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日野原重明大先生への弔辞

 

 

 

2017年7月18日、ご自宅で同居するご次男の直明さん(69歳)らに見守られ、

大先生は眠るように105歳の生涯を終えられたという報道に、私は体中打ち震えるよう

な感動の衝撃を受けました。

 

私は85歳の全くの若輩で、大先生への弔辞など誠におこがましい限りでありますが、

日頃から「ピンピン生きてコロリと死ぬ」ことをただ一つの希望として生きてきた者とし

て、大先生になにか言葉を捧げたい衝動にかられました。

 

私は大先生の、医師として「生涯現役」を貫かれ、元気に長生きしたいという夢を自ら

体現せられ、「死とは生き方の最後の挑戦」「最後にああ生まれてよかったと思いたい」

などのお言葉、そして望ましい人の生き方、人生の終え方などのご提唱に、心から敬服致し

ておりました。私は密かに「大先生は何歳まで生きられるのか、お亡くなりになった年齢を

私のコロリと死ぬ目標年齢にする」と身の程もわきまえないことを決めておりました。

 

そして、感動の衝撃とともに、私の前に大先生の105歳の高い峯がそびえ立ちました。

私は仰ぎ見て目標年齢の高さに身震いをしました。そのとき、大先生の残されたお言葉が頭

に浮かびました。

 

「人間にとって最も大切なのは、命の長さだと思っている人は多い。しかし、私が出会った

人を振り返ってみて、その人の命が素晴らしい命だと思える人においては、ごく少数の例外

はあるにせよ、命の長さはあまり問題ではない」

 

そして、こんなお言葉も残されています。

「年をとること自体が未知の世界に一歩ずつ足を踏み入れていくこと。こんな楽しい冒険は

ない」

 

私は改めて、楽しい冒険として105歳の遠く輝いている峯に向かって一歩ずつ、進める限

り進んで行くことを心に決めました。勿論、大先生がおっしゃるようにその命の素晴らしいと

思える生き方を、命の長さより優先させるつもりです。そして、素晴らしいと思える生き方と

は、大先生のご生涯そのものを、より一層深く知り、その教えに少しでも近付く努力から生ま

れるものと、思っております。

 

あの1945年3月、東京大空襲の時、大先生は聖路加国際病院(当時大東亜中央病院と呼

ばれた)の33歳の内科医長をされていました。焼け残った病院に火傷を負った重傷者が次々

と運び込まれてきました。「ロビーにマットレスを敷いて、必死の治療に時間を忘れて当たった

が、薬も不足し新聞紙を燃やしてその灰を患部にかけるようなこともしたが、多くの人を亡くし

てしまった。まさに戦場の第一線がこの病院に現れているような感じを持った」と語っておられ

ますが、私も油脂焼夷弾の大量投下空襲を受けた体験をしています。この状況は肌身にしみてよ

くわかります。

 

そして、1970年3月。大先生が病院の内科部長として、福岡で行われる日本内科学会出席

のため搭乗された航空機があのハイジャックされた「よど号」でした。当時はハイジャックとい

う言葉も一般的でなかったため、大先生は手を挙げて、他の乗客に事態の説明をされ、また医師

として乗客の体調の管理もされました。福岡空港から韓国の金浦空港へと4日間拘束された間、

ハイジャック犯人側の提供した本『カラマーゾフの兄弟』を借りて読まれたとお聞きしています。

北朝鮮に住むハイジャック犯の一人であった若林容疑者は大先生のお亡くなりになったことを知

って「われわれの思い上がりを気付かせてくれた恩人。できれば会って、直接お詫びしたかった

が残念だ」と、新聞社の取材に対して語っているそうです。この事件では大先生は実に冷静で、

落ち着いておられましたが、実際は死を覚悟しておられたのですね。「この事件以後の命は新しく

与えられたものだと考え、人の命のために使うのだという人生観に変えるきっかけになった」と

語っておられました。

 

