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Chuhei
戦時中の映画「マライの虎」の画面と、ハリマオといわれた谷 豊さんとご家族のクアラ・トレンガヌでの写真です。
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マライのハリマオ
NHKテレビの「試してガッテン」で、「第2の認知症」というべき症状が最近新しく見つかった、と説明していた。 (2013年10月2日)それは、あるはずのないものが見えてしまう「幻視」が起こるのである。事例ではトイレの 中に若い女性の顔が現れたり、就寝中に目が覚めると、数人の男が見え、周りを取り囲んでいたという。
これを「レビー小体型認知症」というらしい。それは、レビー小体という不要なタンパク質が脳の中にたまってしまい、 視覚情報の処理がうまくできなくなることが原因で起こるとされている。
そして、その日、私が夜遅くパソコンに向かっていた時、ふと、「谷 豊(たに ゆたか)」という名前を検索しよう として、打ち込んだ途端、横に若い男の立ち姿が現れたのである。色白であるが精悍な顔つき、背は高くない。
この名前は、私の子供の頃から頭に染み付いていて忘れられない名前だから、無意識にキーを操作して打ち込んでいた のであろう。
「谷 豊さんですね」声をかけてみた。
「そうだ!」返事が返ってきた。《しめた!》と私は思った。これで話ができる。私が第2の認知症になったかもしれな いことなど、全く考えなかった。
私は昔、覚えていた歌をすぐに歌いだした。
南の天地 股にかけ 率いる部下は 三千人
ハリマオ ハリマオ マライのハリマオー
強欲非道のイギリスめ 天に変わってやっつけろ
猛獣吠ゆるジャングルの 奥を住処に高いびき
「谷さん この歌知っていますか?」
「たいそう威勢の良い歌だね。私はこの歌が作られた時には、もう死んでいたからね。歌ったことはないよ」
「あなたは、昔マライ(今のマレーシア)でハリマオ(虎)と呼ばれた有名な盗賊団の首領だったのですね。率いる部下は 3千人とは、大規模な集団ですね」
「盗賊団仲間としては多い時で100人位だった。が、イギリス人や金持ちの華僑たちに対する反感が当時のマライの人々 の中にあって、我々をかくまってくれたり、情報を知らせてくれたりするマライ人が増えて行った。部下ではないが、そう いう人たちをいれると、一時3千人位になったかもしれない」
「私は戦時中の1943年、大映映画『マライの虎』とこの歌で貴方のことを知りました。国民学校の6年生の時でした。 反日デモの暴動で殺された妹さんの仇、陳文慶に拳銃を構え路地に追い込むところなど、大変な迫力があり、当時映画館の 中で拍手が沸いた位でした。あれは本当にあったのですか」
「マライのトレンガヌで、当時6歳だった妹が反日華僑の暴動により、首を切り取られるという無残な殺され方をしたのは、 1932年だった。その時、私は日本に帰っていて、福岡で徴兵検査を受け、続いてアサヒ足袋(日本ゴム)などで、働い ていたのだよ。徴兵検査は身長が足らず、丙種だったけれどね。1934年母親と家族が帰国して来たとき改めて詳しく妹 のことを聞いてね。私は怒って仇を取ってやると、日本刀を持ってマライにすぐに行こうとした。それは皆に止められてし まった。私は気の短い男だったが、生涯を通じて人は殺してはいないのだよ。だからその映画のように拳銃で復讐したとい うことはないのだ。 それでも、私は妹殺害の犯人がどうなったのかを、はっきり確認したいことと、やはり2歳の幼児の 頃から育ったマライ人社会の中で過ごす方が自分に合っているように思い、再びマライに渡り理髪業を始めたのだ」
「犯人が分かったのですか?」
