映画「蟻の兵隊」が大阪に来ました。私も大阪での上映初日に行き、
監督と奥村さんの話を聞いてきました。そこで私なりのポイントを
まとめてエッセーにしてみました。
下の写真は映画のスチール写真です。
|
|
左の写真は1946年6月日本軍の軍服を着て、国民党軍の軍帽を手に持っている奥村さんです。(左側の人)
|
|
そしてこの映画を作った池谷監督と奥村さんです。
|
映画 蟻の兵隊
満員の十三第七藝術劇場
この映画には俳優はいない。昭和二十年八月日本が敗れたあとも、山西省に残り国民党軍と組んで三年間、共産党軍(人民解放軍)と戦っていた元日本軍残留兵奥村和一さんの、今の行動を追っていくカメラがあるだけである。しかしこの映画には多くの観客がおしよせた。
大阪での上映初日の八月五日、十二時三十五分の第一回開場前の劇場は、狭い廊下や六階までの階段に人があふれ、混雑を極めていた。私は当日十時半頃に切符を買ったが、入場の順番はすでに七十番だった。長いこと待ってやっと座ることが出来た。しかし定員一四〇名の劇場に一七〇名ぐらい入って、補助席及び立ち見が出た。それでも入れなかった人は次の回に回された。
そして、上映終了後、奥村和一さんと池谷監督のティーチイン(公開解説)があった。人が多いため、予定を変更して四階の中華料理店の大宴会場を借り切って行われた。これには映画を見た人、まだ見ていない人も詰めかけ二五〇人を越える人であふれた。そして質問や意見が相次ぎ二時間を越えた。私が驚いたのは、三重県とか、香川県とかかなり遠方から来たという人が多かったことだった。そして山西省と何らかの関係を持つ人も多かった。若い女性から「中国に留学していたが、日中戦争について中国の学生達はよく知っていて、いろいろ質問してくるが、日本の学生は何も知らないので、答えられない。少しでも戦争のことを知りたいと思って、ここへ来た」という発言もあった。
靖国神社にて
奥村さんは、靖国神社境内で焼きそばを食べている少女達のグループに声をかけた。
「今日は何をお祈りに来たの?」 「初もうで……いいことがあるようにと」 「ここはだれが祭られている神社か知っている?」 「……」 横でスタッフが、 「このおじいちゃんはね。たいへんな人なんだよ。戦争が終わってもね。中国でまだ戦争を長いことしていて、やっと帰ってきたんだよ」 少女達の表情が変わる。
また別の場面で、八月十五日の靖国境内を旧日本軍の軍服を着て行進する人たちの姿が撮影されている。そこに、あのルパング島残留の小野田元少尉が来ていて従軍体験を語りながら「私は靖国の落第生で……」などと挨拶して、周囲を笑わしている。奥村さんは「小野田さん、侵略戦争を美化するのですか」と厳しく問う。「終戦の詔勅をよく読みなさい!」と小野田さん。激しく怒声をあげてやりあう二人の場面が映し出される。池谷監督はテイーチインで、この映画には政治的な意図は全くない。また小野田さんと奥村さんのどちらが正しいということを主張するものでもない。また少女達についても、予期せずに、自然に奥村さんが近づいたので撮影した、といっていた。
証拠集めの旅
奥村さん等の身分は、現地で除隊した兵士で自発的に残留したことになっている。(逃亡兵と同じ扱い)軍籍がないので恩給は支給されない。奥村さんは「現地除隊など知らない。残留は軍の命令だった」と主張し「なぜ残留させられたのか」という真実を明らかにするために、特務団編成命令書などを見つけて、裁判を続け、さらに中国に証拠集めの旅に出る。そして山西省の公文書館では、残留日本軍の本当の目的を記した内部文書を見つけ出す。残留部隊総隊長の今村方策大佐の総隊長訓に「総隊は皇国を復興し,天業(天皇の仕事)を恢宏(押し広げる)するを本義とする」とあるのが残っている。
しかし国は残留後も軍籍があったことを認めると、終戦後も日本軍が中国で正式に戦闘していたことになるので、事実を認めようとしない。そして最高裁は上告を棄却した。
