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Chuhei
今年のWMOC(世界マスターズ、オリエンテーリング選手権大会)
はドイツ中北部ハルツ山地で行われました。
公園や街での短距離のスプリント競技が2日、山地でのロング競技
が3日間ありました。下はブロッケン山の周りの会場の場所です。
左はスプリント競技、右はロング競技でフィニッシュに向かう私です。
選手がロング競技で、コントロールを見つけ、チェックするところです。
ハルツの山地を走る
今年のWMOC(世界マスターズオリエンテーリング選手権大会)はドイツの中北部
ハルツ山地のパートハルツブルグを中心に、行われた。
私は小林さんの主催するツアーで参加した。小林さんは、早稲田大学のオリエンテー
リング部のOBで日本旅行勤務だが自分で大会にも参加し、手続きや宿泊、交通の手配
等をやってもらえたので、有難かった。
今年のWMOCへの参加国は42カ国、参加者は4千人、35歳から90歳まで、男
女別5歳刻みのクラスに分かれて競技する。日本からは36名、そのうち小林ツアー
には19名が参加した。M40歳クラスの小林さん以外は全員60歳以上の年齢だった。
日本からの参加者にはW35歳クラスのエリート級の女性、まどかさんもいたが、会
場では一緒だったものの、ツアーメンバーではなく、宿泊交通等は別のルートで参加し
ていた。
フランクフルトの乗り換えで、ハノバーに着き、迎えのバスで一時間、パートハルツ
ブルグのホテルに落ち着いたのは6月29日の夜だった。7月9日までの滞在となった。
この町は人口2万2千人の、温泉の出る保養地でもあり、リハビリのための病院が3
つもある。緑の多い山の中の街で、ゆったりした空気が全体に流れている。
翌日6月30日は町の西にある大会本部にバスで行き、資料や、ゼッケン、SIカー
ド(競技の時に標識の場所にある機器に差しこみ通過時間が記録される)をもらった。
帰りは地図を見て町に設置されたモデルイベントの標識をたどりながら歩いて帰った。
7月1日スプリント予選第一日、ホテルから南に歩いて15分の公園は、各国の選手
で埋まっていた。ツアーメンバーで空いた場所にテントを張り、日の丸の旗をそれにつ
けた。
私のスタート時間は、14時37分と決まっているため、早めにスタート地点に向か
う。2分前にプレスタート。SIカードのチェックを受け、位置説明の紙を受け取り、
自分のクラスの地図を自分で取ると、スタートする。
テープに沿って進んでゆくと十字路の道にフラッグがある。これが地図のスタート地
点で地図には△のマークが書かれている。そこから、まず地図上で最初の@のコントロ
ール(標識)の場所を見て、コンパスでその方向を定め、素早く進むのである。この時
のコントロール数は11あった。
地図は4千分の1、この競技のために作られた市街図である。スプリント競技という
のは距離が短く、公園とか市街が使われることが多い。素早く、もたつかず、如何に走
りきるかの競争である。
公園を横切り、橋を渡りまた別の公園の中を走り回り、5つのコントロールをチェッ
クした。ここから、坂道を登り上の広場の2つをチェックして、南東に街中を走り、残
りの4つをチェックして、テントのある公園にフィニッシュした。
あっという間の、19分43秒だった。この競技のM80(80歳から84歳までの
男子クラス)には75人が参加した。37人と38人の組に分けられ、私は37人組の
21位だった。昔はもっと早く走れた。そして短い距離は得意の分野だったが、今はも
う昔のように膝が動かない。しかし、同じ年代でも早い人は早い。私の組の1位のスイ
ス人は14分14秒で走っているし、別の組の1位は13分21位である。また日本か
ら参加した同じM80クラスの高橋さんは同じ組の4位で、14分42秒だった。
高橋さんは細い身体で、実に軽やかに早く走る。今回参加した日本人のうち全クラス
を通じてメタルに手の届く人は高橋さんであろうと、言われていた。このスプリント種
目決勝戦でのメタルへの期待が日本人の間で高まった。
7月2日はスプリント決勝。場所はゴスラーという町で、駅から大会専用のバスで出
かける。ここはかって鉱山で栄えた町、またドイツ皇帝ハインリヒが開発した都市とし
て宮殿も残っている。その宮殿の前の広場が会場である。テントを張ったが雨が降って
きた。
雨の中をスタートに向かった。決勝でM80クラスは昨日の成績順に2つに分けられ、
もう少しのところで、私はBクラスとなってしまった。それでも気を取りなおして、9
つのコントロールをチェックして宮殿の前にフィニシュした。23分9秒。36名中の
17位。
この日、Aクラスの高橋さんは40人中の3位に入った。14分56秒、銅メタルで
ある。高橋さんも毎年世界各地で行われるこの大会に出ておられるが、メダルは初めて
のことである。
また、WMOCの日本人の記録としても、2002年、オーストラリア、べンディゴ
