鍼灸の話
お灸が腹切りを止めた。
今から40年ぐらい前、私は胃痛に苦しんでいました。病院でバリュウムを飲んでレントゲン
診断を受け、「十二指腸潰瘍です。すぐに手術して切除しましょう」と医師に言われました。そ
の時、私はお腹を切ることを、悲壮な思いで覚悟しました。ところが診察が終わると、手術の
ための打ち合わせや、入院の手続きなど、看護師が説明することもなく、会計で診察料を支払う
と、その日は終わってしまったのです。勿論、私の方から入院の手続きはどうなっているのかと、
問い正すと入院して手術することになったと思いますが、私にとっては、大変重大な開腹切除を
簡単に宣言しておいて、その手続きの説明をすぐにしない病院に、覚悟を決めてお腹を切って
もらいに行く気がなくなってしまいました。しかし、十二指腸潰瘍であることは間違いないよう
ですので、他の病院に行っても結局は切ることになるのだろうとも思いました。
そのとき阪急電車の駅の看板に「胃潰瘍にきく渋谷の灸」というのがあったことを思い出し、試し
に行ってみることにしました。渋谷の灸院は阪急宝塚線豊中駅から北側の国道176号線を300
㍍ほど岡町方面に行ったところにありました。当時私は同じ宝塚線曽根駅近くに住んでいましたの
で、会社の帰りに豊中駅まで足を延ばしました。
灸院の渋谷先生はかなりの年配に見えましたが、明るい感じの先生で、寝台に寝た私のお腹を触診
すると、細い筆で私のお腹のツボ、右の肋骨の下辺りなど5か所ほどに×印を付けました、そして
その×印の上に、米粒ぐらいのもぐさを三角形にして乗せると、その先に線香で火をつけました。
もぐさの匂いが立ち込めます。火が私の皮膚に達すると熱いだろうなと思うと、少し怖くなりました。
1分位たったでしょうか、「熱い」とお腹に強い刺激が走りました。その時、絶妙のタイミングで先生
は、自分の指でつまんで、燃えたもぐさを取り去っていったのです。その後お腹のツボには快い温かさ
が残りました。
「先生、私の十二指腸潰瘍はお灸で、切らなくても、治るのでしょうか」
「お灸を1回だけして、それで治るものではありません。しかし、お灸を続けていると、必ず症状は
治まっていく筈です。お灸のツボに熱刺激を与えることで、免疫や代謝機能が増え、次第に身体の自然
治癒力が高まっていくのです。だから、続けないと効果はないのです。お灸の「灸」は「久」に通じる
と、昔から言われています」
私は子供の頃、銭湯へ行くと、背中やお腹にお灸の焼け焦げ跡がある人たちが大勢いたことを思いだし
ていました。
「お灸の跡は身体に残るのでしょうか」
「昔のお灸はもっと、もぐさを多くして、時間をかけ、意図的に焼け焦げ跡を身体に作る有痕灸が主
でしたのですが、今はそれをしている灸院は殆どなくなりました。昔のようなお灸の跡は残りません」
私は週に2回、1年間、この灸院に通いました。最初は「熱い」と感じていたお灸でしたが、次第に
ツボに刺激が入ると「気持ちいい」と感じるようになりました。やがてお腹の痛みを感じることも少
なくなり、お腹を切る手術をするかどうか、など考えることも無くなりました。
その後、しばらくして別の病院で胃カメラ(胃内視鏡)検査を受けました。検査した医師は「十二指腸
潰瘍の傷跡がありますが、傷はもう固まって治っているので、問題はないでしょう」と言いました。私
はその時、切除手術などしなくて、お灸を続けて良かったとしみじみ思いました。
今はもう、渋谷先生の灸院はありません。
私の「身体の地震」を止めたのは鍼灸か、漢方薬か……。
60歳を過ぎた頃から、時々「めまい」のような感じに急に襲われることが、ありました。近所の医院
に行きましたら、「本当のめまいは回りがぐらぐらと回転するように感じるもので、貴方はそれではない。
しかし、急に身体にふらつきが起こるのには、色々な原因が考えられるので、すぐにでも病院で検査を
受けた方が良い」と言われました。
そこで私は西宮の県立病院で、血液検査、レントゲンのほかに、MRI・脳波の検査などを受けましたが、
特に異常はないとのことで、原因は分かりませんでした。それなのに、この症状は、さらに激しくしばしば
起こるようになりました。
突然、急に頭が重くなり、倒れこんでしまいます。意識が薄れて、抜けていくような感覚に襲われるのです。
家で倒れた時は「すぐに救急車を呼んで……」と叫んだまま寝込むこともありました。しかし、しばらくする
と意識が戻ってくるのですが、急に襲ってくるので私は「身体の地震」と言っていました。そんな状況でも、
私は近郊で行われるオリエンテーリング大会には出場していました。里山の山麓の会場までのバスを降りよう
としたときに、突然くらくらと、この「身体の地震」が襲いかかりました。競技仲間の人たちが「大丈夫か」と
声をかけてくれましたが、「すぐに良くなるから、大丈夫」と言ってしばらく路端に座り込みました。確かに
しばらくするとこの時も症状が治まり、この山を走る競技に参加できました。人材センターの英会話クラブでも、
突然この「身体の地震」が起こり、机の上にそのまま伏せてしまって、仲間を心配させたこともありました。
私は脳神経の専門病院、西宮協立脳神経外科病院で、全身用CTやMRIや血管画像検査などを受けましたが、