実際は陸軍第一軍の将兵五万九千人のうち、二千六百人が、武装解除を受けることなく、中国国民党系の軍閥に合流、四年間共産党軍と戦い、約五百五十人が戦死。七百人以上が捕虜となった。これは、当時戦犯指名された軍司令官等が責任追及への恐れから軍閥と密約を交わし「祖国復興」を名目に、残留を画策したためとも言われている。
過去と向き合う
奥村さんは、中国の公文書館などで資料を調べるうち、自然と日本兵のおかした加害の過去と向き合うことになる。自分が日本軍の初年兵のとき肝試し訓練として、銃剣で中国人を刺殺した場所を訪れる。そこは寧武にあった処刑場で、その時は五十人位の中国人が連行され、将校等は試し切りとして、首を刀で切り落としていた。刺突訓練は「突け! 抜け!」という掛け声で夢中で突きまくったと言う。奥村さんはその場所に線香をたむけた。
映画では奥村さんが、日本軍に性暴力被害を受けた女性、劉面煥(りゅうめんかん)さんと話をする場面もあった。山西省盂県羊泉村の農家の娘だった劉さんは十六歳の時侵入してきた日本軍によって拉致され、慰安所と呼ばれていた横穴式住居で四十日間監禁され、毎日殴られ・連日強姦を受ける。彼女はこのことを静かに淡々とした口調で話をする。身体がボロボロになり、返す条件として父親に身請けの金を要求される。こんな劉さんが、銃剣刺殺したことを、家族にも話していないという奥村さんに、やさしく「もう家族の人に話をしたら」と語りかける。
元主任参謀の叫び
南京にあった支那派遣軍総司令部元主任参謀宮崎舜市元中佐は、いま脳梗塞で倒れてから寝たきりの状態で口が聞けない。この人は、終戦当時、山西省で将兵残留の不穏な動きを知って、太源にあった第一軍司令部に乗り込み、澄田軍司令官ら軍首脳に残留部隊編成の中止を強く迫った人である。一時的に中止するかに見えた残留工作は、結局はその後も進められていたのである。
宮崎さんは、残留工作の実態を一番良く知っている人であった。病院で意識がはっきりしないような状況で、お見舞いに訪れた奥村さんからの話を聞くと、「あー」と大声を上げる。「分かっているのですよ」と介護している娘さんが言う。「あー、分かっておられる」と奥村さん。
戦後三年目の天皇陛下万歳
奥村さんは、中国への旅の最後に、日本人残留軍と人民解放軍との間の激戦のあった、牛駝寨という要塞跡を訪れる。頑丈に作られた無気味な建造物である。ここにたてこもった多くの残留部隊の日本人が死んだ。
「死ぬとき、天皇陛下万歳! と叫ぶんです。戦争が終わってもう三年目にもなっているのですよ」正に残留部隊は、天皇の軍隊であったのである。
奥村さんは始めてここで「戦友に線香をあげたい。日本から持ってきたタバコも供えてやりたい」といった。
一九四八年七月の晋中作戦で奥村さんは重迫撃砲弾を受け、全身に重傷を負う。そして撤退中、解放軍の捕虜となり、野戦病院へ運ばれる。未だに、奥村さんの身体には銃弾の破片が残っている。
四七歳の池谷監督は、このドキュメンタリー映画をイデオロギーの枠組みによって語るのではないとしている。彼自身もティーチインでこの映画を「政治的な先入観なしで見てほしい。そして実感してほしい」といっていた。
奥村さんも日本陸軍兵士、そして国民党軍日本人特務団兵士、最後に人民解放軍捕虜という体験を通じて「戦争とはなにかということを、戦争を知らない人にたちに語り、それを受け継いでもらわなければならないと思っています」と語っている。
私は池谷監督のこの映画に対する考えや、奥村さんに寄り添いその眼でカメラを回すという作法に感心した。そしてこの映画により自分の体験を残したいとする奥村さんにも声援を送りたい。まずは多くの人に見てもらい、そこから戦争とはなにかを感じ、意見を語ってほしい映画であると思った。
|