From Chuhei
 

 

 昭和52年5月5日、B―29墜落地点の山の所有者である工藤文夫さんは地元有志の支

援を受け墜落の場所に、亡くなった米兵搭乗員11名と、体当りして19歳の命を散らした粕谷飛

兵曹を弔って鎮魂と供養のために「殉空の碑」を建てた。粕谷飛行兵曹の碑は別の場所にもある。

 
  
   
   
炎上するアメリカB-29爆撃機   
 

殉空の碑        

 

 

 あの昭和20年! 6月を過ぎるとアメリカ軍の空襲はほぼ毎日のように続いた。中学2年生

だった私はその対応の仕方を自然に覚え込んでいった。敵機が艦載機で低空から機銃掃射を仕掛

けてくる時は、素早く物陰に隠れしゃがむ、絶対に動いてはならない。

 

-29爆撃機が1トン爆弾を落とし、落下音が聞こえた時は、両手の親指で両耳を塞ぎ、飛び

出さないように両眼を押さえる。大編隊で来て油脂焼夷弾を大量にばら撒くときは、もはや消火

活動などは出来ない。また住宅密集地の防空壕に入っていては蒸し焼きになるだけだ。ひたすら

に走って逃げる、それしかない、と分かってきた。

 

そして、B-29の編隊が上空を通過するだけの時は、外に出て銀色に光って進む機体を眺め

ていた。そのようなある日、地上から高射砲を打ち出し、黒い煙がぽっ! ぽっ! と編隊の後

ろに上がった。とその時、後ろの1機に命中した。「やったぞ!」大声で誰かが叫んだ。胴体と

主翼が空中で2つに分解して煙を上げ回りながら落ちていった。編隊はそのまま飛び去った。し

ばらくして、落下傘が一つ浮かんでいた。降りてゆく地点は、見ていた今津から北東の武庫川の

国道付近ではないかと、その時一緒の友人と話をした。

 

「誰が捕まえに行くのやろうか?」

 

「警察か、兵隊がすぐに行くのと違うか」

 

「聞いた話やが、先に駆けつけた人達が殴り殺してしもた、ということもあるそうやで……

 

その日から数日後、新聞の一面に大きく「日本空襲のB-29搭乗員は、極刑に処す」という

見出しの記事が出た。私はその頃、神戸の収容所から阪神電車で来て今津の浜で荷役の仕事に

従事している捕虜たちを見ていたので、

 

《なんで、同じ捕虜なのに違いがあるのか? 極刑といえば、死刑か、それ以上の残酷な刑罰を

科すことになるが、どうするのだろう……》とその時思った。

 

しかし間もなく日本は無条件降伏をした。そして、進駐してきた占領軍が、戦時中日本に降下

したB―29搭乗員のことを調べているらしいということを聞いた。が、殆どの日本人はそのこ

とに関しては沈黙していたようである。当時占領軍は捕虜虐待の下手人、それを命じた責任者、

または目撃者、その証人を探していることを知っていたからである。

 

昭和27年4月28日、サンフランシスコ平和条約が発効し、日本占領が終わった頃から漸次

語られるようになり、近畿地区を統括した中部軍管区でも、昭和20年7月から8月にかけて、

航空機搭乗員捕虜6人が毒殺され、38人が射殺されたことが分かった。いずれも正式の軍律

会議を経ずに、上官の命令により処刑されたとされている。私の見た落下傘の捕虜もその一人

だった可能性が高い。

 

昭和31年、遠藤周作は『海と毒薬』で戦時中、大学で行われたという航空機搭乗員捕虜に

対しての生体解剖事件を書いた。この作品はフィクションとして大学名は架空にされていたが、

実際に生体解剖を行った大学は当時の九州帝国大学であることは、すでに分かっていた。

 

この捕虜達は昭和20年5月5日に熊本県阿蘇の村近くに墜落したB―29搭乗員であった。

墜落した機は福岡の大刀洗飛行場を爆撃した帰りの11機の編隊のうちの1機で、長崎大村飛

行場から迎?に飛び立った海軍の粕谷2等飛行兵曹の操縦する紫電改に体当たりされたもので

あった。12名が落下傘で脱出したが、そのうちの3名は駆けつけた住民に殺害されたか、ま

たは墜死であった。隊長の大尉1名は、情報収集のため東京の参謀本部に送られ、後の捕虜は

大学に生体解剖のために運ばれたとされている。

 

