弘法大師空海は、何度も西宮の甲山を訪れています。
ここでも「五大の響き」を感じていたのでしょうか。
このエッセーは私が10年前に書いた「響き」を新しく
リメイクいたしました。
響き
五大に、皆響きあり。あの空海の言葉です。『声字・実相・義』という本にあります。
五大とは、地・水・火・風・空・の五つをいいます。
私の幼時の最初の記憶は「風」と「水」なのです。室戸台風が近畿地方を襲い、阪神間に上陸したのは、昭和九年九月二十一日。私が二才と十カ月のときでした。当時の記録はこの台風を次のように報じています。「この台風は、室戸崎で九一一・九ミリバール、最大風速四五メートルという世界記録を印した最大級の台風で、それにちなんで室戸台風と名付けられた。また台風の通過時がたまたま大阪湾の満潮時に当たったため、潮位が異常に高まり、沿岸の各地に高潮による大きな被害が出た」
このとき私の家は西宮の今津の浜の近くにありました。午前八時、私と母の二人が家にいました。私の最初の記憶は、物凄い風に縁側の向こうの大きな雨戸が弓なりにしなんで、吹き飛びそうになっているのを母が必死になって雨戸を押さえている情景でした。
やがて雨戸は紙のように飛び去って家の中を暴風雨が吹き抜けました。母が私をおぶって玄関まで出たとき、ゴォーという音とともに濁水が急な勢いで家に侵入してきました。
母は着物の裾を絡げ裸足のまま外へ逃げ、水の中を走り始めました。黒い板塀の続く酒蔵の通り、浜のほうから層になって押し寄せる濁水が、腰の高さまで迫ってくるなかを、私をおぶって懸命に走る母の姿が、私の脳裡に今でも焼き付いています。
このときの「風」と「水」は私の心の奥底に強烈な「響き」として残りました。この後すぐに家は、同じ今津の社前町に変わりました。酒蔵に囲まれた古めかしい家でした。が、やがて空襲で焼けてしまうことになるのです。
昭和ニ十年八月五日の夜から六日早朝にかけて西宮大空襲がありました。私は中学二年生で、戦時中の勤労動員により工場で働いていました。疲れて寝ていた私は、ザァーと,いう焼夷弾の落下音に飛び起きました。「敵機は西宮を爆撃中」と、繰り返しているラジオを後に家族五人は外へ逃げました。降り注ぐ火の中を走っているうち、いっしか一人になっていました。身をかすめて落下した焼夷弾が、足元で炸裂しはじめるなか、炎の渦から脱出しました。
このときの「火」も私の心の奥底に強烈な「響き」として残りました。空襲で家が焼けたあと、大阪府の千里山や豊中に住み、学校を終え、就職し、結婚し、両親をそれぞれ先祖代々の墓に葬り、仕事で名古屋に三年、そして東京に五年住みました。
会社を退職した後、平成四年六月。私は「風」と「水」と「火」の「響き」を心の奥底に残している地である西宮に、再び住むこととなりました。そして平成七年一月十七日早朝、「地」の響きが西から伝わってきました。阪神淡路大震災でした。
マンション五階で寝ている私の上を越えて、二段たんすの上段が飛びました。万物落下の中から這い出してみると、近所の大きなマンションが傾き、北側の高速道路は倒壊していました。あっという間に、すべてを変えてしまう「地」の響きの恐ろしさを実感しました。
今でも、私はちょっとした、振動にも敏感に反応して笑われることがありますが、私の身体に「地」の響きがしみついてしまったものに、違いありません。空海のいう「五大」の響きのうち、私の身体には「地」「水」「火」「風」がすでに、それぞれの恐ろしい記憶として、しつかりと根付いてしまっています。しかしまだ「空」の響きだけは、実感していません。果たして「空」はどんな形で私の身体にインプットされるのでしょうか。航空機事故か、或は、天から恐ろしい物が降ってくるのでしょうか。いやもう、天災、人災、戦争を問わず、恐ろしいことはたくさんです。それより、これからはインターネットなどの通信手段により、楽しい美しい響きが、空を越えて世界中を包込んでいくようにしたいものです。
私は今、パソコン通信の仲間達と、文章、時には写真などの通信交流をしています。また、世界の音楽のすばらしい響きをいつも送ってくれる仲間もいます。これは、《お互いに幸せを願う想いが、通信交流を通じて空を越え鳴り響いているのだ》と、思っています。
これが、「空」の響きです。この響きがこれから益々広がって、人々と共に私の身体に、本当に根付いたとき、私の身体の「五大」の響きは、ここに「幸せの喜び」をもって締めくくられ完成するのです。
∧
<○> ─−‐- -
- - - - - -
∨ 宙 平Cosmic harmony