「犯人はトレンガヌの住民ではなく、外来の広西人の若者だった。その日のうちにマライの警察に逮捕されたのは確かだ。と ころが華僑の連中は、裁判の結果死刑になったといっているが、現地のマライ人や日本人の話によると、実際は英国の官憲に よって無罪で放免されている、ということを聞いた。
私はすぐに確かめにいった。ところがこの頃の英国統治下の警察は、すでに日本人には冷たかった。『事実関係はよく調べた のか? 犯人の居場所を教えろ!』と食い下がる私を逆に不審者として逮捕した。釈放後、これは犯人を無罪放免してしまって いるのに間違いない、と確信してさらに日本の政府関係にも陳情した。しかし日本の役人は『もう済んだことだ』と取り合って くれなかった」
「貴方はその後、英国人や富裕な華僑を対象にした盗賊に変貌していったのですね」
「私の周りには、不思議に金庫破りの名人とか、火薬を使った爆破に詳しいマライ人とかが集まった。華僑の貴金属店などから、 宝石や金製品を盗み出すのは、簡単だった」
「貴方のことは、戦後日本では『マレーの虎 ハリマオ伝説、』中野不二男著、とか『ハリマオ』山本 節著、など、その他多く の本が出て、また松竹映画『ハリマオ』も1989年に上映されたりしていますが、どの本にも映画にも共通していることは、貴 方は殺人を行わず、奪った金品は部下やマライの貧しい人達に分け与えて一銭も私しなかつた、そのことからマライ人には絶大の 信頼があった、としていることです」
「その代わりに、英国の官憲やそれと結びついた華僑たちからは怖れられ、私の逮捕に莫大な懸賞金をかけられていた。金鉱から 金の延べ棒を、そしてまた、急行列車では輸送中の金塊をうまく盗み取ったりしたからね」
「貴方は警察の激しい追及を逃れ、タイ国のバンブーに行っておられる。国境を自由に越えられたのですか」
「タイ国の南の地域は、イスラム教圏で人々はマライ語を使い、私の仲間もいたので国境を越えるのには問題がなかったが、タイ では旅券不携帯で捕まることもあった」
「そんなときに、接触して来たのが日本軍の軍属神本利男さんですね」
「タイの南部の監獄に収容されている時だった。彼は保釈金を払って私を解放し、日本軍への協力を求めてきた。私はマライ語で 『おれは日本人ではない』と叫んだ。事実そのときはマライ人になりきっていた。また部下のマライ人達が日本軍の仕事を喜んで するとは思えなかったからだ。しかし神本さんはいった。『まもなく、この半島は戦場になる。おれはマラヤをマライ人に戻した いと思っている。その為に君の力を貸してくれないか』そして更に、マライ半島が白人に4百年間支配されてきた歴史を説き、バ ラバラの反政府運動がすべて簡単に弾圧され、失敗してきた史実を語った。そして、日本軍に現地人が協力してくれるなら、必ず 英軍を駆逐して植民地支配を終わらせることが出来るといった」
「神本さんは軍人ではないのに、陸軍中野学校を卒業して、藤原岩市少佐を長とする特務工作組織「F機関」に属していたのですね」
「神本さんは昭和通商という商社の社員という肩書きだった。しかしすごい日本人だった。満州で道教の総本山・千山無量観の有名 な葛月潭老師の秘蔵弟子だった。そしてまた私がイスラム教徒だというと、コーラン第一章アル・ファティファ(開端章)を暗誦し てみせ、自分も多くのマライ人と同じようにイスラム教徒になってもよいといった」
「貴方は日本軍の「F機関」員となられたのですね、どういう指令を受けたのですか」