この時、落下傘で脱出後、住民に追い詰められ死亡した米兵の状況については、平成22年

8月9日、NHKの『証言記録市民たちの戦争、B29撃墜敵兵と遭遇した村』で、詳しくテ

レビ放映された。

 

阿蘇地方の星和地区、当時国民学校の上級生だった男性は語っている「草原でワラビ採りを

していたその時上空で激しい空中戦が始まり、米兵が落下傘で降りてきた」そして「ここで、

戦いが始まったのだ。じっとしているとやられると思った」

 

降りてきた米兵は近くの雑木林へ逃げ込んだ。村人たちは家にあった刀、竹槍、鎌、猟銃な

どを持って多数で林を囲み、出てきた米兵を1時間も追いかけ、鎌で足に切りつけた。米兵は

持っていた拳銃で自殺した。これは爆撃機の左側射撃手だった伍長とされている。

 

また、薊原地区では降りてくる落下傘を追って村人が集まった。当時20歳だった女性は

「みんな殺気立って、殺せ、殺せ! という野次がすごかった」と語った。米兵は抵抗しな

かったが村人の猟銃で打たれた。その時まだ生きていたが、40歳代の男性が足を掴んで引

きずり出し鎌を心臓に突き立て、米兵は血を吐いて死んだ。これは爆撃機右側射撃手の伍長

だった。そしてほかの地区では墜落死して死体で発見された米兵もいた。

 

生体解剖をされた捕虜は8名とされている。当初は健康検査をされるものと思い「サンキ

ュー」といっていたが、5月17日から6月3日の間に解剖が行われ全員が死亡した。これ

は代用血液の開発、結核治療、新しい手術方法の確立を目的として、血管への海水の注入、

肺の切除、心臓の強制停止、脳や肝臓の切除実験、出血量と生命維持の限界の測定などが行

われたとされている。戦後この事件では指揮執刀した教授は自殺し、軍関係者2名、大学関

係者3名は絞首刑となり、医師18名は有罪となったが、その後、多くの人が減刑され釈放

された。

 

私が戦時中新聞の一面を見て「B29搭乗員は極刑に処す」とはどういうことなのだろう? 

と考えた実態の一部はこのようなことだったのだと、この事実を知った時ようやく分かった。

 

昭和52年5月5日、B―29墜落地点の山の所有者である工藤文夫さんは地元有志の支

援を受け墜落の場所に、亡くなった米兵搭乗員11名と、体当りして19歳の命を散らした

粕谷飛行兵曹を弔って鎮魂と供養のために「殉空の碑」を建てた。毎年5月5日には法要を

営んで、工藤さんが亡くなった今も地元住民を中心に追悼祭として続けられている。そして、

当時このB―29の機長であり、ただ一人の生存者であったワトキンズ氏は昭和56年この

事を知って、深い感謝の言葉を寄せてきている。

 

私はこの事件では、阿蘇の村で村民による米兵殺害の現場を目撃したとして、そのため戦

後、占領軍から厳しい尋問を受けた大久保惟次さんの手記「断末魔の記」の結びの言葉が忘

れられない。 

 

NHKの証言記録によると、大久保さんは尋問への呼び出しは4回に及んだ。事件当時

33歳だった大久保さんへの尋問は厳しいものであった。米兵に対する暴行をしたのではな

いか? してなければ暴行をしたのは誰だ? 村人の犯行を見ていて、それを隠すと貴方も

罪になるぞ! 何度も詰問された。しゃべると誰かが傷つく、大久保さんは苦悩しながら沈

黙を守ったらしい。そして平成15年、村でも家庭でも事件のことについては、その口を閉

じたままで亡くなった。73歳の時に書かれた手記は次のように結ばれている。

 

「我らは銃後にあって、実戦の小さな一部を見た。そして、無残さ、残忍さ、犠牲の大きさ

を、しみじみと体得した。戦争はするべきでないと神に祈りつつ手記を終わる」

 

                                          (平成26年10月14日)

 

 参考資料

 

NHK『戦争証言』アーカイブス、B29撃墜 敵兵と遭遇した村 ?熊本県・阿蘇?

(2010年8月9日)

 

旧軍における捕虜の取り扱いー太平洋戦争の状況を中心にー立川京一(防衛研究所主任研究官)

(2007年9月)

 

朝日放送「九大生体解剖事件」(you tube)(2013年5月14日) 


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 宙 平

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