From Chuhei
歌曲で感じて知る「昭和」の歴史
―古関裕而の作曲の歌に想う―

歌は世につれ、世は歌につれ、その時代の空気は、その時に作られた歌によって端的 に表わされる。その時代に生きた人々の思い、その時の世の全体の雰囲気まで、歌を 聴くとその響きを身にしみて感じ取ることができる。

今年、6月末から再放送していたNHKの連続テレビ小説「エール」は本放送が、9月 14日から再開された。最終回は11月28日となる予定となっている。このテレビ 小説は、作曲家古関裕而(明治42年~平成元年)の生涯をモデルとしたものである。 福島の呉服屋「喜多三」の長男に生まれ、5歳で父親が買った蓄音機でレコードを聴き、 10歳で卓上ピアノを使い作曲を始めたという音楽少年が、家庭の事情により、福島 商業卒業後、養父の経営する川俣銀行に勤務することになる。ところが、20歳の時、 舞踊組曲「竹取物語」他4曲をイギリスチェスター楽譜出版社募集の作曲コンクール に応募し、2等に入選した。そんなこともあり、翌年日本コロンビア専属作曲家として 上京する。しばらくヒット曲は出せなかったが、22歳の時、早稲田大学応援歌『紺 碧の空』の作曲したことから、注目され始め、作曲した『福島行進曲』のレコードが 発売されるようになり、26歳の時『船頭可愛や』がヒット曲となる。その翌年には 『大阪タイガースの歌(六甲おろし)』を作曲する。

私が生まれたのは昭和6年で、『紺碧の空』が発表された年である。私はこの歌から、 話に聞いていた「早慶戦狂時代」、入場券を求めに神宮球場に徹夜の列ができるなど 応援が過熱し、その対決と劇的結着の野球戦を新国劇でも劇化され上演されるほど、 この時代の早慶戦の熱狂ぶりを知るのである。また『大阪タイガースの歌』からは昭 和9年に野球クラブ東京巨人軍が設立され、続いて昭和10年大阪タイガース。昭和 11年名古屋軍などが相次いで作られ、「日本職業野球連盟」が設立されて、プロ野球 の活動が始まったといわれている、その時代の息吹を感じ取るのである。そして、野球 とは別に、昭和モダンといわれたこの時代の光と影の雰囲気をよく表していたのは、 同じ日本コロンビアで同僚の専属作曲家だった古賀政男作曲の『酒は涙かため息か』 (昭和6年)、『丘を越えて』(昭和6年)、『影を慕いて』(昭和7年)、『二人は若い』 (昭和10年)、などの歌曲ではなかったか、と私は思うのである。

昭和12年、支那事変と呼ばれた、日中戦争が勃発。古関裕而は軍歌を作曲するが、 戦局の推移に従い、彼の作曲する軍歌もその戦局に従って変化していく。NHK連続 テレビ小説「エール」でも再開された9月14日からは、この時代を生きる作曲家 (古関の役名、古山裕一)の姿が放映されている。戦争の勃発に合わせて毎日新聞が 「進軍の歌」の歌詞を公募して、それに入選して新聞に発表された薮内喜一郎の歌詞を、 旅行の帰途、特急列車の中で見た古関裕而は、依頼されていないにもかかわらず、 そこですぐ作曲していた。それを日本コロンビアが『露営の歌』として発売すると、 60万枚という記録的な売り上げ(当時10万枚の売り上げが大ヒットの基準だった) となり、軍歌作曲家として一気に注目を集めるようになる。ヒットする軍歌はその時代 の空気を適格に表現しているもので、その時の国民が自らこぞって歌ったものなのである。 私も幼い頃ながら、「勝ってくるぞと勇ましく、誓って故郷(くに)を出たからは、 手柄たてずに、死なりょうか、進軍ラッパ、聴くたびに、瞼(まぶた)に浮かぶ、 旗の波」歌詞も曲も覚えていて、時を経た今でも直ぐに歌える。この頃の軍歌は軍隊 で作られたものではなく、一般から公募された歌詞をレコード会社の作曲家が作曲 したものが多い。

