From Chuhei
ふるさと地蔵盆オリエンテーリング

地蔵盆は地蔵菩薩の縁日で、通常では8月23日と24日に行われる。そしてこれは、 寺院に祀られている菩薩ではなく、路傍や街角のお地蔵さんを対象とした庶民の街の ささやかなお祭りなのである。この時になると、日頃気の付かなかった場所に提灯が 飾られ、街のお地蔵さんたちが、その存在を知らせてくれる。町内の人々は地蔵さん を洗い清め、新しい前垂れをかけ、飾り付けてお供え物をし、提灯の下に茣蓙を 敷いて、お菓子を配ったりして子供たちを集める。

私は今まで、地蔵盆の飾りを見かけるようになると、入道雲の下まばゆく照り輝いて いた夏の日々が、あの暑さとともに終わりに近づいて来たのを肌に感じるのである。 そしてそれぞれ地蔵さんを祀られている風景のなかに、亡くなった昔の友人のこと など思い出して、そこはかとなく寂しさに身が包まれる時でもあった。

ところが今年令和2年、波となって襲来した新型コロナウイルスは、おとろえる気配 もなく地蔵盆の時期を迎えることとなった。狭い場所に子供たちを集める路地などの 祭りはおそらく、今年は中止が多いだろう。私はそれを確かめるために、地蔵盆の日に 散歩しながら地蔵さんを回って見ることにした。そして今回の回る対象は、私が 生まれた昭和6年11月(今津巽町)から、西宮の焼夷弾空襲で焼け出された昭和 20年8月(今津社前町)まで住んだ、西宮の今津の町の地蔵さんたちとして、今 住んでいる場所(川東町)から歩いていくことにした。

西宮教育員会が平成25年発行した『西宮の地蔵』という本から今津町の地蔵の場所 13か所を市街の地図に書き出し、それに家から今津町までの間に通過する地蔵の場所 7か所を加え、私だけのためのオリエンテーリングの地図を作った。そして回る順番に ① から⑳まで番号を付けた。ゴールまで20か所の地蔵を辿り回ることになる。 令和2年8月24日、暑い日、9時33分出発、家の前から真東に直進、5分で①の 地蔵「荒戎町?」に到着した。小さな祠には今年は提灯が一つ飾られていた。中に高さ 20㌢ばかりの3体の像がある。西宮市歴史調査団の調査の記述によると、お祀りされて いる前田さんが昭和24年家を建てるために土地を購入して、堀起こしたら、戦災で亡 くなった人が埋まっていた。そこで、その人を供養し弔う意味で、祖母がこの所に地蔵 を祀ったとある。そう言えば、これから回る一帯すべても昭和20年8月5日深夜から 6日の朝にかけての西宮空襲により焼け野原となっていた所である。その当時なら、 焼け野原の弔いオリエンテーリングになったであろう。

浜脇中学の正門を通り、国道43号沿いに②の「浜脇町1」舟形光背の地蔵、新しい 花のお供えがあった。お供えがあると供養する人の気持ちを感じ、うれしい気がする。 南東に酒蔵通りまで進み③の「石在町1」交通安全地蔵尊を見つけた。昭和50年9月 吉日建之とあり花が飾られていた。そこから北上して④の「石在町2」の舟形光背の 地蔵に達する。調査記述によると宝暦の銘が彫られていて、相当古いとされている。 テントが張られ大きな提灯が飾られていた。すぐ近くに⑤の「用海町2」丸彫り座像の 地蔵を確認。提灯が飾られ、ローソク線香が置かれて、地蔵盆らしい雰囲気がありホッ トする。北東に進み用海小学校の南東角⑥の「用海町1」小墓円満地蔵尊まで来た。 ここは立派な立像である。台石の右面に「知恩院開元」と彫られている。元々京都に 建てられていたが、良くないことが続いたとして、荒縄を十文字にかけられ路端に転 がされていた。それを西宮の人が気の毒に思い、ゆずり受けて運んできた、という逸話 がある。世話をされているらしい人がいて、写真を撮っていると「何かお調べですか」 と声をかけてきた。「今日は地蔵の日でお参りをしています」「暑いなか、ご苦労様 です」人間大の立像の前の賽銭箱に10円玉を入れた。そこから少し北の⑦「用海町3」 はお堂が閉まっていた。開けてみるとお菓子が供えてあった。時間は10時30分 になっていた。

ここから43号線沿いに東南に進み、私のふるさと今津町に入る。一帯の焼夷弾爆撃、 その後の高速道路と西宮インターチェンジの建設と区画整理、阪神淡路大震災などで、 全く昔の様子を想像できないまでに変わってしまったふるさとである。酒蔵通り沿いに ⑧の「今津出在家町1」大きな提灯二つに飾られた石切地蔵の祠があった。3体ある。 2体は一石五輪塔、もう一帯は自然石の座像で、ともに付近の地中から掘り出された ものである。北東に進んで⑨の「今津二葉町1」舟形光背の地蔵、世話をされている 本馬家の主人が工事現場で掘り起こしたもの。この日、一番盛大に地蔵盆の飾りが されお供えが並んでいた。43号線の上を越える高架橋を渡る。⑩「水波町2」は、 路地の奥に祠があったが中は空っぽだった。そこからすぐに今津公民館東側の⑪ 「水波町3」両縁地蔵尊があった。祠内には2体の舟形光背立像がある筈だが扉は 閉まっていた。年寄りの女性がいて「去年は台風で今年はコロナで、お祀りできて いませんのや」と言った。女性は続いて、北の阪神電車高架沿いにある⑫「水波町1」 北地蔵まで歩いて、一心に手を合わせていた。私もその後で手を合わせた。舟形光背の 立像で両側に一石五輪塔がある。地元の鷲尾さんがこの祠を建てお祀りされている とのことである。

