From Chuhei
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おそれよう! 聖き甲山
私の住むマンション5階の北のベランダから、甲山が美しく輝いて眺められた時があった。 21年前の1月17日、あの大地震でマンションの北側の高速道路が壊れて、高架が崩れ落 ちた結果、今までベランダから見えなかった甲山が、目の前に迫って来るように見えたから だ。私は家の中の万物落下の状態が片付くと、すぐに惹かれるように甲山に向かった。それ はあの大地震から2日後のことで、阪神香櫨園駅近くのマンションから歩いて行ったと思う。
人の気配の全くない神呪寺に通じる長い石段を上ってゆくと、地震で飛んできた境内の灯 籠の石の屋根が石段の途中に転がっていた。寺の本殿とその隣の太師堂はその前部が崩れ、 屋根瓦が散乱していた。境内の展望台からは、ふもとの町の倒壊を免れた家々の屋根に張ら れたブルーシートが目立った。私は寺の裏からジクザク道を登って山頂に立った。私はあの マグニチュード7・3の震動が、淡路島から六甲山系の西端へ移り、南側の山麓を東に走り 甲山の周りを回り込んで北へ抜けた流れを追うように、西の方向から東の方向へ体の向きを 変えて、木々の間を通して遠くを眺めていた。《この甲山が踏ん張って、東に走る激震の流 れを、北に方向転換をさせたに違いない!》と、私は思った。
東へ山を下り、甲山森林公園から直接上ヶ原浄水場の北側に出る山道を辿っていたその時、 突然目の前の道が途切れた。周りの林もその先は空間、地面がちぎれてなくなっている。ふ るえる足で覗き込むと、濃い黄色の砂の斜面がその下にあった。
《甲山が身震いして、余分な地面を根こそぎ振り飛ばしたのだ!》ここは、あの地震直後に 発生した仁川百合野地区の地すべりの上部であったのだ。10万立方メートルの土砂が一気 に流れ落ち、下の仁川を埋め13戸の家屋を破壊し、34名の命を奪った。
私は恐ろしくなって後ずさりしていた。そして逃げるように森林公園の南側から太師道を 下りながら、「甲山は怖いところだ」と一人で呟いていた。
《あの地すべりの上部にある上ヶ原浄水場が昭和の増設工事で整地したとき、出てきた古い 石材や石塔を捨てた。すると工事人の怪我や病気が続出した。驚いて元の場所に戻し、粗末 に扱っていたその場所の古墳とともに丁重に供養したら、事故が止まり工事は順調に進んだ と書かれた、甲東文化財保存会の説明板があそこにあったぞ!》 《昭和20年後半、関学の学生があのちょうど浄水場北側から入る山道付近で、服毒自殺し たことがあったなぁ! 生前甲山に惹かれると言っていたらしい。また、平成のはじめ甲山 森林公園の林の中で首吊り自殺の死体をオリエンテーリングの競技中に見つけたこともあっ たぞ!》
《甲山の西側、鷲林寺へ向かう道と南北の県道との交差点のすぐ南にある夫婦岩。昭和13 年の水害後、道路を通すため岩に爆薬を仕掛けた工事主任が執行前日急死。岩のたたりだと 工事は中止。数年後、たたりなど信じないとして爆破を仕掛けた工事人も、同じく執行前日 急死した。今でも県道の真ん中に残っていて、その岩には手を付けられないでいる》―私は このとき、甲山についての気味の悪い怖い話を次々思い出していた。
阪神淡路大震災の翌年、兵庫県は震災対策として、被災者に仕事を提供する事業を始めた。 県の管轄する甲山森林公園施設の管理やパトロールの仕事も、西宮市シルバー人材センター を通じて依頼があった。私は4人の仲間と共にこの仕事を担当することになった。週2回、 2人1組になり午前中の3時間、森林公園内を巡回してベンチ・外灯・遊具・飲水施設・案 内板・道標・トイレなどをチェックし、時には修理した。
83ヘクタールの広い公園の南側と東側の尾根の上は約6キロの軽登山道となっていて、 ここにもベンチや案内板があるので何回もここを回った。この道のところどころから見える 甲山は、いつもの絶妙のなだらかなカーブを描いて私たちに迫ってきていた。
私は最初この軽登山道の尾根は甲山の前山に当ると考えていたが、何回も回っている内に、 富士山の噴火口でお鉢巡りをしたことを思い出した。そしてこの尾根を取り巻く大きな岩石 群を考えると、この尾根は昔の火山の噴火口の周りを巡っているように思えてきた。そうす ると、実際に噴火していたのは甲山の頂上ではなく、公園の底地に当たるみくるま池がその 火口だったのではないか? これは昔からある池で淳和天皇の行幸時にここで、「みくるま」 を停めて休まれたので、その名が残っている。
