鵯越(ひよどりごえ) |
一の谷の合戦で、源義経が「鹿の通路は馬の馬場ぞ、おのおの落
とせ落とせ」と真っ先に駆け下った鵯越の坂落としを、私も下って
みたいと思った。最初は須磨の鉄拐山あたりから、下の一の谷へ真
っ直ぐに降りれば良いと簡単に考えていた。
しかし、どこに平家の陣屋があったのか?
それに対して義経が実際に下ったルートはどの坂か? などを調
べてみると、坂落しの場所にも諸説があり、決めるのは大変なこと
が分って来た。「平家物語」も諸本があり、それぞれ強調する坂落
としの場所が違う。江戸時代の地誌は鉄拐山説が多い。須磨寺住職
はじめ須磨の歴史を語る人の多くは鉄拐山説。司馬遼太郎の『義経』
(一九六八年出版)も鉄拐山付近からの坂落しとなっている。山陽
電車の歴史ハイキングのルートも、須磨が坂落しの本場らしく思っ
てしまう。
これに対し鵯越説は、神戸市北区の藍那から兵庫区の夢野付近に
抜ける古い山道の鵯越を義経の進軍路と考え、その延長の先に坂落
しがあったとするものである。琵琶法師の語る平家物語の教本系は、
鵯越での坂落としを強調している。吉川英冶の『新平家物語』は、
義経がこの鵯越を一瀉千里に駆け下り、一陣を破り、さらに二陣に 激突したことになっている。もっとも別働隊の先陣七十騎は敵の目
をくらますために、多井畑をへて鉄拐山から須磨にある平家西の陣
屋へ駆け下っている。
神戸電鉄の歴史ハイキングのルートは粟生線の藍那駅から有馬線
の鵯越駅に至り、その延長での坂落しを思わせる。鵯越説で注目さ
れるのは、兵庫歴史研究会(梅村伸雄会長)の一の谷湊川下流説で
ある。源平合戦当時、須磨に一の谷があったという記録は皆無であ
り、今の兵庫駅と会下山の麓の間には湖のある「浪速一の谷」があ
った。ここに湊川が流れ込み、平家が本陣を構えていたと説明して
いる。したがって鵯越道の最南端、いまのひよどり展望公園のピー
ク(一九〇・八)付近から、「浪速一の谷」目指し義経の坂落しが
あったとしている。この真下に、山の手木戸があり、その先に本陣
や、大輪田の泊があった。
一の谷の合戦というと、一般的に須磨の浦で戦いがあったように、
思われがちである。が、実際は、三宮の生田の森、兵庫区の夢野・
会下山・大輪田、長田区の蓮池・駒が林、そして須磨周辺に及ぶ広
範囲なものであった。私は今の神戸の中心地全域に及ぶ、源平大会
戦であったといってもよいと思う。
平家は総数十万騎(騎数には諸説あり)を生田の東木戸、夢野の
山の手木戸、奥の明泉寺、須磨の西木戸、そして安徳天皇御座船の
停泊する大輪田の泊に近く本陣、さらに遠く丹波の三草山にまで陣
を配していた。
これに対し、西国街道を下り東木戸から攻める源氏範頼軍は五万
六千騎。丹波から迂回して三草山を陥し、播磨三木から南下して西
木戸、山の手木戸を攻める義経軍は一万余騎。
義経は兵を分け七千騎を明石から西の木戸攻撃に向かわせ、自ら
は残りの兵と共に鵯越を進み、途中また兵を分け陽動作戦として、
明泉寺や西木戸に向かわせている。そして子飼いの騎兵七十騎で山
の手木戸の真裏、鵯越南端から坂落しをかけたと見るのが、この平
家の陣の配置から考え、正しいと私は思った。
そこで、私はこの鵯越南端部分に行って見る事にした。五月二〇
日、神戸電鉄鵯越駅から西神戸道路の北側に沿った道を東に進んだ。
道はやがて道路を横切り狭い山路に入る。この路こそが、鵯越南端
への路である。約一`山を巻いて進むとひよどり展望公園手前の鞍
部に達する。この鞍部から坂落しがあったというのが、兵庫歴史研
究会の説明である。
展望公園にはベンチ二つ、尾根の先に古い東屋があるだけである。
しかしこのピークからは、神戸中心部のすべてが見渡せる。正面に
は大輪田の泊。海に軍船の群れ、目の先の会下山の陣屋・真下に山
の手木戸。義経が、かってここから眺め、そして坂落し攻撃に、は
やった気持が、私に伝わってきた。
「突撃!」私は叫んで、東屋のある先端から、西南の急な山坂道を
駈けるように降っていた。
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宙 平 cosmicθharmony ☆★☆★☆★☆★ |