From Chuhei
火筒の響き追い迫る

スマホのWI‐FI電波でユーチューブのフォレスタの歌を聴いていたら、合唱が『婦人従軍歌』となった。

私はこの歌を聴くと、西宮市今津国民学校の保健室におられた看護の女性の先生を 思い出すのである。先の大戦中、国民学校では毎朝全校生徒を校庭に集めて、校長 先生の訓話のあと東を向いて、皇居遥拝をするのが常であった。昭和19年の初め、 私が6年生の頃と思うが、この女性の看護の先生に戦時招集状が届き、戦地へ行 かれるにあたっての挨拶がこの朝の集会であった。朝礼台に立たれた先生は濃紺の 日本赤十字救護看護婦1種の制服、正帽で、日頃と違って、引き締まった凛とした 姿に見えた。

元気よく挨拶される先生の話を聞きながら、私は足の擦り傷にヨードチンキを塗って もらったときに、飛び上がるほど痛かったことを思い出していた。昔の国民学校生 は今と違って、年中よく怪我をして保健室に行っていた。その時、いつもやさしい 声をかけてくれる先生だった。また、友達が腕のけがをしたときは、赤チンキで腕 を真っ赤にぬられながら、友達は赤チン先生と呼んで慕っていた。行く先の戦地は どこか、いわれなかったが、女の先生でも戦地へ行くのだ、すごいことだなぁ……。 と、その時思っていた。

そしてその日の放課後、友達と二人でこの『婦人従軍歌』を歌ったことを覚えている。 当時この歌は、軍歌と一緒に広く歌われていたので、歌詞は子供でも自然に覚えていた。

火筒(ほづつ)の響き遠ざかる

跡には虫も声たてず
吹きたつ風はなまぐさく
くれない染めし草の色

わきて凄きは敵味方
帽子飛び去り袖ちぎれ
斃れし人の顔色は
野辺の草葉にさもにたり

やがて十字の旗を立て
天幕(テント)をさして荷(にな)いゆく
天幕に待つは日の本の
仁と愛とに富む婦人

真白に細き手をのべて>
流るる血しお洗い去り
まくや繃帯白妙の
衣の袖はあけにそみ

味方の兵の上のみか
言(こと)も通わぬあだ迄も
いとねんごろに看護する
心の色は赤十字

あないさましや文明の
母という名を負い持ちて
いとねんごろに看護する
心の色は赤十字

明治27年。作詞 加藤義清

作曲 奥好義

この歌の作詞の加藤義清(1864―1921)は日清戦争のとき、軍楽隊の旗手を 務めたこともある人で、出征兵士を見送りに新橋駅へ行ったときに、赤十字の看護婦 たちの凛々しく戦地に出発して行く姿を見て感動して、この詞を書いたとされている。

私はその後も、この歌の最初の「火筒の響き遠ざかる」という言葉を聞いたり、 歌ったりするたびに、激しい戦闘の後におとずれる、不気味な静かさ、そして、 遠ざかる響きに感じたホッとした安堵の気持ちと、これから看護が始まる強い緊張の 心の高鳴り、をいつも感じ取っていた。

スマホでこの歌を聴いた後、私はネットに載っている時事通信社の「時事ドットコム」 の『戦地にささげた青春 元日赤従軍看護婦の証言』に目を止めた。これは平成25年 8月に、元日赤従軍看護婦の方々に、時事通信社の宮坂一平解説委員 がその体験を聞 き取った記録であった。この平成25年の時点でも、かなり高齢になっておられた方々 ばかりだから、今ではもはやこのような聞き取りをすることは出来ない貴重な記録だと 思った。

私はその凄絶な戦地勤務の体験記録を読んで、胸を痛めながら赤チン先生の、戦地に 向かわれた時の濃紺の制服姿を思い浮かべた。しかし今はもう、先生のその後の消息を、 知る方法もなく、私自身も覚えていた先生の本当の名前も思い出せなくなっていた。 それでも私は証言された方々の体験に赤チン先生の戦地での姿を想像してだぶらせていた。

最初に証言されていたのは、長野県出身、大正13年生まれの肥後喜久恵さんだった。 日赤の看護学校を卒業後、裁縫と家事の教師をしていたが、昭和19年招集により万里 の長城の山海関の近くの興城第一陸軍病院に勤務、終戦となり、八路軍(中国共産党軍) の捕虜となり、八路軍の看護・医療に従事、錦州戦役など、国民党軍の猛攻にさらされ、 前線を戦闘部隊と同じ速度で荷物を担ぎ足で歩きながら、傷口がウジだらけの患者を診 て移動を続けた。その後、医者の仕事もして、日本に帰りたくても帰られなかった。 朝鮮戦争にも中国義勇軍、に従い鴨緑江流域の臨港まで行った。日本に帰られたのは昭 和33年7月、応召から14年が過ぎていて、34歳になっていた。