1992年、大先生は聖路加国際病院の院長に就任されました。そして新しいタワー病院棟が完

成しました。その豪華さは話題になりましたね。フロアも廊下も広く、礼拝堂はコンサートが開け

るほどでした。これでは採算が取れないという周囲の批判もありました。しかし大先生には、あの

東京大空襲の時、病院に入りきれないほど重傷者が運び込まれてきて、亡くなっていった忘れられ

ないご体験がありました。大先生は酸素の配管を病院中の壁に張り巡らされ、礼拝堂も緊急時には、

すぐ多くの人を収容できる病室になるように設計されました。そして24時間対応できる救命セン

ターを設けられました。

 

1995年3月20日、あのオーム真理教による地下鉄サリン事件が起こりました。あの時も号

外が出て、どうなることかと思ったのを私は覚えています。地下鉄日比谷線「小伝馬町駅」北千住

発中目黒行きの電車がホームに入ってきて、電車が止まった瞬間、乗客が次々とホームに倒れこみ

ました。駅員が駆けつけると、電車の床の紙包みから、透明な液体がしみ出ていました。聖路加国

際病院は小伝馬町駅から車で10分の距離にあります。患者が運び込まれてきました。駅には20

0人以上の人が倒れていました。大先生は「患者はすべて受け入れる」といわれ、館内に一斉放送

が流され、各科の医師も救命センターに緊急招集されました。続々と集まる重傷感者は救命センター

に、そして、大先生の指示によりまだ意識のある患者は礼拝堂に運び込まれました。配管に人工呼吸

器を取り付け、点滴台と毛布を運び込むと礼拝堂は広い病室に変わりました。神経ガスのサリンだけ

に、治療法を見つけるだけでも大変だったと思われます。貴重だが危険とも言われていた解毒剤「パ

ム」の使用が決定され、全国から薬が集められたそうですね。大先生の礼拝堂の病室転換の設計が本

当に生かされた事件でした。

 

2000年には、シニア時代の生きがいづくりと社会活動を促す団体「新老人の会」を結成され、

2001年にはエッセー『生き方上手』『続生き方上手』などを出版されました。その中のお言葉

「10年後、20年後の自分のモデルを探し求めてゆく欲求はあなたを衰えさせません」を励みと

して、私自身の105歳モデルを探し求め続けて、生き抜いて行きたいと思っています。しかし最

高のモデルは、どこまで近づけるかどうかは別にして、やはり大先生をおいて他にはありません。

 

このエッセーの中のお言葉に、このようなのもありました。

 

Don´t do! 「してはならない」

はもうやめにして、

Let´s do! 「さあやろう」

でいきましょう。

 

私は80歳を超えた頃から、年を取ると身体のために肉食は止めて、魚と野菜食に切り替えなけれ

ばいけないのではないかと思っていました。ところが100歳を超えられた大先生が、ご自分で大き

なビフテキを焼き上げて、食べておられるところをテレビで見て、「さあ食べよう」でいこう、と妻と

話しました。以後、抵抗なくビフテキを食べています。

 

そして、テレビで拝見する大先生のお顔の両頬がいつも少し赤いのはビフテキを食べてお元気でおら

れるからだと思っていました。実は私も、大先生と同じく近頃両頬が少し赤くなりました。これは私の

顔の皮膚の肌理や色が大先生とよく似ていて、健康のあかしだと勝手に思っています。

 

2017年7月29日、東京青山葬儀所で大先生のご葬儀が4000人の参列者を集め行われました。

賛美歌に続き大先生が作詞作曲されました『愛の歌』が映像とともに歌われました。私もここに『愛の

歌』を口ずさみ、大先生への弔辞の結びといたします。

 

我ら今ここに心を合わせ

よきわざの為に この時を過ごさん

愛の手を求める その声にこたえて

いとしみの心 人々におくらん

 

我ら今ここに力をあわせ

報いを望まで奉仕にぞ生きなん

捧げる喜び 心にぞあふるる

愛するあなたに 愛をばおくらん

愛をばおくらん

 

(平成29年7月30日)

 

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宙 平

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