昭和15年11月11日皇居前広場で皇紀2600年奉祝式典が行われました。
その時の奉祝の歌にも替え歌が使われました。
愛馬進軍歌にも替え歌がありました。
昔の替え歌
昭和16年の日米開戦の年に、東宝映画「馬」が封切られた。監督山本嘉次郎、助監督黒沢明、
主演高峰秀子で、南部江刺地方の農家が家族みんなで懸命に仔馬を育てあげる物語であった。当
時私も見た覚えがある。
「めんこい仔馬」はその主題歌として、サトウハチロー作詩、仁木他喜雄作曲で作られた。
♪ぬれた仔馬のたてがみを
撫でりゃ両手に朝の露
呼べば答えてめんこいぞ オーラ
駆けて行こうよ丘の道
ハイド ハイドウ 丘の道
やがて替え歌が作られた。
♪ここは山の薬屋さん
白墨、削ってこな薬
お馬の小便、みず薬
ほれ、鼻くそ丸めて黒仁丹
それを飲むのはアンポンタン
私も歌って覚えているが、子供同士で面白い歌として、広がっていったように思う。また、私
は♪「夕べトウちゃんと寝た時に……」とかの猥雑な替え歌としても、学生時代の宴たけなわの時
に歌った記憶がある。
この元歌の5番には♪「軍馬になって往く日には……」という歌詞もあり、これは軍歌だといわ
れた。軍馬についての軍歌はすでに昭和13年に陸軍省で一般募集した「愛馬進軍歌」があった。
久保井信夫作詞、新城正一作曲で、私はこの歌もよく歌った。
♪国を出てから幾月ぞ
共に死ぬ気でこの馬を
攻めて進んだ山や河
取った手綱に血が通う
この替え歌は戦後までも色々と歌われた。
♪関西出てから幾月ぞ
共に出会ってボンクラに
授業はねむーてしょうがない
ハッと気づくとゆかりちゃん
戦時中徴発された軍馬は300萬頭といわれ、敗戦時、外地に残された軍馬の殆どが内地に帰還す
ることが出来なかったとされている。
昭和15年は、皇紀二千六百年奉祝の歌が作られた。
♪金鵄輝く日本の
栄えある光身に受けて
今こそ祝えこの朝(あした)
紀元は二千六百年
あゝ一億の胸は鳴る
この替え歌には色々なものがあった。
♪金鵄上がって十五銭
栄えある光三十銭
はるかに仰ぐ鳳翼は
二十五銭になりました
あゝ一億はみな困る
膨大な軍需支出は際限なく、輸入は抑えられ、統制価格も上げざるを得ないようになった。闇が
横行し国民は、大インフレを予感していた。街のポスターは「贅沢は敵だ!」。私達は次のような
歌を歌っていた。
♪パーマネントに火がついて
みるみるうちに禿頭
禿げた頭に毛が三本
あゝ恥ずかしい 恥ずかしい
パーマネントは止めましょう
この歌の元歌は「皇軍大捷の歌」であった。
♪国を発つ日の万歳に
しびれるほどの感激を
こめてふったもこの腕ぞ
今この腕に長城を超えてはためく日章旗
これは、昭和13年の歌で、上海から南京へ、当初の不拡大方針に反して、戦火が拡大して行く頃
の歌。作詞福田米三郎、作曲堀内敬三で歌われて♪「皇軍大捷萬々歳!」で終わる。
軍歌ではないが、昭和15年に作られ、高峰三枝子が特攻隊を慰問したときなどによく歌ったのが
「湖畔の宿」であった。
♪山の淋しい湖に
一人来たのも悲しい心
胸の痛みに耐えかねて
昨日の夢と焚き捨てる
古い手紙の薄煙り
この替え歌が「たこ八」として歌われた
♪きのう召された タコ八が
弾に撃たれて 名誉の戦死
タコの遺骨は いつ還る
骨が無いから 帰れない
タコのかあちゃん 悲しかろ
戦争末期には、玉砕や船舶の撃沈が相つぎ遺骨の収集など出来なくなった現実がある。
どんな替え歌にも私は、その時の権威に対する人々の自嘲心、反抗心が、どこかに込められてい
るものであると思っている。
(平成22年2月12日)
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宙 平
■■■ Cosmic Harmony
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