風景は全く変わってしまった今津の町だが町名を声に出してみると響きが懐かしい。 ついそこの辻から、今津国民学校の同窓生がひょっこり出てくるような気がする。 次は⑬「今津曙町1」少し探して通りの壁に張り付いているような祠を見つけた。 「コロナのため地蔵盆は中止します」と張り紙があった。この地蔵は舟形光背の両側に 一石五輪塔があって。戦前国道二号線付近の田んぼから出てきたものと言われている。 東に名神高速の高架の下を抜けて、上野神社の参道沿いに⑭「今津上野町1」新しく 思えるぴかぴかの坐像地蔵一体があった。その後に、7つ提燈が並んでいた。上野神社 に参り、ここから方向を北西に向け再び名神高速の下を抜け、少し探して、⑮「今津山 中町1」延命地蔵に着く。祠は閉まっていた。丸彫座像、昔神戸方面からもつてきて 祀られたものと言われている。ここで時計を見ると11時37分であった。炎天下 汗だくで、水も飲んでいない。残るは後5つだ。一気に回ってしまって、そのあとで 何かドリンクを飲もうと決めた。

ここから南南西に、西宮インターチェンジの真下の通路を通って臨港線沿いの⑯ 「今津巽町1」へ。今津巽町は私の生まれた町で海が近い。昭和9年の室戸台風で 高潮に襲われた。母が私を負ぶって押し寄せる海水に浸かりながら必死で逃げたのを 覚えている。この祠はその家のあった場所に最も近い。一石五輪塔3体があり、花が 飾られていた。そこから東に久寿川を渡り、同じ臨港線沿いスマホのYモバイルと洋服 のアオキとの間に⑰「今津久寿川町1」があった。祠内に丸彫立像と舟形光背の浮彫 立像の2体。昔、巽公園内にあったものが移されたと言われている。久寿川に沿って北へ、 酒蔵通りを西へ曲がり、⑱「今津大東町1」の祠を確認、扉は閉まっていたが、覗くと 中にはお菓子が供えてあった。⑲「今津大東町2」には祠がなかった。小さな一石 五輪塔が駐車場の西南角に8体まとめて集められていた。お供えはなかった。

いよいよゴールの⑳、「今津水波町4」へ、インターチェンジ東側の43号線の高架 を北へ越える。久寿川沿いの道に出た。75年前焼夷弾の火の雨に思わずそこにあった トラックの下に潜り込んだ場所である。そして、阪神電車久寿川駅南側の久寿川公園 内の中央北側、南向きの延命地蔵尊の祠の前に立った。舟形光背、浮彫、立像、右手に 錫杖、左手に宝珠を持つが、この日は身体に赤い布をかけている。大きな提灯が飾られ、 花と倶物が供えられている。『西宮の地蔵』の記述に、この地蔵の由来として「お祀 りしている人の聞いた話では終戦の年の8月22日に飛行機が落ちて13人ほどが亡 くなられたのでその日に地蔵盆をしている」とあるが、この話の年と日は明らかに間違 いで、飛行機が落ちたのは、終戦の年の1年前、昭和19年8月23日午後4時近 くである。この飛行機が落ちた時、私は実際に目撃しているから間違いない。

その時私は中学1年生で近くの今津社前町の家にいた。ドンという大きな音がしたので、 2階の窓から、阪神電車久寿川駅の方を見ると、黒い煙が上がっていた。私はすぐに 駆けつけた。落ちた場所は久寿川駅の西の当時は賑やかだった商店街で、北から南に 飛んできた海軍の2人乗りの飛行機3機の内1機が電車線路の高圧線にかかって、 商店街に突っ込んで火を噴いた。私は飛行機の尾翼が屋根に突き刺さっているのを 確かに見た。警防團の人たちが、道に縄を張り近寄れぬようにしていた。飛行機の 油が下水に流れ、火が回ってマンホールが跳ね上がっていた。商店の一家7人を含み 13人の死者が出た。死体は近くの常願寺に運ばれ、怪我人は明和病院に送られた。 その後、死者を悼みその場所に地蔵が建てられた。その場所には西宮空襲、インター チェンジ建設などがあり、地蔵尊は現在の久寿川公園内に移された。

こんな、いきさつがあるので、私はこの「今津水波町4」の地蔵だけは、今まで何回 か訪れてお参りしている。この祠の前にテントが張られ、子供たちを集めてお菓子を配 ったりして地蔵盆が盛大におこなわれている年もあった。今年はコロナのためか、 誰一人公園にいなかった。時刻は12時25分であった。

夏の果てとは言っても、汗の吹き出す暑い日だった。私は駅の自販機で冷たい紅茶の ペットポトル一本を買ってきて、公園の木陰で飲み干した。

親類、友人、知人、古くは賑やかで、多くの想い出の記憶を残す私のふるさとは「古き 由緒ある今津郷」と言われた町だった。この町を出て75年の今、知る人は去り、亡 くなり、今では全く誰一人私の知っている人はいなくなり、街の風景も大きく変わって、 近くて遠い町となってしまった。ところが今日地蔵盆の日、今津町の全部の地蔵さん たちは(一ヶ所、祠にいなかったが)私を温かく迎えてくれた。そしてその地蔵さん たちを祀り、お参りする人たちが、まだまだ健在であることが分かったことは、 本当に良かった。

「とにかく、自分で作ったふるさとの、地蔵盆オリエンテーリングを今、完走したぞ。 やったのだ!」誰もいない公園で私は一人呟き、両手を挙げてバンザイをしていた。

(令和2年9月3日)

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宙 平
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