異常はないということでした。さらにどうすればよいかと県立病院の担当医に問いつめますと、心因性の原因かも
しれないと、精神安定剤を出してくれましたが、そんな薬を飲むとかえって、気持ちがおかしくなるようでした。
困った私は、付属の鍼灸診療所を持つ阪神電車大物駅の北にあった県立尼崎病院東洋医学科を紹介状なしで訪れ
ました。そこで、京大医学部を出た内科医でありながら、ここで漢方医を専門にしておられた長瀬先生に、身体の
地震が急に起こる状況や、その検査の経過を話しました。先生は釣藤鉤・天麻・芍薬・桂皮・地黄・枸杞子など、
身体の痙攣や緊張を緩和し安定する生薬を混ぜ合わせて処方し、それを、土瓶に入れ、水を加え煎じ温めて、朝夕
2回に分けて食前に飲むことを指示されました。そして同時に別棟にある鍼灸診療所で鍼灸治療をするように言
われました。
当時、鍼灸師の先生は4人位おられたと思います。私の担当は50歳ぐらいの外間先生でした。週に1回、全身の
前面と背面に鍼を全部で50本位打ちました。前面は腹部・腕・膝・顔面(眼の周り)俯いてから首筋、背中、腰、
膝の裏などのツボに打ちました。同時にお灸は10ヵ所位、ここでは筒を使った温灸(間接灸)ですので跡が残る
ことはありません。寝台に上半身裸となり、膝も出して横たわり身体の前面と背面で一時間ぐらいかかりました。
私はこの鍼灸診療所に平成14年から平成26年まで12年間通い続けました。その間、東洋医学科でも漢方薬
をもらっていたのですが、途中で煎じて飲む薬から、簡単に水で飲む粉末の薬に変えてもらいました。また先生も
変わり、漢方薬の内容も変わりました。
この漢方薬が効いたのか、鍼灸が良かったのか、は分かりませんが、通いだして2年目ぐらいから、「身体の地震」
の起こる回数は次第に減ってきて、3年目ぐらいから気が付けばいつしか起こらなくなっていました。それでも私の
身体には他に、腰痛や首肩の痛みなどが色々起こっていましたので、週に1回は鍼灸に、漢方薬が無くなると、その時
の症状を訴えて東洋医学科に通い続けていました。
鍼灸の治療費用は一回3000円でしたが、神経痛、 五十肩、リュウマチ、腰痛、 頚腕症侯群(首・肩・腕の痛み、
しびれ)、ムチウチなどの症状には、3か月に1回の医師の同意を得て、療養費支給の申請をすれば健康保険から
一回分につき1000円の助成金が戻ってきていました。
平成26年の末、県立尼崎病院は県立塚口病院と統合し、県立尼崎総合医療センターとして、大物駅からは北西に遠く
離れた東難波町に移転することが決まり、鍼灸診療所はなくなり東洋医学科に含まれて、移ることになりました。それ
を機に、私は「身体の地震」が起こらなくなったことを感謝しつつも、永年続いていたここの鍼灸診療所通いを止める
ことにしました。
しかしながら、私は今までの体験を通じ、「『灸』は『久』に通じる」という昔聞いた渋谷先生の言葉を実感していまし
たので、高齢によって私に起こってきている頚腕症候群、肩や首の痛み、腰や膝の痛みなどの症状を治すために、
月に1回か2回は鍼灸を続けたいという気持ちもありました。それを診療所の外間先生に相談すると、かつて、
この診療所に鍼灸師として勤めておられて私もよく知っている曽先生が、今は神戸元町で鍼灸院を開いておられるので紹介状
を書くから、そこへ行けばよいということになりました。
安らぎの鍼灸、極楽死への終活だ
曽先生の元町はりきゅう院は阪神電車元町駅西口に直結した古いビル4階にありました。部屋に入るとカーテンで仕切った
寝台が二つあり、癒し系のクラシック音楽が常に流れていました。治療は診療所と同じく、全身に鍼を打ち、そして背面の
腰と足のツボには温灸をされました。電気で刺激を与える機器もあり、診察の途中で足や腰にその刺激が伝わりました。
曽先生の治療は穏やかで丁寧な、安らぎの鍼灸でした。先生は私を先にうつ伏せにして、背面を触診しながら、
素早くツボに針を打ち、温灸の筒に火を付けてゆきます。時々痛い、熱い、と感じることはありますが、やがて全身が快い刺激に満たされます。
30分位して、今度は身体の前面の治療となりますが、表向きにゆっくり寝返ると、全身の緊張が一気に解けて、私はいつも自然に眠ってしまうのでした。
曽先生は中国の麻酔の代わりに鍼を使う腫瘍の摘出手術にも実際に立ち会っておられ、最近ではアメリカの軍隊で、
兵士の身体の痛みに鍼で対処することもあるようだと語られているなど、痛みをとる安らぎの鍼灸についても良く研究されています。
先生の鍼灸により私の肩や腰の痛みは確かに治まってきました。しかし老人性の症候群による痛みは又、たえずぶり返してきます。
が、「久」に通じる「灸」を続けるならば、私の身体はやがて痛みの感じない、安らぎ体質になって行くことを信じています。
そして、満87歳になる私にとって、曽先生の鍼灸は安らぎの自然死を迎える身体を造る、終活だと思っています。
私は死んだ後には、地獄も極楽もないと思っています。しかし死に際しては、「地獄のような苦しみ」の場合がある
半面、「極楽のような安らぎ」の死もあると思います。
今私は、その極楽死をめざして曽先生の安らぎの鍼灸に通い続けるつもりでいるのです。
(平成30年10月22日)