次に証言された長谷部鷹子さんは大正10年生まれ、岐阜県の出身である。日赤の看護 学校卒業後、すぐに岐阜陸軍病院、その後、北京の西にあった臨汾陸軍病院に勤務。帰 国して役場の保健婦の勉強をしていたところ、昭和18年10月、インパール作戦救護 要員として召集、シンガポールに上陸し列車に乗り継ぎ、空襲下のラングーン(ヤンゴン) に着き、さらにマンダレー北部のメイミョウの兵站病院で勤務した。そこではアメーバ 赤痢と発疹チフスの患者がほとんどで、それに腸チフスとマラリアが重なり1日多いとき は9人が亡くなっていった。戦況が悪化して撤退が始まり敵中のマンダレーを抜けて たどり着いたカロも危なくなり、東へタイ国境を目指して歩いた。収容していた傷病兵 たちも途中で座り込んで動けなくなるものが続出したがどうしょうもなかった。2000 ㍍級の山を越え幾度も川を渡った。集落で地元住民と物々交換、時計も万年筆も米に変えた。 サルウイン川を62回も渡り、靴も破れ足もぶよぶよ、で、雨季の2か月の行軍をした。 その後チェンマイからバンコクを経て、サイゴンの陸軍病院に勤務後、昭和21年5月 18日帰国した。

そして、萩森敏子さんは、太平洋戦争の前は中国石家荘の第82陸軍兵站病院に勤務後 帰国していたが、昭和17年6月頃召集を受け、フィリピンへ、最初はマッキンレー兵舎跡 病院でバターン半島やコレヒドール島の激戦の戦傷者の手足の切断などに立ち会い看護する。 マニラ近くの第12陸軍病院に移ったが、ここでは南方方面の戦傷者が送られてくるように なった。ガダルカナル方面からのひどいままの姿を見て、その負け戦を実感した。状況が悪 くなり、ルソン島北部へ移動した。そこでも大きな空襲があり、大勢の負傷者が出た。その後、 山の中に入り、敵機の爆撃や機銃掃射に追い迫られて、行く当てもなく歩き回った。食料は 畑の作物を盗んでくるのだが、畑に出ると敵の機銃掃射で跳ね飛ばされて亡くなった人もいた。 水はお腹の周りに水筒16個も巻き付けて、谷底まで汲みに行った。山道で山下奉文大将 (マレー・シンガポール攻撃時の総司令官、この時はフィリピン等方面軍司令官。戦後現 地で戦犯として処刑)に会った。「君たちね、早く無事にお帰りなさいよ」と声をかけられた。 そして移動中、アシン川を渡るとき、一本橋から落ちて足を怪我した。日本に帰ってきたのは、 昭和20年12月30日だった。体重は60㌔が27㌔になって、やっと歩けるか、どうかの 状態だった。そして、看護婦として後悔が残るのは、ベッドから動けない患者は置き捨てたまま 移動したことに対し、米軍機のビラがまかれ「あなたたちの捨てて行った患者さんを拾って 看護し、元気になりました」と書かれていたことだ。戦争はこりごり、あんなものはするもの ではない、と語った。

先の大戦で戦地へ送られた従軍看護婦は3万1450人といわれ、1085人がその配属地で 戦死した、とされている。私は『婦人従軍歌』を歌った時、想い描いていた戦場での看護の風景が、 先の大戦では相当に変わっていることに、3人の方の証言によって、改めて気が付いた。火筒の 響きは、遠ざかるのではなく、追い迫ってくる状況だった。そして常に空からの爆撃や機銃掃射に よる攻撃にさらされていたから、赤十字の旗を立てて、救護班が傷病者の収容に向かうことなどは、 もはやできなかった。常に命の危険を感じる攻撃を受け、病床数を超える大勢の患者が押し寄せ、 物資が極度に不足する中での看護だった。証言された肥後喜久恵さんは、「いつどこでも死ねる」 と青酸カリを持って行動したと語っておられるが、実際、玉砕の戦場では自殺を遂げた方たちも 大勢おられたのである。

このような証言を通じて感じられたのは、起こった事実についての知識だけでなく、証言者自身の 悲しみ、苦しみ怒り、そのうえでの平和への強い願いであった。その願いを込めて、私は、赤チン 先生のように先の大戦下、戦時招集状により戦場に赴いた従軍看護婦の方たちの証言や語りの内容を、 絶やすことなく未来に語りついでいかなくてはならない、と強く思った。

私はあの『婦人従軍歌』の1番を、次の歌詞に作り替えて歌ってみた。

火筒の響き追い迫る
傷つきた人の数知れず
動けぬ人は撤退に
覚悟決めたる死の用意

(令和元年5月27日)

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宙 平
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