の大会で85歳の東京の磯貝さんが、当時このクラスは少数の出場者ながら優勝して以
来のことであろう。
表彰式の後で高橋さんは「いつもどうしても勝てなかった、北欧の連中に今回勝てた
ことが何よりもうれしい」と語っていた。
7月3日は、ロングのモデルイベントとしてブロッケン山南東の山地で練習をする。
7月4日、ロング予選第一日。ブロッケン山への鉄道の駅の近くに会場がある。小高
い広場にテントを張り、スタートまで12分。私は11時15分にスタートする。コン
トロールは12。地図は1万分の1、直線の距離3・3キロ。それほどアップダウンは
ないが、下は倒木や凸凹があり走りにくい。@の(溝の終)はスタートから100メー
ターのところなのに、何故だか見当たらない。北の道まで出て攻めなおしたりして、時
間をとってしまった。その時、追いついてきた背の高い北欧人のM80と追いつ追われ
つとなった。言葉もかけなかったが自然に、彼の地図は私と同じコースと分かった。付
いてゆくという意識はなかった。が、結果的に2人で迷うことなく、コースを回ってし
まった。時間は76分12秒。38人中の26位である。@で20分5秒もかかったの
が悪かった。
7月5日、ロング予選第2日。ゴスラーの南、クラウスタルツエラーフエルトの山地
へ大会専用バスで向かった。この日のコースは直線で4キロ。コントロール数は14も
ある。地図は1万分の1。スタートは11時47分。
この日は@からAへ向かっている内に遂に現在どこにいるか分からなくなってしまっ
た。ようやく道に出たが、その道が地図のどこに当たるかわからない。後でわかったこ
とだが、とんでもなく、目標から行き過ぎていたのだ。立ち止まって必死で地図を見て
いると、W70のゼッケンをつけた女性が、頼みもしないのに、お前はここにいると英
語で教えてくれた。お蔭でやっとAにたどり着くことが出来た。残念ながらここだけで
44分11秒もかかってしまった。そのため、このコースを完走したものの126分0
7秒となった。38名中の31位である。あぁ無念!
7月6日、待望のレストの日。狭軌鉄道でブロッケン山へ観光に行く、この日のこと
は別にエッセーに書く。
7月7日、ロング決勝の日。パートハルツブルグの南の山地。露天掘りの土砂採掘場
の近くに会場がある。Bクラス、2.8キロ、コントロールは10。1万分の1。スタ
ートは12時2分。@から丘を駆け下り、森に突入し、Cの岩場で少し手間取ったが、
あとは問題なくフィニッシュした。58分19秒。ところがこの日は成績速報を見な
かったから気がつかなかったが、日本に帰ってから成績を見ると、Bの(空き地の南西)
を私がチェックをしていないことになっており、失格! になっている。そこで当日の
ラップタイムの記録をよく見るとなんとBを飛ばしている。しかし、実際に私は確かに
Bには行き番号も確認しているのだ。考えられるのは、SIカードの差込が不十分でカ
ードが認識しなかったことでしかない。あぁ! 全く残念な結果となってしまった。
なにはともあれ、これですべての競技は終了した。ロング競技では残念ながら参加し
た日本人のメダル獲得は今回も無かった。
私は昨年のハンガリーのWMOC大会では、ロングの決勝でM80Bクラスの6位に
入っていた。それと比べても今年の競技成績は悪い。走りが遅くなったところに、不注
意が重なっている。実際走りはこれ以上早くならないかもしれないが、「年寄りは走り
が遅いのは当たり前だ」「年寄りは、絶対無理に走ったりしてはいけない」等の言葉に
甘えて、積極的に走ろうとしなかったことも、悪かった原因の一つだ。80歳でも、8
5歳のクラスでもヨーロッパで世界を相手に水準以上の成績を目指すならば、スタート
からフィニッシュまでの間に歩いてはだめだ。早く走り続けられるように、訓練しなく
てはならない。それには膝の痛みを超えねばならない。そして酸素欠乏になって、集中
力が低下し、とんでもない間違いを起こさないように、日頃から意識して日本の大会
にも出来るだけ参加して身体に負荷をかけ、酸欠状態を多く経験しておかねばならない。
来年のWMOCはイタリヤのトリノで8月に行われる。再来年はブラジルである。
私はどこまで参加できるのか? 今回、男性M80参加者は82名だった。M85は
17名。そしてM90は5名でうち3名がロングで完走している。女性W80は22名。
W85は6名で4名がロングで完走している。
私が走れる状態のまま生き続けて、M85に出場し、さらにM90に出場することが
もし出来たならば、いつかはメタルを取ることが可能であるかもしれない。
しかしそれには、オリエンテーリングの競技を戦う前に、世界の選手相手の生き残り
の競争に勝たねばならない。そしてそれは私の日頃望んでいる、単に死の直前までピン
ピン生きていればいつ死んでもよい「ピンピンコロリ」よりもっと難しいことなのである。
(平成24年7月17日)