甲山が火山活動していたのは、1200万年前と言われる。まだ人類が地上に出現してい ない頃である。隣接する六甲山は火山ではなく断層により隆起した山地であり、甲山は六甲 山と共に沈降、隆起を起こしながらも、独自に爆発・噴火などの活動をしていた。岩質は輝 石安山岩からなっているが、六甲山は花崗岩で形成過程は異なっている。 甲山森林公園の仕事は、やがて月3回と回数が減ったが、4年4ヶ月続いて終わった。私 はパトロールの仕事を通じての体験から、この森林公園こそ古代噴火のカルデラであり、こ の底地からマグマが吹き出て、今残る岩石群が形成されていったと思うようになった。それ では、あの美しい曲線を描く甲山はどうして出来たのか? 私は火道の強い部分が大地を持 ち上げて、形成されたのには間違いないが、頂上から噴火していたかどうかは分からない、 カルデラの中に含まれた山であろうと思っていた。
平成8年から9年にかけて、工業技術院地質調査所の4名の研究者によって、甲山の地質 学的な調査が行われた。この調査によって山体を取り巻くように分布する円錐状の強力な磁 気異常が観測された。この異常な磁気は溶融したマグマが火道を通る際に外側の花崗岩に接 触し急?したために強い残留磁気を獲得したのではないかと推測される。と、発表されてい る。(論説『西宮市甲山の磁気構造』1997年8月)今まで円形地形のためトロイデ(鐘 状火山)と言われていたが、頂上から噴火して形作られたものではなく、火道を通り突き上 がってきた溶岩がそのまま固まり、高く盛り上がった土地が侵食により現在の形になったと いうのが今の研究者たちの見解である。
私は「甲山の山体を取り巻いて、強力な磁気異常がある」という調査報告に深く興味を持 った。昔からの甲山周辺で起こる色々な現象などを考えると《この山はほかの山にはない、 独特のパワーを発散している》と感じていたからである。
その昔、このパワーに惹きつけられてこの山を目指した人々も多い。日本書紀に記されて いるあの神功皇后は三韓遠征から戻りの船を武庫の港に着け、葉山媛に命じて甲山山麓高隈 原の廣田に天照大神の魂を祀り、甲山に甲冑を埋めたとされている。それは西暦で言うと2 01年頃である。西暦634年になると修験道の開祖、役小角(えんのおづぬ)が現れて、 甲山周辺の巨大岩石地帯に修験の場を開いた。明らかに甲山の磁気を感得したものと私は思 っている。
虎関師?「元亨釈書」によると、丹後一の宮神社海部家の娘いつ子は,京で如意輪法を修 業していたが、やがて淳和天皇の妃となる。西暦828年、官女2人と共に神域の山、甲山 に登り、広田の神のお告げにより、摩尼山神呪寺を建立し、自ら如意尼となる。弘法太師空 海は如意尼の神呪寺を再三訪れ、甲山山頂にあった桜の木で、如意輪観音像を彫ったとされ ている。如意尼は空海のただひとりの恋人であったとも言われている。 近代になって、昭和4年(1929)、神戸王子の原田の森にあった関西学院は甲山の山 麓上ヶ原に移り、甲山を聖なる背景としてキヤンバスを作った。そして、昭和8年(193 3)大学昇格を記念して北原白秋作詞、山田耕筰作曲の校歌「空の翼」を作り、その2番に 『眉にかざす聖き甲萌えたつ緑Mastery for Service』と「聖なる甲山」を入れた。ところが 先の大戦直前の昭和14年(1939)には、その時局の情勢から敵性語である英語のMaste ry for Serviceの入らない「緑濃き甲山」を由木康作詞、山田耕筰作曲で作り、甲山を気高 くそびえと最初に打ち出した。今でも第2の校歌といわれている。
緑濃き甲山 気高くそびえ 陽に映ゆる校舎 さやかに立てり 樹々、白亜、光 一つに合える 美しのまなびや 関西学院
昭和33年(1958)甲山にロープウエイを設置する計画が持ち上がり、西宮市議会は 1億1千万円の予算を可決。昭和34年秋に建設することが決まってしまった。
これには、関西学院大学の学生会・教授会を中心に猛反対運動が行われた。「甲山を守る 会」が結成され、作家今東光、詩人富田砕花、楽団指揮者朝比奈隆らにも協力を呼びかけ、 厚生省国立公園部に5千人余りの反対署名を持ち込んだ。そして、ついに計画は中止となった。
私は《よくぞ徹底した大反対運動を展開してくれたものだ! 西宮市議会の決定をくつが えすことが出来て本当に良かった! 有難う!》と思っている。甲山は強力な大地の磁気を 霊気として発散する聖なる神の山だ。
甲山とその南の西宮市街の深い地下には、今でも火道があり、熱い溶岩がこもっている。 平成13年(2001)6月、市街地の真中分銅町で温泉が出た。地下900メートル、温 度44・7度である。今、天然の湯「双葉温泉」として盛況を続けている。
私は日本列島が火山活動期に入りつつある現在、甲山にロープウエイやケーブルカーを作っ て、頂上をアミューズメントパークなどにしたら、それこそ甲山が怒り出し、想定外の噴火大 爆発を起こすのではないかと、本気で懸念している。
(平成28年2月1日)
********* 宙 平 ********* |