From
Chuhei
甲山に、西宮市がロープウェイを架けようとしたことがありました。
昭和33年から35年の頃でした。私は当時甲山山麓の仁川渓谷で岩登り
の練習に励んでいました。
これは、甲山のロープウェイ計画です。
仁川渓谷には、有名な岩場がありました。この写真は今年の11月20日
に私が撮影した。ムーン・ライトロックです。
そのフェースです。
――仁川渓谷ムーン・ライトロック――
普通、仁川渓谷に行くには、阪急仁川駅から、甲山に向かって住宅が並ぶ道を川に沿って進む。
やがて、左岸の道は右手に曲がって、坂を登るのであるが、その道を曲がらず、仁川百合野橋を渡って、細い道を谷に入っていくと、そこはもう仁川渓谷である。
この渓谷には、歴史的に有名な岩登りの練習に使われた岩場がある。大正一三年、藤木九三氏らを中心としてRCC(ロック・クライミング・クラブ)が設立された。彼らは穂高・剱などの本格的な岩登りと、海外登山を見据えて研究と練習を始めた。練習場所としては「芦屋ロックガーデン」姫路の「雪彦山」そしてこの「仁川渓谷の岩場」などが主なゲレンデとなっていた。
今年、秋晴れの一一月二〇日、私はムーン・ライトロックを見たくなって、仁川渓谷に降り立った。この渓谷の中に入り込むのは想えば四〇数年ぶりのことである。この渓谷入り口付近の様相は相当に変わってしまっていた。しかし、すぐに渓流沿いに高さ一〇bの「ムーン・ライトロック」を見つけた。誰が打ち込んだものか、二か所ハーケンが残っていた。この岩には私の思い出が一杯詰まっている。
昭和三〇年台初め、私は会社が終わるとすぐに着替えて大阪から阪急電車でここへ駆けつけ岩登りの練習をしていた時期があった。会社に大学の山岳部で岩登りの経験の深い上北君が大学の後輩として入社してきて私を仁川渓谷に誘ったからである。彼は最初にこの「ムーン・ライトロック」で私にザイルさばきや懸垂下降を教えてくれて、一緒に夏の休みに前穂高東壁を登る計画を示した。当時は井上靖の小説『氷壁』が有名となっていて、その舞台が冬の前穂高東壁であった。「ムーン・ライトロック」には地上一b五〇a位のところを、横に回りこむように、僅かな手がかりを頼りにトラバースの練習をする所がある。私は独りの時もこの岩にへばりついていた。
こんな練習のお陰で昭和三二年八月一二日。私と上北君は涸沢から北尾根の五・六のコルを越え、奥又白のB沢の急な雪渓を登り、そこからザイルを付け、赤黒い東壁を六時間かけて登って前穂高頂上にたどり着いた。
「次は劔岳の岩場、チンネかジャンダルムをやりましょう」という上北君の言葉に、その後も、また仁川渓谷に通うようになった。
この一一月の秋晴れの日、次に、私は「ムーン・ライトロック」の奥にあるはずの高さ二〇bの「三段岩」行こうとしたが、昔と違ってそこへ行く途が、今はひどいブッシュにはばまれて行けなかった。しかしながら、この岩にも次のような懐かしい思い出があったので大変に残念であった。
この渓谷で顔見知りになった山仲間の連中の練習会に参加したことがある。それぞれが二人ずつザイルパーテイを組んで、どれかの岩を登る事になった。私は岩のぼりには熱心だが初心者である女性と組んだので、先頭になってその「三段岩」を登った。最初のうちは良かったのだが、上部のもろい岩のところで私は行き詰まってしまった。手がかりが、ぽろぽろと外れそうでどうにもならないのである。こんな岩にはハーケンも打てない。ずり落ちると下の棚で止まったとしても五bぐらいはある。私の命は大丈夫だろうが、ジッヘル(確保)の仕方も分からないザイルでつながった初心者の女性を巻き込んでしまうかもしれない。こんな所で元へ戻るのはもっと難しい。さあー困った!
