From Chuhei
甲山八十八ヶ所

西宮市全域地図の丁度真ん中に位置するのが、甲山である。1200万年前には今より もっと高く大きく火を噴いて盛り上がっていたといわれている。その頃はまだ人類は誕 生していなかった。六甲山も六甲山系もそれよりずっと後の100万年前の六甲変動と 呼ばれる地殻変動により隆起してきたもので、六甲隆起の以前、甲山は海に接した平地 の中にマグマを噴き上げながら聳え立つ巨大な火山だったのだろう。やがて、地殻変動 で押し上げられ高くなる六甲山系に対し、逆に甲山は押し下げられ、さらにマグマ活動 の終息で縮小し低くなったと考えられる。

おびただしい時が流れた。その後、神の山となり修験道の修行の場でもあった甲山に、 丹後一の宮神社海部家の娘いつ子(淳和天皇の妃の一人であったとされる)は、官女2 人とのぼり、神のお告げにより、摩尼山神呪寺を建立し、自ら如意尼となった。弘法大 師空海は、その如意尼のもとを再三訪れ、甲山山頂にあった桜の木で、如意尼を模して 如意輪観音像を彫ったとされている。如意尼は空海のただ一人の恋人だったともいわれ、 田辺聖子の『如意輪観音秘話』には「空海・弘法大師もまた、美しい女弟子とともに、 現世の煩悩をはなれて天界へ、悟達の境地へ、手に手をとってのぼってゆく」と書かれ ている。また、虎関師錬の『元亨釈書』には、その経過が詳しく述べられている。

再び長い時が流れた。神呪寺の住職も代々引き継がれ60代となり、寛延元年 (1748)には宝乗広観が大和尚として入山した。そして翌年には、甲山山麓の仏性 ヶ原にあった寺院の場所を、現在地の山腹南面に移した。

その後、62代蓮眼大和尚のとき、弘法大師空海の霊場遺跡であるこの神呪寺に、四国 八十八ヶ所の霊像を模彫造立することを宿願としている信士たちの提言に、諸檀徒、世話 役たちの強い賛同を得て、寛政4年(1792)から寛政10年にかけて、甲山八十八ヶ所 が創設されることになった。その八十八ヶ所の本尊は西宮を中心とした町人たちや地元 の神呪村・下大市村・高木村などの村落の人たちが施主となって寄進により、それぞれの 札所とともに造られていったものであった。そして本尊の石仏以外に弘法大師座像その他 の石造物も今津、尼崎、大坂などの弘法大師信仰者により、寄進され札所に配されるよう になった。大師座像などは、明治時代になってからも本尊と並べて置かれているものが多い、 大正、昭和になってからのものもある。

ともかく、寛政10年(1798)の創設から半年たった8月の記録では、甲山観音の 霊験と八十八ヶ所の石仏が勧請されたことが、広く知られ有名になり、日々参詣者が おびただしく集まり、大坂からは船を幾艘も出し、陸地は尼崎道、京海道とも参詣者が引き もきれず前代未聞の珍事となっていると、記されている。

令和元年の今年、私は満88歳になる。甲山八十八ヶ所の一ヶ所の札所を1年と見立て、 88年に及ぶ自分の人生の歩みをたどってみるつもりで歩いてみたいと思った。

梅雨明けの7月25日、私は阪神バスで阪神西宮発の、鷲林寺東回り線のバス停、県立 甲山森林公園前を降りた。北西にそのバス道の坂を250㍍ほど進むと、左側に1番札所 があった。四国の阿波の国の1番霊場では霊山寺である。本尊は十一面観世音菩薩立像で あるが、当初は釈迦如来だったのが後で替えられたらしいと、西宮歴史調査団調査報告書 『甲山八十八ヶ所』には書かれている。その横に並んで立派な弘法大師像があり、その台座 に大きく「水大師」と刻まれ、その前には井戸があった。

