今津燈台は語る
わしは、日本で現存している最古の木造航路標識じや。西宮市の文化財指定
にもなっているが、今でも現役の燈台として、海上保安庁に登録されている。
文化七年(一八一〇)この今津の浜にはじめて木造燈台を作ったのは、酒造
家、長部(現大関酒造)五代目の当主長兵衛だった。
が、その後安政五年(一八五八)六代目文次郎により建てかえられたこのわ
しが、以来今日まで、港に出入りする廻船や漁船の安全を守り続けてきている
のじや。
最初の頃はなぁ。燈芯に油皿を使っていたので、長部家の奉公人が毎日油二
合をもって通ってきた。今津の浜も、西宮の浜も白砂と青い松原が続いて、時
には漁師達の網を引く唄声が浜風に乗って響いていた。
西宮の港から、景気のよい掛け声と共に、新酒番船が江戸一番乗りをめざし
て、帆をはらみ、競い出て行く時は、みんな浜に出て声援を送ったものだった。
明治六年、今津に小学校ができた。そして、明治十五年、この燈台から、そ
う遠くない出在家に、新校舎が出来た。洋風のハイカラな建物で、中央玄関の
上の塔屋は六角堂とよばれ、斬新なデザインを見るため、遠い所から見に来る
人も多かった。
大正になって、香櫨園や甲子園に海水浴場が出来、今津の浜でも小学生の水
泳訓練がはじまった。訓練の最後に遠泳があり上級の生徒が参加した。今津の
浜から香櫨園の浜まで沖合いを集団で泳ぐのだが、先生達が舟を出して大声で
励ますなど、皆、一生懸命だった。
昭和になると、今津、西宮の港の改修が行われ、吉原製油がこの燈台の入江
をへだてた東側に、そして西側に、川崎製鉄の大きな工場が出来た。時代の流
れとはいえ、こうして、白砂青松の風景が失われてきたのは、まことに残念な
事じや。
そして、昭和九年の室戸台風。瞬間最大風速六〇bに、満潮が重なり、大波
が高潮となり、燈台の石積みの部分を乗り越えて町に押し寄せた。屋根が飛ば
された多くの家の床上に潮が渦巻き、今津の町大半が水に漬かった。大きな舟
が陸の奥まで乗り上げていた。
戦争が激しくなっていったあるとき、椰子の実の皮が入った袋を一杯積んだ
艀がわしの目のまえに停まった。板が向かいの吉原製油に渡され、豪州兵の捕
虜達が、袋を担いで運び込んでいた。油をこうして取りはじめたのだ。捕虜達
は神戸の収容所から、看守がついて阪神電車の久寿川駅から、二列に並んで二
〇人ぐらい歩いて来ていた。
昭和二〇年八月五日の夜から六日の朝にかけての大空襲は、B―二九の編隊
がきっちり西宮の海岸線から北の町外れまで、絨毯を敷くように油脂焼夷弾の
光の雨を落としていった。浜に逃げてきた人も直撃の洗礼にあった。わしも危
ういところだった。夜が明けると、くすぶりを上げる一面の焼け野原があった。
戦争が終ってから海が汚れてきた。海水浴も出来なくなった。それに輪をか
ける様に、昭和三七年、西宮の海岸線を埋めて、日本石油のコンビナートを誘
致するということが、市議会で採決されたと聞いたときは、わしももう終りか
と思った。幸い、住民と酒造業者の反対もあり撤回となった。あの平成七年の
地震の後でも、香櫨園浜の浜辺をコンクリートで固めて、自動車道路を作る計
画が進んで、住民が猛反対した。甲子園、今津、香櫨園と続く白砂の浜辺は、
今は貴重になった。
今年平成十七年六月七日、単独ヨット東回り世界一周で、西宮新ヨットハー
バーに帰ってきた堀江謙一さんが、「大阪湾に入った途端、海が濁っていた」
といっていた。わしは、きれいな海をなんとしても取戻してほしい。
緑の松原、白い砂浜のなかに建っているわしの姿こそ、本当の日本の美しさ
なのじや。
☆★☆★☆★☆★ 宙 平 cosmicθharmony ☆★☆★☆★☆★
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