「最初、我々はマライ人の反英、対日協力を醸成、促進するために活動するということであった。実際にやったのは、英米との開戦 前には英軍が日本軍の進攻に備えて、タイとの国境近くに構築中のジットラ陣地の情報資料、陣地構築図、周辺地形図の入手、さら にマライ人労働者を扇動して、サボタージュなどにより陣地の完成を大幅に遅らせることなどに従事した。必要な資金は「F機関」か ら出た。1941年12月8日、開戦と同時にタイのシンゴラ・パタニ、そしてマライのコタバルに上陸した日本軍は、各地で戦闘を 交えながらジョホールパルめざして南下して行った。英軍は日本軍の進攻を遅らせるために、退却に当たって橋を爆破して行った。開 戦後の私たちの任務は、先回りしてその橋の爆破を阻止することにあった」
「そういえば、戦時中に私の見た映画『マライの虎』では、ぺラッ河の上流のダム爆破阻止のため潜入したハリマオ達が、ピストルで 英兵と渡り合い、終に爆破装置を止めたハリマオは壮絶な戦死をするのです」
「ペラッ河ではダムや発電所の爆破は阻止できたけれど、その下流にかかる大鉄道橋は、もう少しのところで英軍に爆破されてしまっ たのだ。この川幅は300メートルあり、マライ西岸最大の河だっただけに残念だった。あのとき私はその映画のように、戦死はしな かったが、マラリアが悪化して高熱が出て歩けなくなり、部下たちに私を捨てて先に行けと言ったが、結局担架で運ばれたのだ。総じ て日本軍の進撃は早かったね。自転車を使う銀輪部隊というのもあってね。ジャングル地帯を通って、日本軍より早く先回りして爆破 阻止をしなければならない我々は急いで進むのに必死だった」
「銀輪部隊というと、戦時中この歌をよく歌いましたよ。
マレー戦線 炎の風に 赤いカンナの 花が咲く 汗に塗れて ペダルを踏んで 行くぞ進むぞ ジョホールへ 走れ走れ 走れ日の丸銀輪部隊
言葉代わりに日の丸振って 呼べば応えるマレー人 椰子の木陰の 休止も済めば 更に行こうぞ 戦線へ 走れ走れ 走れ日の丸銀輪部隊
マライ人が日の丸を振って日本兵を見送っていた、マライ人は友好的だったのですね」
「マライ人義勇兵というのがあってね。英軍は鉄道の守備を任せて、日本軍が接近したら数か所を爆破して不通にする計画だった。私 たちはマライ義勇兵の宿舎に行き『おれはハリマオだ。日本軍はマライ人やインド人は敵としないから早く銃を捨てて、家へかえれ』 と説得した。みんな私の言葉を聞いてくれ大変成果があったと思っている」
「無駄な戦いを少しでも避けられたことは、マライ人たちの生命だけでなく、日本軍、英軍の兵士の戦死傷者を少なくする上でもよか ったですね。その後、マラリアにかかったお身体の状況はどうでしたか?」
「残念ながら、ジョホールバルまでの行程では担架に担がれての行軍が多くなった。日本軍の進軍と同時にジョホールバル陸軍病院に 運び込まれ、その後シンガポール陸軍兵站病院(現タントクセン病院)に移された」
「病状回復せず、1942年3月17日貴方は、30年の生を終えられたのですね。イスラム教徒として埋葬されることを望まれてい たので、遺体は数名の仲間に担がれ病院を出て近くのモスクで葬儀が行われました。今はイスラム墓地のどこに埋葬されたか分からな いとされています。しかし日本の福岡の谷家の墓所には『南方院報国日豊居士』として今も眠っておられることになっています」
「いや、私はどこの墓地にもいないよ。貴方の脳のレビー小体の中にいるのだ。さて、今日はこれまでにしよう。話ができて良かったよ。 また出てくるかも分からないからね」
今まで話していた青年の姿は消えて、パソコンのYOU TUBEから突然、「NEGARAKU」(マレーシア国歌)が流れた。
《谷さんはマライが、本当に好きだったのだなぁ! 今の、独立して発展しつつあるマレーシアを知って、嬉しくてたまらなくなって出 てきたのだろう》と私は思った。
(2013年10月22日)
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:★:cosmic harmony 宙 平 *−*−*−*−*−* |