From Chuhei
小説 『火垂るの墓』誕生の地記念碑

今年6月7日、西宮の満池谷北東の西宮震災記念公園に、小説『火垂るの墓』誕生の地 記念碑が完成して除幕式が、おこなわれた。西宮では初めての文学碑だと言われている。 この6月7日という日は、昭和20年6月5日の神戸大空襲の後、当時中学3年生だった この小説の作者野坂昭如が義妹と一緒に西宮の満池谷の家に来た日で、それに合わせた とされている。

私がこの記念碑の建立の計画を知ったのは、2年前のことである。平成30年の8月6日 に西宮空襲を語る会が開かれて、私が語り部の一人としての役割を終えて浜脇小学校の 会場をでようとしたとき、聴衆だった一人の人に、声をかけられた。その人は、「野坂 昭如の小説で有名な、『火垂るの墓』の碑を西宮でつくろうとしている者です」と言った。 私が場所を聞くと、満地谷の周辺だと答えた。「それは素晴らしいことですね。ぜひ完成 させてください」と言ってそのときは別れた。その後、新聞にこの記念碑の建立計画の記事 と写真がでた。それによって私に声をかけた人は、西宮に住む元大阪の高校教諭、二宮一郎 さんと分かった。二宮さんは神戸史学会の「歴史と神戸」329号に『火垂るの墓』について 執筆するなど、この作品の研究者でもあるが、地元の西宮満池谷町に住む、土屋純男さんと 一緒に、当時中学生の野坂昭如が昭和20年6月7日から7月31日の間、義妹と寄寓した 親類宅の場所はどうなっているか、義妹と避難し、一時生活したという防空壕のあった 本当の場所はどこか、その他、当時の野坂を知る住民からの聞き取りなど詳細な調査 を行っていた。。

平成27年に野坂が亡くなった以後も、地元の多くの人たちから「満地谷に『火垂るの墓』 の記念碑を」という声があがっていたことを受けて、土屋純男さんを委員長として地元有志 も参加して記念碑実行委員会を設立した。そして、記念碑の設置費用の寄付を募ることにした。 募金の目標額は700万円として、1口千円からはじめることにした。そして、小説の版権 を持つ出版社に協力依頼をしたり、また近所6000戸に募金協力のポスティングを行ったりと、 碑を建てるため地道な活動を続けた。その結果、のべ1500人から800万円以上の募金が 集まって、行政とも折衝して西宮震災記念公園の震災記念碑の東裏に、丹波鉄平石の敷き 詰められた上にさくら御影石の『火垂るの墓』誕生の地記念碑を完成させることができた。。

土屋純男さんは、この記念碑の設置には、大変な反響があり、予想以上に募金額が集まった ことに、この作品の持つ、大きな強い力を実感したという。そして「4歳の子どもが焼夷弾に 当たって亡くなった、二度と戦争してはならないといって募金してくださる人もいた」と、 語っている。。

私の手元にある小説『火垂るの墓』の文庫版は、昭和47年発行の改版で平成4年の刷版と なっているから、私がこの小説を最初に読んだのは相当昔のことである。しかしその後に 見た高畑勲監督のアニメ映画作品や他、ドラマの画像の印象も強烈に私の頭に残っている。 特にアニメ映画の14歳の中学生清太と4歳の妹節子が一緒に逃れた、神戸の大空襲で家 も母親も亡くし、二人で寄寓した西宮の親類の未亡人の家にも居づらくなり、満池谷ニテコ 池畔の防空壕に住んで、兄が衰えてゆくあどけない妹をいたわりながら生きる姿は、夜、 回りに飛ぶ蛍の光と共に、涙を誘った。またアニメに描かれたニテコ池の風景や兄妹が夙川 の土手を歩いて訪れた香櫨園浜の白砂の浜辺の情景は今も変わらず、作品を偲んで訪れる 人も多い。。