私は実際に阿波の国、霊山寺に参詣したことがあるのを思い出した。平成18年3月の ことである。鳴門市大麻町坂東で、実際にあつた第1次世界大戦のドイツ人捕虜収容所跡地 付近に、映画撮影のための捕虜収容所が再現され、私はそれを見学にいったのである。 そこで、ドイツ人捕虜たちにより日本で初めてのベートーベンの第9番交響曲が演奏された というのは、良く知られている。映画の題名は『バルトの楽園』、松平健が収容所長を演じ、 その年の6月に封切られた。このとき大麻町坂東にある霊山寺を訪れたのであった。

1番の札所を11時52分に出発し、道路を渡って、2番極楽寺を確認して通過した。西へ 進みその並びに3番金泉寺、コンクリートブロックの堂内中央に、釈迦如来坐像があり、両側 に2体の弘法大師座像がある。人生の歩みで考えるなら、3番は私が3歳、昭和9年に当たる。 この年ではっきり覚えているのは、9月21日の室戸台風である。風速60㍍を記録しそれ以上 は機器が壊れて測れなかったという未曽有の台風と、堤防を越えて大津波のように押し寄せた 高潮が、阪神間を襲った。西宮市今津巽町の家には3歳の私と母がいた。雨戸が吹き飛び、海水 が渦を巻いて玄関の土間に流れ込んでくるのを目撃した。母は私を背負い、裸足のまま押し寄せる 海水の中を阪神電車の駅の方に向かって走り出した。舟が駅近くまで流されて来ていたのも 覚えている。

4番大日寺から11番藤井寺までの札所は道路の北側の並びにあった。道路の向かいに竹下石材店 があり、その西側に12番焼山寺があった、この札所の裏側にある狭い旧道の坂の下に13番があり、 そこからさらに狭いあぜ道を南に進めば、やがて森と岩の中の山道となる。その右側に14番常楽寺、 弥勒菩薩座像の本尊が現れる。台座の銘文には施主の小西甚兵衛の名前が刻まれている。小西家は伊丹 の有名な酒造家で、今でも続いている。私が14歳のときは先の大戦の終わった昭和20年に当たる、 この年こそ最も多くの日本人が戦争で命を落とした年である。私は学徒動員中の中学2年生であったが、 この年の8月5日深夜から6日早朝にかけて、鳴尾、甲子園、久寿川、今津、西宮中心地、香櫨園 一帯すべての住宅を焼き尽くす、米軍の油脂焼夷弾による大規模な西宮空襲があった。そのときの 一家5人、父母姉弟と私は西宮市今津社前町の家を捨てて、北へ走って逃げた。途中一人になった。 真上から花火の火のような焼夷弾が落下してきて、止めてあったトラックの下に潜り込んだが、 すぐにトラックも燃え出し、抜けだして夢中に逃げた。家は一面の焼野原となって、周辺には 黒焦げの死体が転がっていた。が、後で無事家族と会うことが出来た。

15番から23番までは、古代の噴火の溶岩が固まって出来たと思われる岩山を回るようにのぼって 下る。札所はその岩を巧みに利用して作られている。阿波の国は23番の薬王寺で終わり、次からは 土佐の国に入る。24番は最御崎寺。この寺は弘法大師空海が室戸岬の先端にある洞窟で、修行の結果、 明星が口から体内に入るのを感得したことにちなんで、明星院と号している。今の本尊は聖観音菩薩 立像である。私の人生では社会人として活動を始めていた年齢である。26番でこの岩山を終わり、 フェンスを抜け南北に走る道路を渡る。27番から44番までは、甲山から南に延びる尾根の東側に ある岩場を利用した札場である。私は29番国分寺、本尊千手観音菩薩坐像のまえの石段に座って、 休憩をすることにした。気が付くと身体から汗が吹き出し、シャツがベト付いている.ポカリスエット を飲み、カロリーメイトをかじった。これが私の昼飯である。この暑い中八十八ケ所巡りをしている のは、私一人で誰にも会わない。12時39分出発。33番の雪蹊寺は土佐の桂浜の近くの寺である。 私は桂浜の岩と砂浜と波を思い出した。39番延光寺、私の39歳のとき大阪万博が開かれた。そのとき、 私は豊中市曽根に住み、大阪で勤務していたが、期間中の休日のすべてを万博見学に充てて各バビリオン を回ったのを覚えている。