その時、するすると目の前に上からザイルが下りてきた。上を見ると人の顔が覗き込んでいる。
なんと、上北君ではないか。全くの偶然、彼が後輩の関学の山岳部の連中とここに来ていたのだ。
天の助け! そのザイルをしっかりつかんで、這い上がる事ができた。そして後に続く女性は私が引揚げ、何とか私の先頭クライマーの格好がついた。その後、この女性とはもうこの渓谷で会うことはなかったが、関学の山岳部の連中とは、何度も会うことがあって、話をする事が多くなった。
彼らとの話の中で次のような話を聞いた。
「甲山にロープウェイを作る計画が進んでいるのですよ。どう思いますか?」
「へー誰がそんな事を?」
「西宮市ですよ。財源と考えているようですが、
全く関学の正面からの景観は台無しですよ」
「景観もそうだが、甲山にそんなものを作っても
山が荒れるし、経営も長続きしないよ」
「そうでしょう。大学の学生会は大反対しています。付近の学校、市民も反対ですよ」
私はそれを聞いて憤慨して、そんな馬鹿げた計画はなんとか取り止めさせないといけないと言って、学生たちの反対運動を励まして、一人が持っていた「甲山を守る会」のロープウェイ反対の署名帳にサインをしたことを思い出した。
さて、私は思い出の残るムーン・ライトロックをあとにさらに渓谷をさかのぼろうとしたが、この日は流れの水量が多く、濡れるのを覚悟で水の中を歩く必要があり、そこまでの用意はしてなかったので、左の山道を登る事にした。
仁川百合野橋までもどり、阪神大震災の地崩れで三四七名の死者を出した犠牲者の碑のところから、地崩れ後の階段になっている所を登った。昔は川に沿った山途があったのだが、今はフェンスで囲まれは入れなくなっている。私はここから阪神水道事業団の敷地の横から、甲山森林公園の東の端に登りついたが、私にはもう一つ見ておきたい渓谷の岩があった。高さ二〇b西と東に垂直の壁を持つ「パットレスの岩場」である。
さあ、森林公園から岩場の見えるところまでどう行くか? 私は森林公園の展望台の北側にある東屋のところから、さらに踏み跡が残っているだけのような北の急な斜面を渓谷に向かって下っていった。かなりいくと渓谷が見え川の流れる音が聞こえた。大きな岩があり下は崖になっている。その岩の上に立つと、見えた! 対岸にあの切り立ったパットレスが……。
この岩も当時何度か、上北君とザイルとハーケンとカラビナを使って登った。前に話をし合った関学の連中も登りに来ていた。そして、甲山ロープウェイ反対運動も、甲東地区・大社地区・瓦木地区住民を含め、関学だけではなくて神戸女学院・聖和女子短大の教職員や学生も加わって大きな動きになってきたことを話した。ここまで反対運動が広がってきて賛成者が少ないと、西宮市ももう着手出来ないのではないかということも言っていた。「それは本当に良かった」私は頷きながら心から思った。
上北君は「劔岳の岩場をやるには、まずこのパットレスに慣れておかないとだめだ。岩の色も質も少し似ているから……」と言っていた。
ところが、その後上北君は、事情があって急に家業を継ぐことになり会社を辞めた。私も転勤して、あまり仁川で練習できなくなり、その上彼も結婚して家庭を持ったこともあって、とうとう劔岳の岩場へ行く計画は、実行できなくなった。やがて、私も岩登りから次第に遠ざかっていった。
私は対岸の岩の上で、あの劔岳に通じると上北君の言っていたパットレスの岩肌の感触を思い出していた。あの頃の人間はみんな変わってしまった。仁川周辺の環境も大きく変わっている。
しかしパットレスだけは、そのままの姿で切り立ってくれている。
私は再び森林公園に戻り、そこから五ヶ池の方に向かって、歩いていった。そして仁川にかかる甲山橋の上からロープウェイの通る予定だった空を見上げた。ここは仁川渓谷の上流である。
ここではもう岩場が無く川の様相は一変しておだやかである。
私は後日知った事だが、ロープウェイは五ヶ池の南側の遊園地(予定)からこの橋の少し西の川の上空を渡り、甲山の山頂の遊園地(予定)へ繋ぐというものだった。直線距離で五九〇メートル、事業資金の総額一億二千万は西宮市の起債によるものとされていた。また広い駐車場を山麓の貴重な甲山湿原近くの林を切り開いて作る予定だった。
昭和三四年三月の西宮市議会第二回定例会会議録には、このロープウェイ事業は当時の市営競輪廃止のための布石か? という市会議員の質問に答えて、当時の辰馬卯一郎市長は、次のような趣旨の答弁をしている。
――この索道計画は競輪の代り財源ではない。しかし税外収入の一端を補う事業である。また西宮市の観光開発としても、最もよいと思う。やかましく論議されるほど、この索道事業がそんなに悪い事業なのか私は反問したい――
私は甲山橋から少し北側にある狭い階段を登り、ロープウェイの基点となるはずであった五ヶ池南側の丘の上の広場まで行ってみた。今はもう誰も来ない荒れ果てたところとなっていた。しかし、ここから見る甲山は一一月にもかかわらず、濃い緑につつまれ私の目の前に迫っていた。
――ロープウェイが中止になって本当に良かった。と、改めて私は思った。結局、市長も反対の力と見通しの甘さには勝てなかったのだ。もしロープウェイが出来ていれば、甲山の自然が破壊されるだけでなく、市の税外収入になるどころか、こんな場所での計画では事業の赤字が積み重なって、市の財政を一層圧迫し、市民の負担となったことだろう。
行政は時に、税外収入のためとか、観光開発のためだとか目先だけの問題にとらわれて、後になって考えると本当に馬鹿げたことをするものである。嘗ての西宮の沖に石油コンビナートを誘致しようとした問題でも、環境だけでなく、西宮の特性や風土を変えてしまう大きなおそれがあった。しかし、これは西宮市だけの事ではない。また昔だけの事ではない。
甲山の問題では、周辺の学生たちが中心になって山を守るため、立ち上がったのはすばらしいことだった。私は当時、渓谷の岩場に取り付いていた幾人かの若者のたちの顔を思い浮かべていた。
帰りに関学のキャンバスを抜け、校門のところでもう一度振り返って甲山を見た。
■■◆ 宙 平
■■■ Cosmic Harmony
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