艇作りの地方の会社が、戦時中に最新鋭戦闘機の「紫電」に続

き「紫電改」を開発したために、急激な膨張が一気に起こり、阪神鳴尾周辺地区を中心に、

強大な川西航空機王国が出来上がった。しかし戦争の荒れ狂う嵐は、全てを奪い破壊し尽

くしてしまった。その荒れ果てた広い荒野にやがて生まれる平和な街を期待して、つない

でゆく小さな芽が生まれた。これこそ、復活して動き始めた阪神武庫川線だった。

 

 昭和26年4月、鳴尾村は38万坪に及ぶ甲子園の進駐軍キャンプを抱えたまま、西宮

市と合併した。しかし、朝鮮戦争があり、アメリカ軍の娯楽センター設立案などもあり、

キャンプの日本側への返還には、相当長い交渉期間を必要とした。

 

 そして遂に、広い甲子園キャンプの土地と建物が接収解除となったのは、昭和32年1

2月であった。やがて、この場所に当時の日本住宅公団により最新の設計思想による武庫

川団地が誕生するのである。昭和54年「レインボータウン」の愛称を持つ32棟の高層

住宅群が、特色ある7つの広場とともに姿を現した、

 

 この団地開発にともなって昭和59年、阪神電車武庫川線は洲崎駅からさらに武庫川団

地前駅まで延伸された。この駅は川西航空機への輸送時代の旧洲崎駅と同じ場所であった。

そして、西宮駅(JR)から阪神武庫川駅までの間の路線は廃線となるのである。

 

 武庫川団地前駅が出来た時からでも、平和なレインボータウンで平和に生きる人々を乗

せて、阪神武庫川線はのんびりと走り、既に32年が経過した。今は平和が当たり前の時

代である。が、この阪神武庫川線は戦争が当たり前の時代に戦争のためにできた路線であ

る。そのような時代があって、その反省から平和が当たり前の時代が生まれた。この時代

をいつまでも維持するために、少なくとも、戦争が当たり前であった時代のことを知らな

くてはならない、と私は思う。その意味で正に、阪神武庫川線は、現役で動き続ける戦争

遺跡なのである。

 

 今年、平成28年9月27日、私はJR西宮駅から上りの電車に乗って、武庫川線の廃

線跡が見られないか、と、南側の車窓を眺めた。一部であるが並べた枕木が残る廃線跡ら

しいところがあった。武庫川線を走った蒸気機関車への給水塔跡のモニュメントがあるS

L公園も眺められた。

 

 JR甲子園口で下車して、武庫川右岸に残る線路跡のカーブに合わせてその上に建てら

れたマンションや、廃線上にきっちり立ち並んだ一戸建て住宅を見て武庫川右岸沿いの道

を南に向かって歩いた。武庫川の河原で休憩したあと、阪神武庫川駅西詰めから武庫川線

に乗った。2両編成の橙色の車体で、東鳴尾駅、洲崎駅、武庫川団地前駅とも無人駅であ

った。そして、ワンマンの運転手が全て運営していた。

 

 武庫川団地前駅から、右左に立ち並ぶ高層住宅を眺めながら私は、かつて「紫電改」の

生産に追われて必死で大勢の人が働いていた工場のあった場所から、戦闘機が飛び交った

飛行場跡を歩いて甲子園に向かった。並木の樹も、公園の樹も大きく立派に育っていた。

その樹の下のベンチに老夫婦が静かに憩っている姿があった。

 

 私は「平和が続いている。長く平和が続いているのだ」と呟きながら歩き続けた。

 

                         (平成28年9月28日)

 

参考文献

 

『零からの栄光』 城山三郎著 昭和56年角川文庫刊

 

『なるを 郷土の歴史を訪ねて』 昭和54年発行 大道歳男著 鳴尾郷土史研究会

 

カラーブックス『阪神』 平成元年10月発行 塩田勝三・諸河 久 著 保育社刊

 

 

******

宙 平

******