40番の観自在寺からは伊予国に入る。そして、44番から45番へは再び道路を横切り、フェンス の隙間から入る。この45番から64番までは甲山に対する南の小山の周りを回る。岩の多い場所で あることは変わらない。私の年齢でいうと44歳から46歳の3年間は勤務のため、名古屋の東山近く の高台にある家に住んでいた。東山動物園の周りの山道をジョッキングして過ごしていたのを思い出した。 51番石手寺は松山市にある寺である。松山には何回もいっているが最初に、ここで開かれた国民体育 大会(昭和28年)フェンシング競技選手として出場したときのことが、忘れられない。55番から62 番にかけての急な岩道をのぼると視界が開けて、62番宝寿寺からは、目のまえに甲山が現れ、神呪寺の お堂もはっきりと見える。札所の番号を年齢で置き換えると、私は55歳から60歳までは東京勤務 となり、小石川植物園のある、文京区白山町に住んでいた。

64番から65番にかけては再び道路を横切りいよいよ甲山から南に延びる尾根にのぼる。私の64歳 のときは、平成7年である。会社を退任後、西宮市の香枦園に住んでいた。2月17日、早朝、阪神大震災 に見舞われ、万物落下に埋まった。高速道路の高架が倒壊し、家の北側のベランダからは、甲山が目のまえ に迫るように見えた。地震2日後本堂が半分潰れた神呪寺を通り、頂上にのぼったが、山を下る道が突然 途切れて急な崖になっていた。地震直後に発生して34名の命を奪った仁川百合野町地滑り地帯の 上部だったのだ。怖くなって引き返した。

66番雲辺寺からは、いよいよ四国では最後の讃岐の国となる。67番を過ぎると順路のメイン通り、 甲山が正面に姿を現し、それに向かって進んでゆく。68番神恵院は南向きの阿弥陀如来坐像と横の 小さな弘法大師像が甲山を背景に絶好の風景として眼前に現れる。四国では69番観音寺ともに燧灘 に面した観音寺市にある寺である。70番から82番までは西北に向かう尾根上の道に並んでいる。 年齢でいうと82歳のとき、私は心筋梗塞になって、入院を何回かしている。坂を下ってバス道を 横切ると83番から87番までが、甲山の西側の山道にある。その山道の行き止まり正面に、87番 長尾寺の聖観音菩薩立像があって、向かって右に不動明王立像、左に弘法大師座像がある。四国では さぬき市の長尾西にあるこの寺から、讃岐山脈の方向に最後の遍路道を88番大窪寺に向かって 15・5㌔、難所といわれる長い登り坂が続くところである。甲山では一旦、バス道まで引き返し、 神呪寺本堂への石段を下から上がる。

88番大窪寺薬師如来坐像は、本堂横の太子堂前に南面していた。到着は14時ちょうどであった。 私は汗まみれの帽子をとって像に向かい、手を合わせて、全部の札所をきっちり回って結願したことを 感謝した。そして境内の見晴らしの良い場所にある鐘撞き堂にのぼり、撞木を思い切り引いて撞いた。 響きが風景の中に溶けて、緑の風が快く身体の汗を冷やした。

「地・水・火・風・空・五大みな響きあり」弘法大師の言葉である。甲山八十八ケ所の札所番号を 年齢とすると、3歳の大風水害で風・水の響きを、14歳の大空襲で火の響きを、64歳の大地震 で地の響きを感じながら、その他諸々の響きの中、人生をたどってきた。そして、88歳に達し、 広がる鐘の音に、空の響きを感じた。しかし私の人生はこれで終わったわけではない。これからも 続くのだ。

まずは家まで歩いて帰ろう。それには甲山周辺を源流とする夙川の上流を目指すのだ。夙川を 下れば我が家がある。「出発進行」私は腕を上げて、眼下に広がる風景の南南西を指さした。 そして、その方向に向かって真っすぐ進んで山を下った。

(令和元年8月9日)

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宙 平
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