クーサモの日の丸行進


From Chuhei
 
フィンランドのクーサモ・ルカでのオリエンテーリング
WMOC大会に参加してきました。
 
最初に行われたミッドナイト・サンレースの写真です。
リフトで山頂に上がり、スタートし、コントロールを見つけて
進みます。時刻は夜中の9時から10時頃です。
 
    
 
 
クーサモの町で7月9日WMOC開会式のパレードがありました。私は旗手になりました。
 
 
  

 
 

  

 

 

 フィンランドでの、世界マスターズオリエンテーリング選手権大会(WMOC)に

出場するために、ヘルシンキから北へ七五〇`のクーサモに向かった。しかしクーサ

モへの道はなかなか簡単ではなかった。

 

 七月六日、関西空港発フィンランド航空七八便が、一時間半遅れてヘルシンキに着

くと、乗り継ぐ予定で航空券を持っていたクーサモ行き三九七便はすでに出発してい

て、もうこの日はクーサモへ行く便はなかった。同じ仲間五人で空港内をウロウロし

てようやく乗り継ぎ窓口で翌日の便に切り替えることが出来たが、その日の宿泊等の

ことは到着階のバゲージクレイムの苦情相談窓口へ行けという。  

 

 ここがまた大変で、荷物が着かないとかの色々の苦情を言う各国の人たちで、ごっ

た返していた。やっと割り込んで「今日の宿泊はどうなるのか」と英語で聞くと、発

音のせいか最初の担当の女性は全く要領を得なかった。が、奥から主任らしい人が出

てきて問答の末、やっと行くべきホテルの名前とそのホテル専用のバスの発着するタ

ーミナルの番号を教えてくれた。

 

 その日は手荷物だけ持っての宿泊となったが、夕食と朝食は付いていた。翌日のク

ーサモ行きはなんとプロペラ機だった。一時間五十分もかかってクーサモに着くと、

心配していた通り、まだ関空からの荷物は出てこなかった。後の便が着いてその後で、

別にクーサモの空港事務所で保管されていることが解った。そして、やっと荷物を受

け取ると、もう田舎の小屋の様な空港はがらんとして、仲間以外は誰もいなくなって

いた。夏の服装ではここは寒い。遠いところへ来たという思いを全身で感じた。

 

 今回の大会のイベントセンターも、私達の泊まるホテルもそのクーサモからさらに

二十`北のルカと言う村にあった。ここは高さ四九三bのルカ山を中心とした北極圏

にも近い冬のスキーリゾート地でもあった。

 

 

 七月八日、そのルカ山で、ミッドナイトサンレースが行われた。これは白夜のため

真夜中でも明るい太陽の下で、オリエンテーリング競技をしようというものであった。

 

 競技は距離によって三つのクラスに分けられた。五・八`、四・一`、または二・

三`のクラスを予め選択する。年令・男女別は関係ない。午後八時から午後一一時の

間に山頂の西の地点からスタートする。通過すべきコントロールの数は距離により二

〇から七まである。参加者は全員エレクトリックカードを持って、スタートからゴー

ルまでの決められたコントロールにはめ込むと通過の証明と時間が、自動的に記録さ

れる。そして、ゴールは山麓北東の広場である。

 

 WMOC大会は三五カ国、四四五〇人、内日本人三三名が参加登録しているが、こ

のミッドナイトサンレースには、各国の一一八六人が参加した。私は二・三`を選択

したが、このクラスはさらに便宜上、A一一七名、B一一八名に分けられた。私はB

のクラスであった。

 

 真夜中に輝く太陽を期待したが、この日は曇りで風が強く、おまけに真冬のように

寒かった。午後八時になると、山頂のスタート場所に向かうスキー用のリフトには、

長い列が出来ていた。私も薄いユニホームの寒さに震えながら、リフトに乗った。山

頂付近は寒風が吹きすさび、歯がガチガチと鳴った。そして、スタート地点の機器に

持っているカードをはめ込んで離すと、私のスタート時間が自動的に記録された。

 

 さあ! 急いで走らねばならない。下を見ると石ころだらけの斜面のあちこちに草

むらがある。そこを右に左にオリエンテーリングの参加者が走り回っている。私がス

タートするとき受け取った地図を見ると、コントロール数は七、これを確実に、チェ

ックしながら進まねばならない。@のコントロールの位置説明は「尾根」と記号で表

示されている。刈り取られた斜面を下り右の茂みに突っ込むと、小さな細い尾根に見

つけた。五分一八秒かかった。これは一一八人中の六五位に当たる。(順位は、後で

ラップ時間を見てわかる)

 

 次のAは「岩」の記号。方向を定めて一目散に駆け下ったつもりだが、四分一〇秒、

八二位。さらに次のBは「コブ」。山を巻いて進んで五分三三秒、六五位。さて次の

Cの「岩」を目指して、コンパスで方向を定めたつもりだが、斜面が急であったため

か、右へそれたようだった。草むらを抜けると、とんでもない北向きの開けた斜面に

出た。地図の開けた斜面の形から現在地を推定して、方角の修正をして進んだ。突然、

年配の外国人がここは何処だと聞いてきた。推定した現在地を地図上で指差す。この

Cには、九分四秒もかかった。順位もここだけでは一〇七位に落ちた。

 