この作品は作者野坂昭如の原体験を色濃く残している。養子となって神戸で育った野坂は 6月5日の神戸大空襲で、家族と離れ一人逃げ切ることができたが、養父を亡くし、養母は 深い火傷を受け、西宮回生病院に入院、生き残った1歳4か月の義妹と一緒に西宮満池谷の 遠縁の未亡人宅へ寄寓した。その時野坂は作品の主人公清太と同じ、14歳の中学3年生で あった。私も当時西宮空襲で孤児になりかけたこともある中学2年生であったので、この 作品への思い入れは深い。。

実際このとき、中学生の野坂は幼い義妹の世話に、てこずったようである。よく夜泣きする 妹を怒鳴りつけ叩き気絶をさせたり、妹の食糧まで食べてしまったことがあったという。野坂 は後にこのことを次のように別の文章で書いている。「一年四ヶ月の妹の、母となり父のかわり つとめることは、ぼくにはできず、それはたしかに、蚊帳の中に蛍をはなち、他に何も 心まぎらわせるもののない妹に、せめてもの思いやりだったし、泣けば、深夜におぶって表 を歩き、夜風に当て、汗疹と、虱で妹の肌はまだらに色どられ、海で水浴させたこともある」 そして「ぼくはせめて、小説『火垂るの墓』にでてくる兄ほどに、妹をかわいがってやれば よかったと、今になって、その無残な骨と皮の死にざまを、くやむ気持が強く、小説中の清太 に、その想いを託したのだ。ぼくはあんなにやさしくはなかった」小説では4歳の妹節子は防 空壕で衰えて死んでしまう。池を見下す丘に清太は穴を掘り、大豆殻を敷き枯木をならべ遺体 を燃やす。そして、9月に清太は神戸三宮駅構内で野垂れ死にするのである。。

実際、野坂は防空壕に警報がでたとき、義妹を負って避難していたことは事実であろう。 また息抜きの場所として利用したことはあるようだが、防空壕に住み着いたということはなく、 7月31日には、義妹と一緒に福井県の養母の友人宅に疎開している。しかし食糧難は変わらず、 義妹は8月22日に衰弱死している。野坂は福井県で義妹の遺体を燃やしたのであった。そして 22年のときが流れ、野坂はあの時、1年6か月を生きた義妹が亡くなる前に、やさしく してやらなかった悔悛と鎮魂の意味を込めて小説『火垂るの墓』を創作したのである。。

アニメ作品をつくった高畑監督は、野坂はアニメ制作のとき、一緒にスタッフらと現地を訪問 していたが、防空壕のあった詳しい場所については、案内したくなかった様子だった。そこで、 スタッフと相談してニテコ池の東の池畔に防空壕があったように描いたといっている。実際は、 二宮さんらが調べて分かった野坂と義妹が使った防空壕は、池畔ではなく池から東南に一つ道 を隔てた先の、高射砲部隊が掘った土壁の壕であったとされている。もう一つ使った防空壕は 池の西側の道を南に下ったところにある金属加工会社の社長宅にあったコンクリート造りの壕 であった。当時社長一家は疎開して空き家だった。今はどちらも残っていない。寄寓した未亡 人宅は池の南、広い谷の中の住宅地にあり、谷の西側にある石段の下の家であったが、今は建 物も人も変わってしまっている。。

今年6月29日、梅雨の晴れ間の一日となったので、私は毎日の散歩の足を満池谷に向けて、 新しい記念碑を見に行くことにした。9時35分、自宅をでてすぐ横の建石筋を北へ進んだ。 建石筋は夙川の一筋東を並行して甲山に向かって一直線に伸びる広い通りであるが、常に甲山 を正面に見て進む。9時46分JRさくら夙川駅の横を通過、9時51分阪急電車のガード下 を通過、9時59分、建石筋から右へ曲がり坂を登る。10時3分ニテコ池の南に着く。 そこから、防空壕があったという場所を確認して、ニテコ池の東を通り10時14分、西宮 震災記念公園に着いた。。

