阪神電車
  
 
阪神尼崎駅での左から山陽電車(5000系)近鉄電車(9020系)阪神電車(8000系)
(写真はWikipedia阪神なんば線より)
  

  阪神電車       

  

 

  私が生まれて初めて電車を意識したのは、昭和9年9月21日、私が2歳と10ヶ月の時であった。

この日は風速、規模とも世界最大級と言われていた室戸台風が阪神間に上陸した日である。西宮市今

津巽町、海岸に近かった家の雨戸は飛ばされ、高潮が渦を巻きながら土間に流れ込んできた。朝で、

父は大阪の会社へ、小学生だった姉は祖父が用心のため付き添って学校へ行っていて、家には母と私

がいた。とっさに、母は私をおぶって外へ出て押し寄せる濁水の中を走り始めた。目指したのは阪神

電車の久寿川駅だった。

 

駅まで来ると、濁水も黒い泥を残して引き始めた。しばらくして運転が始まり電車が着いて父が降

りてきた。途中で引き返してきたのであろうと思われる。《この電車は頼もしい乗り物だ! 暴風の

中でも父を乗せて帰ってきた》とこの時、私は阪神電車を認識したのであった。

 

その後、私が母に連れられて、大阪の母の姉の家に行く時、初めて乗ったのも阪神電車で、当時あっ

た出入橋駅から東へ伸びた梅田の地上駅で降りたのを覚えている。

 

その梅田駅も昭和14年3月には5つのプラットフォームと4線を持つ、当時「地底の宮殿」とい

われた地下駅に移転した。今も使われている。

 

阪神間は、古くから国鉄が走り、阪神の後から開業した阪急が加わり、激しい競争が繰り広げられて

きた。私の覚えている阪神の宣伝文句は「待たずに乗れる阪神電車!」だった。それに対して阪急は

「綺麗で早うて……、待っても12分!」だったように思う。当時から、阪神は新しい斬新な車両も

次々と使っていた。少年の私が好きだったのは昭和11年から急行に使われて前面が透明な扉になっ

ていた851形だった。この車両に乗って先頭に立つと、運転席は片隅にあり、足元から線路が見え

て,自分が高速で走っているようであった。列車正面からは洋館の入り口に見えて「喫茶店」とも呼ば

れていた。

 

私が甲子園にあった甲陽中学2年生の時、なんと、阪神電車の社員になった。戦時の学徒動員で尼

崎の車両工場で働くことになったのである。当時、阪神電車の社員証を持っていると、阪神はもとよ

り、阪急も南海も地下鉄も省線電車も全部無料で改札口を通過できた。おまけに同伴者も「同伴!」

といえば、無料になった。

 

阪神電車沿線には軍需工場が多く有り、特に武庫川河口の海軍の新鋭戦闘機紫電改を作っていた川

西航空機工場には、多くの従業員や資材を送り込む必要から、阪神電車は軍需会社並みに扱われてい

た。その為昭和18年から武庫川駅を中心に武庫大橋から洲先まで、新しい路線の突貫工事に着手し

た。今の阪神電車武庫川線はこの時出来たものである。私の中学の上級生はこの厳しい工事に参加し

ていた。  

 

私が阪神の社員になった時、武庫川線は完成していたが、上級生たちは武庫川の駅近くの堤防上に

私達を集め、この路線を如何に短い期間内に、必死で力を合わせ完成させたかを、語っていたのを思

い出す。

 

昭和20年4月、空襲を避けて阪神三宮、元町間の地下線に留置していた車両が、原因不明の火災

により、26両が全焼、11両が損傷する事故が起きた。阪神で一緒に働いていた級友の三浦君のお

父さんがこの事故で亡くなった。阪神三宮駅の助役として,消火に尽力して倒れられた。葬儀は西宮

の海青寺で行われ私も参列した。

 

 空襲が激しくなったこの時、この事故で多くの車両を失ったことは阪神電車にとって、大変な打撃

となった。しかし、電車の運行は止めるわけにはいかない。工場で働く人々を毎日送り込まねばなら

ない。私は担当の仕事である、車両から使い古したモーターを取り出し、それの整備を極力早く、数

多くすることに懸命になった。それだけでなく、空襲で線路に直撃を受けてレールが象の牙のように

跳ね上がっていた魚崎駅近くの線路の補修作業に加わった。そして、時には、尼崎と宝塚を結ぶ道路

の近くにあった阪神の農場で野菜づくりをした。農場には野球が中止になってここで働いている阪神

タイガースの選手がいた。8月6日の西宮空襲の後には、甲子園球場でハリネズミの背中のように、

グランド一杯に突き刺さっていた焼夷弾の後片付けもした。空襲の後でも、直ぐに復旧して電車を動

かすように、みんな懸命に働いていた。西宮空襲の後も、終戦を告げる天皇放送の日も阪神電車は動

いていた。昭和20年の4月から8月までの短い期間の阪神社員だったが、私にとっては、記憶に残

る多くの事を体験した。

 

 西宮空襲で西宮市社前町の家は焼失したので、阪急沿線の親類の家や豊中市の曽根に住むことにな

った。そして、甲子園にあった中学・高校卒業後は阪神電車から離れた。しかし、甲子園での野球の

観戦や西宮神社十日えびすの時などは、懐かしさ一杯の故郷に帰ってきた想いで阪神電車に乗った。

  

 仕事の関係で名古屋や東京に住んでいた時は。中日球場や後楽園球場で阪神タイガースを応援した。

 

 東京に在住中、私は関西に帰ったら住むのは阪神電車沿線だ、と思い住宅情報に注意していて阪神

香櫨園駅近くの、マンションを買った。平成元年のことだった。平成4年から、再び阪神電車を常時

利用する沿線乗客となったが、阪神電車にはそれからも、色々なことが起こるのである。

 