 コントロールは後三つだ。Dは尾根を下ったところにある「岩」。若い連中は飛ぶ

ように尾根を駆け下って、私をどんどん追い抜いてゆく。《こんなところで、怪我を

してたまるか》と岩だらけの尾根を慎重に下る私はマイベースで行く。ここは六分二

秒、七九位。次のEは山麓の反対斜面にある「蟻塚」ですぐに見つかった。二分一秒、

三六位。そしてFはふもとの「広場の柵」、二分一三秒、八二位。そこからゴールへ

三〇秒、五三位。結局、私はトータルで三四分五一秒、一一八人中の七〇位だった。

 

 とにかく、最初の戦いが怪我無く無事終わり、私はほっとした。ゴールしてみると、

凍えていた身体は、温かくなり全身に汗をかいていた。そして、太陽こそ出なかった

が、明るい白夜はいつまでも続いていた。

 

 

 七月九日、午前中はモデルイベントとしてイベントセンターからバスが出て、練習会

に参加した。そして午後五時からクーサモの町で開かれるWMOCの開会式に仲間と共

に参加した。開会式のイベントはクーサモの陸上競技場で開かれるが、その前にクーサ

モの町を各国の参加者がパレードするのである。

 

 パレードの出発は町の西にあるスポーツホールの駐車場だった。行ってみると既に準

備が整い、参加各国の国名を書いたプラカードを持った現地の少女達が整列していた。

同時に主催者側が用意した大きな各国旗も長い旗竿と共に少女達が持っていた。ジャパ

ンと書かれたプラカードのところに、日本からの参加者が集まった。日本のプラカード

を持つ少女は、理知的な顔つきで、賢そうに見えた。

 

 そして、なんと私に向かってフィンランド語で「日本の旗を持ってください」といっ

て旗を渡した。私がフィンランド語を知っているわけではないが、意向はわかった。

「OK!」と言って旗を受け取った。私は少女に旗手を任命されたのである。少女の名

前はサンナさん、十六歳の高校生であった。

 

 やがて、先頭の賑やかな楽隊に続き、各国のプラカード・国旗・参加者のパレードが

A・B・Cの国名順に進んだ。日本はイタリヤの後に続いた。クーサモの町の唯一の

メインストリートを通り町の広場から競技場へと向かう一・五`の行進である。私は

サンナさんのプラカードに続き、旗手として日の丸を高く掲げて進んだ。その後に日

本の参加者が三〇人ほど続いた。「ヤパニー!」と言う声が大きく聞こえてきた。

「ジャパン!」と英語で叫ぶ人もいた。日頃は人通りの少ないフィンランドの北の田

舎町も、今日は人が一杯に溢れて、町ぐるみで声援を送ってくれていた。私も次第に

気持ちが高揚してきて、「キートス!」と大きな声で返礼していた。旗竿は長く、日

の丸の旗も大きく重かったが、全然苦にならなかった。

 

《参加国三五カ国のうち、アジアからは日本だけが、出場している。このクーサモの

町でこうして正式に、日の丸がはためくのは歴史上はじめてだろう。アジアは日本を

含めこの競技では後進国だ。競技人口がヨーロッパに比べ全く少ない。競技のレベル

の差も格段の違いがある。今まで優勝者はおろか、入賞者すらない。だからこそ、こ

うして参加して少しでもレベルを上げる努力が必要だ》

 

《日本は戦争に負けたため、戦後しばらくは日の丸を掲げて行進することも、また、

一九四八年のロンドンオリンピックに参加することも許されなかった。戦後はじめて

日の丸で行進出来たのはこの国、フィンランドだった。それは、一九五二年のヘルシ

ンキオリンピック。この時、レスリングフリーバンタム級で石井庄八が金メタルを取

った。そして、日本は水泳や体操で世界から注目された。あの時の日の丸には感激し

たものだ》

 

《そうだ! 戦争中の歌に、日の丸行進曲というのがあった。確かこうだ。

  

 母の背中にちさい手で

振ったあの日の日の丸の

遠いほのかな思い出が

胸に燃え立つ愛国の

血潮の中にまだ残る

 

 こんな古い歌詞も曲も、日の丸を持つと独りでに、すらすら出てくるとは……。私

の年代に小学校・中学校を通して受けた軍国日本の日の丸教育が、正否の論理を抜き

にして私の古い記憶の中に叩き込まれているのだ。

  

 白地に赤く日の丸染めて

ああ美しや日本の旗は♪ 

 

の、歌もそうだ !》

 

日の丸を掲げて進むと、私の頭の中にはこのような、色々な思いが去来して、涙ぐむ程

に興奮していた。広場から左に廻り、やがて競技場に入ると、日の丸の旗は、日本紹介の

放送と共に、一層大きな拍手と人々の歓声に迎えられた。そして、大会のスタッフの人が、

私から日の丸を、大きく両手を上げて受け取り、競技場中央に飾られている各国の旗の列

の中に加えた。

 

 いよいよ明日(七月一〇日)、明後日(七月一一日)とWMOC各クラスの予選が二回

にわたり開始され、一日置いて七月一三日には決勝競技が行われる。

 

 WMOCはその主旨から、クラス編成はあるが、決勝にも参加者全員が競技参加するこ

とが出来るのである。 

 

 

 
 

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