この公園には昭和30年に建てられた戦没者の慰霊塔があって、広場の東には阪神淡路大震災 の西宮の犠牲者追悼の碑があり、1000人を超える亡くなった人の名前が刻まれている。圧死 した私の友人(関西学院フェンシング部の同僚)中川雅夫君の名前もある。私はこれらの塔や碑 ができる以前、戦時中からこの公園を知っている。昭和19年甲陽中学に入学したときの友人 田村君の家がこの公園の奥の石段を登った上にあり、苦楽園口の駅からよく歩いてきたものである。 田村君はその後、戦時中の疎開をして学校を変わったので、その後の消息は分からない。私は ニテコ池もこの公園の付近の風景も当時とはあまり変わっていないので、懐かしい思いのまま 震災碑の前に立って一礼した。。

震災碑に向かって右側に戦没者慰霊塔への石段があり、それを少し上がるとその左奥に新しい、 小説『火垂るの墓』誕生の地記念碑があった。碑の高さは台座から2・2㍍、台座の本を重ねた デザインは、文学碑であることを物語っていた。右の石板には小説の一文と解説、そして主人公 清太と妹が描かれた陶板の挿絵があった。左には作者、野坂昭如の略歴と顔写真があり、 周りは紫陽花の花が植えられていた。左側には「アンネのバラ」もあり、いろどりを添えていた。 『アンネの日記』で有名なアンネフランクの父から「アンネ形見のバラ」として送られたバラの花 に囲まれた教会がこの近くの甲陽園にある。そこから提供されたバラであろう。碑の裏面には、 戦争の悲惨さを語り継ぎ、現在と未来の子ども達への恒久平和を祈念します。との実行委員会 による言葉が記されていた。

私は昔中学一年のとき、友人宅へ通った懐かしい公園の奥の右側にある古い石段を上がり、 上から見下ろす場所からも記念碑の写真を撮った。私はそこから公園全体を眺めながら、新しい 記念碑が加わって、一層ここは、人々が過去の出来事に思いを巡らせて、そこから未来に思いを 馳せることもできる素晴らしい場所になってきていることを実感した。

帰り、私はニテコ池の南東から坂を下り、作品の未亡人の家があったとされる場所から、 清太と妹が水浴のため夙川を下り香櫨園の浜まで歩いた道をたどることにした。作品では

「小川に沿って浜に向かうと、一直線に走るアスファルト道路の、ところどころに馬力が とまっていて疎開荷物を運び出している」

と書かれている。私は今でもこの小川が流れているのを確かめた。

「右へ曲がると夙川の堤防に出て、その途中に『パボニー』という喫茶店、サッカリンで味を 付けた寒天を売っていたから買い喰いし」

この喫茶店は昔、地元文化人がよく利用するなどで有名であったが、阪神淡路大震災以後店は なくなり空き地となっている。私はその空き地を確かめて、夙川にでた。

「夙川の堤防はすべて菜園になっていて南瓜や胡瓜の花が咲き国道まで人影はほとんどなく」

作品の清太は4歳の妹とこの堤防を歩いたが、実際、野坂と一緒だった義妹は1歳4か月だった。 歩き通すのは無理だ、背中におぶっていたに違いない。私は阪神電車の駅の高架の下まで 来たとき、当時堤防上にあった香櫨園駅東側の線路踏切を、義妹を背中におぶったまま渡る 中学3年生の野坂の姿が思い浮かんだ。そのときは、おそらく昭和20年の6月中旬で あったろう。そしてこの同じ線路の阪神電車香櫨園駅から西、2駅先の芦屋、魚崎間で、 学徒動員中の中学2年生の私が、神戸空襲後の爆弾の落ちた路線整備の手伝いに汗を 流して働いていたときと重なるのではないか、とふと思った。

ここから香櫨園の浜辺には10分足らずで行ける。私の自宅には3分半で帰り着く。

(令和2年7月8日)

********
宙 平
********