同じようにラジオの国民歌謡として昭和12年に作られ、昭和13年渡辺はま子の歌で 日本コロンビアからレコード化された『愛国の花』がこの当時の空気の一端を示すもの として、私の記憶に強く残っていて、これも今でもすぐに歌える。銃後を守る婦人の思い を桜、梅、椿などにたとえて歌われた気品の高い曲の響きを、当時から、私は歌うたびに 感じ取っていた。私の姉も良くこの歌を歌っていた。 インドネシアのスカルノ大統領 がこの歌を大変好み、自らインドネシア語の歌詞を作り『ブンガ・サクラ』という タイトルをつけた。昭和36年2月、当時の皇太子明仁親王・美智子夫妻がインドネシア を訪問した時の歓迎行事では、現地の青年たちによりこの歌が歌われた。

ましろき富士の気高さを
心の強い盾として
御国につくす女(おみな)らは
かがやく御代の山ざくら
地に咲き匂う国の花
作詞 福田 正夫
作曲 古関 裕司

昭和13年古関は中支派遣軍報道部の依頼により、従軍音楽部隊として上海、南京 を訪れる。昭和15年には「福島三羽烏」といわれた、古関と幼馴染の福島出身の野 村俊夫が作詞、それを幼友達の福島出身のコロンビア専属歌手伊藤久男が歌った古関 作曲『暁に祈る』が大ヒットする。「ああ あの顔で、あの声で、手柄頼むと妻や子が、 ちぎれる程に、降った旗、遠い雲間に、また浮かぶ」この歌は勇壮な歌ではなく、戦う 兵士の悲壮感が漂う曲調である。と、私は当時から感じていた。映画を目的に作られた この歌は、サブタイトルに「征戦愛馬譜」とあるように、戦場に赴く軍馬と兵士が描 かれていた。当時中国大陸での戦いでは多くの軍馬が徴発されて、兵士と一緒に戦って いたことが、この歌と映画で知ることができる。この頃、『露営の歌』で送り出した 出征兵士の遺骨が、帰ってくることが度々あった。国民学校の同級生の父の遺骨葬送の 列を、私は道に並んで出迎えたことがある。昭和16年12月8日、太平洋戦争開戦、 日本はハワイ真珠湾を攻撃した。この時私はNHKラジオ放送を聞いていたが、 ニユースの合間に流れる歌は、すべて軍歌だった。

昭和17年、古関は南方慰問団派遣員としてシンガポール、ジャワなどで慰問のため、 10月8日、1万㌧級の楽洋丸で出発して、昭和18年、1月19日安芸丸で帰国した。 当時すでに日本から南方方面の海は、アメリカの多くの潜水艦が潜伏していて、魚雷攻撃 を受け、撃沈された日本の船舶は予想を上回って増えつつある状況にあった。何度も敵 潜水艦接近の警報が鳴り、救命胴衣に身を固める全く命がけの旅だったと、同行の徳川 無声が語っている。帰国したその年に古関は作詞の西条八十と土浦の海軍航空隊に一日 入隊して『若鷲の歌』別名『予科練の歌』を作った。私の親しかった従兄(母の姉の三男) が海軍予科練習生に志願して、三保海軍航空隊に入隊した時はこの歌を歌って、 送ったのを覚えている。「若い血潮の予科練の七つボタンは桜に錨……」しばらくして 休暇で帰ってきた時、確かに格好の良い制服には桜と錨の模様のボタンが7つあった。 戦争末期になると航空隊でも乗る飛行機が無くなり、機雷をもって海に潜る特攻の訓練 をやっていたようである。