 平成7年1月17日の阪神淡路大震災は阪神電車の甲子園より西の路線を滅茶苦茶にした。特に

御影〜西灘間では高架橋が8ヶ所落下し、高架の石屋川車庫全部が崩落した。そして、全車両の4割

に相当する126両が損傷し、41両が廃車となる大惨事となった。そして、全線が開通するのは6

月26日までかかった。阪神の鉄道被害額は454億円と言われている。この時、私はマンションの

部屋で、万物落下に埋もれたが、建物は倒壊を免れた。が、阪神沿線の住民の人数は減少し、開通し

ても電車の乗客数は大幅に少なくなった。

 

 そこで、阪神電車はJ・Rや阪急と対抗するためにも、山陽電鉄と相互乗り入れ区間を山陽姫路ま

で伸ばし、梅田と山陽姫路駅を結ぶ列車を「直通特急」として実現するのである。平成10年2月で

あった。

 

 震災からようやく復旧した阪神電車であったが、再び危機が訪れる。平成17年9月投資会社の

「村上ファンド」が阪神の株を大量に購入し筆頭株主になっていることが判明した。「村上ファンド」

は、ファンドの性格上、阪神の株価が大きく上がれば、持株全額売却する可能性が高い。売却先によっ

ては阪神電車の経営体質が大きく変わってしまう。

 

 私も少しではあるが、阪神電車の株を持っていた。当時この株は阪神タイガースがリーグ優勝に絡

んでくると、株価が上がってくるので、持っているだけでも楽しめた。ところが「村上ファンド」の

ために、異常な動きをするようになった。急激に上がるのも気味悪く、いつ、暴落するかわからない。

 

 私は当時「村上ファンドは阪神をどうするのか」というテーマで、代表の村上さんと架空の対談方

式のエッセーを書いた。当時アメリカのモルガン・スタンレー証券が株の一部を持っていたし、ゴー

ルドマン・サックス社あたりも名乗りを上げるのではないかと噂されていたので、そんなことになっ

ては大変だ、と思ったからである。

 

 最終的に、阪急の出資会社「阪急ホールディングス」が阪神株を引き受け、その傘下に入った阪神

と、阪急は経営統合して出資会社は「阪急阪神ホールディングス」と改称した。平成18年10月で

あった。私は永年のライバル同士が統合したことには衝撃を受けた。「庶民の気楽な乗り物」と言わ

れている阪神の特色が薄れて、全社阪急色に染め上げられることを、懸念していたが、今のところ電

鉄事業に関しては、独立を守り阪神色を維持して懸命に頑張っている。

 

 そして、平成21年3月には「阪神なんば線」が誕生した。ルーツは大正13年に開通した伝法線

にあった、これは本線を大物駅から離れて、伝法駅を通り南側から梅田を目指すものであったが、途

中で止まっていた。戦後になって難波を目指すことになり、昭和39年西大阪線として西九条駅まで

延伸した。ところが、そこから先、地元商店街が反対し、建設費の高騰もあり工事は長年頓挫してし

まう。しかし、ようやく安治川南岸地区の利便性を高めようとする動きがあり、大阪府や阪神電車の

出資する西大阪高速鉄道が主体となり難波までの工事を完成させて、阪神と近鉄の間で相互に直通運

転が始まることになった。現在、阪神は近鉄奈良駅まで、近鉄は神戸三宮駅まで乗り入れている。

 

 昨年平成26年5月、近鉄は臨時ではあったが、名古屋駅と阪神の甲子園駅間に直通特急を走らせ

た。使った車両は近鉄の最新特急車両22600系であった。「阪神タイガース応援観戦ツアー」と

「神戸フリープラン」の2種類のツアーが組み込まれていた。

 

 このように、阪神電車は近鉄を介して伊勢志摩、名古屋へのルートも確保し、このエリアを広げる

ことが可能になった。そして大阪の「キタ」梅田と「ミナミ」難波の両方のターミナルに直通路線を

持つ、唯一の私鉄となった。

 

 元々、大阪出入橋と神戸三宮間を走る30キロ足らずの路線で発足した阪神電車が、並走する他の

鉄道との激しい競争のなかにあって、戦争、風水害、地震の災害や多くの困難にも耐えてよくここま

で、なんとか発展を遂げてやってきたものだと私は思っている。

 

 資本は元々阪急の持株会社であった「阪急阪神ホールディングス」に依存しながら、路線は山陽や

近鉄と提携して、独自性を守って行くやり方は、並々ならぬしたたかさが感じられる。路線のある西

宮市、神戸東灘区、灘区などは、今は人口が年々増加していて、全国から注目されている地域であり、

大阪市でも北区、西区、福島区などの人口は伸びており、これからの乗客数の減少を心配することも

ないだろう。私も今はもう、自動車に乗ることは出来なくなり、出かける時の足は近くの香櫨園駅か

ら阪神電車に乗ると決まってしまっている。

 

 今の私にとっては「待たずに乗れる……」から乗るのだ、などと言っておれない「乗らざるを得な

い阪神電車」である。さらに、私の感じていることを、キャッチフレーズとして言うならば、日常的

に「気軽に乗れる阪神電車」であり「名古屋・伊勢志摩・奈良・明石。姫路、夢のふくらむ阪神電車」

でもある。

 

                        (平成27年1月30日)

 

 

参考文献

 

「阪神電鉄のひみつ」2014年11月

執筆者代表 岡田久雄・PHP研究所

 

 

「村上ファンドは阪神をどうするのか」

2006年・空色宙平

検索ホームページ「e-silver西宮」エッセー集、NO8。

 

 

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宙 平

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