昭和19年、『ラバウル海軍航空隊』の「銀翼連ねて、南の前線、ゆるがぬ守りの海鷲 たちが……」当時古関作曲の歌を聞いて、私は南太平洋のニユーブリテン島のラバウルに こんな航空隊の基地があることを知った。この基地は終戦の時まで、航空隊主力撤退後も 残存していたようである。この昭和19年4月。古関はインパール作戦の兵士を励ます 歌について軍部からの依頼を受け、特別報道班員として、作家火野葦平や画家の向井順吉 と一緒に飛行機(陸軍の重爆撃機)で台湾、バンコック、ラングーンと飛んでビルマに 向かう。そこで、火野葦平作詞の『ビルマ派遣軍の歌』「詔勅のもと勇躍し、神兵ビルマの 地を衝けば首都ラングーンは忽ちに我手に落ちて……」に、曲をつけた。しかし、インパール 作戦は史上最大の失敗作戦となり、多数の傷病兵を抱え、豪雨、密林の中、飢えと悪病 で苦しみ、多くの犠牲者が出た。サイゴンを経て9月に帰国。この年の11月、ラジオ 報道歌謡として、野村俊夫作詞、古関裕而作曲の『嗚呼 神風特別攻撃隊』「無念の歯噛み、 堪えつつ、待ちに待ちたる決戦ぞ、今こそ敵を屠らんと、奮い起ちたる若櫻」が全国に 流された。特攻攻撃が始まっていたのである。

昭和20年の3月、硫黄島全滅、日本本土空襲も地方都市までに及ぶようになった。3月 15日、古関に召集令状が届く。本名の「勇治」と、作曲家名「裕而」が違うので、事情が 分からない人事局から令状が来たのだった。横須賀海兵団に2等水兵で、入隊し1か月後に 解除された。戦争末期、日本軍の斬りこみ隊活動の古関作曲『特別攻撃隊(斬りこみ隊)』 が歌われた。「命一つとかけがえに、百人千人切ってやる、日本刀と銃剣の、切れ味知れと 敵陣深く、今宵またゆく、斬りこみ隊」私も本土決戦を思って歌ったのを、覚えている。 8月、日本はポッダム宣言を受諾する。

家は焼かれ、未だ戦禍の跡が残る占領下の街に、明るい古関の曲が流れ始めたのは昭和22年 である。『夢淡き東京』(作詞、サトウハチロー)、『白鳥の歌』(作詞、若山牧水)は藤山一郎 が歌った。菊田一夫の作詞の『雨のオランダ坂』『とんがり帽子』『夜更けの街』もこの年の 作品である。そして、昭和23年全国高等学校野球選手権大会30回目の節目に募った大会歌 の最優秀に選ばれた加賀大介の詞に曲をつけたのが『栄冠は君に輝く』だった。私は当時この 歌が甲子園球場から流れるのを聞いたときは、空襲で廃墟のようになっていた甲子園球場を 知っているだけに、感動して涙が流れた。

昭和24年『長崎の鐘』は原爆に被爆した永井隆博士の随筆出版をモチーフに、サトウ ハチローの作詞を作曲し、藤山一郎が歌った。「こよなく晴れた青空を、悲しと思うせつなさよ、 うねりの波の人の世に、はかなく生きる野の花よ、なぐさめはげまし長崎の、ああ長崎の鐘が鳴る」 古関はこの曲に長崎だけでなく、戦争の犠牲になった多くの人の鎮魂の想いをこめた。 戦争中、古関のほかにも軍歌を作った作詞家、作曲家は大勢いた。しかし戦争が終わると、 そういった歌は自分のものではないと葬り去った。しかし、古関は違った。戦地の兵隊さんの 心の支えになればと信じて作った自分の歌を聴きながら、命を失った方々への鎮魂の歌の作曲 することに注力した。他『ひめゆりの塔』(西条八十作詞)なども作曲されている。

昭和39年、敗戦から復活した日本が、遂にアジアで初めてのオリンピックを東京で開催した。 古関作曲の行進曲『オリンピック・マーチ』が10月10日、選手団の入場と共に鳴り響いた。 この時は私も夢中になってテレビに釘付けで、行進に声援を送っていた。

昭和の時代が64年で終わり平成元年となった年、古関裕而は80年の生涯を終えた。 戦争の時代といわれた「昭和」の人々の気持ちに寄り添い、励まし高める作曲を作り続けた生涯 だった。その作曲した時の古関の想いは、作品の背景を現し、それが時代の背景となって、 「昭和」を生きてきた私には、昭和の歴史の響きとして強く懐かしく伝わるのである。古関裕而 の年代順の作曲作品の一覧は正に歌曲で感じて知る「昭和」の歴史そのものではないか、 と私はしみじみと思うのである。

(令和2年9月26日)

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宙 平
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