From Chuhei
 
『KANO』は昭和6年、台湾嘉義農林が日本人監督の下、甲子園に出場し
準優勝した、事実に基づく台湾映画です。
 
 
 

映画『KANO〜1931

 海の向こうの甲子園〜』

 

 

 

甲子園球場へ歩いて20分位のところに住んでいた子供の頃の私は、昭和10年台前半の、

全国中等学校優勝野球選手権大会によく出場している学校の名前を自然に覚えていた。中京

商・平安中・松山商・海草中・岐阜商、そんな中に当時海の向こうからも、勝ち抜いて地域

の代表になり参加する学校もあった。満州からは大連商・奉天商、朝鮮からは仁川商・平

壌一中・新義州商、台湾からは嘉義中・台北一中、そして、嘉義農林などであった。

 

私は戦時中の昭和20年に、この台湾嘉義農林野球部で活躍した?昌征さんと会ったこと

があった。彼は近藤兵太郎監督の下、甲子園の中等学校野球大会では、春1回、夏3回出場

していた。巨人に入り、俊足強肩の外野手として「人間機関車」と呼ばれる活躍をしていた。

そして阪神に移り、昭和19年には20試合で19盗塁を記録し盗塁王と呼ばれるようにな

った。

 

昭和20年、職業野球は中止となり、彼は阪神電鉄の農園で、他の残っている選手ととも

に農作業をしていた。私は阪神電車への勤労動員で農作業のとき、欠席者が出たため余った

支給の弁当を「食べてください」と彼のところに持っていった。「あっ! そうですか」と

彼は喜んで、ご飯の殆どない炊いた大豆の弁当をうまそうに食べた。

 

戦争が終わり彼は阪神で、あの有名だったダイナマイト打線の1番バッターとして大活躍

を始め、時には二刀流でノーヒット・ノーランの投手もやってのけた。平成7年に野球の殿

堂入りとなっている。映画『KANO』で、彼は嘉義農林野球に憧れ、練習場に出入りする

ことを近藤監督に認められて、元気に選手の手助けをする少年?波として出てくる。

 

この、映画『KANO』は、試合に一度も勝ったことのない嘉農と呼ばれていた嘉義農林

野球部を、着任した近藤監督が厳しく鍛え上げて、昭和6年第17回中等学校優勝野球選手

権台湾地区大会で優勝し、甲子園に出場し、全国で準優勝するという映画である。

 

事実に基づき作られたこの台湾制作の映画は、昨年2月に台湾で公開されると大変な人気

となり、魏徳聖プロデューサーや、馬志翔監督には、企業や学校からの講演依頼が殺到した

という。台湾映画史上初となるアンコール公開が決定された。そして台湾最高の映画賞「金

馬奨」で、最優秀映画賞など6部門にノミネートされている。日本での公開上映は今年の1

月24日からであった。が、私は見たいと思いながら、日を過ごしてしまい、ようやく3月

6日、梅田ブログ7で見ることが出来た。3時間5分の長い映画だった。

 

「今日から俺がお前たちの監督になる。俺がお前たちを甲子園に連れてゆく」近藤監督は

「走れ!」と命令し、野球部員は「甲子園!」「甲子園!」と号令をかけながら、走り出す。

ライバルの嘉義中学の野球部員たちは、今まで勝ったことのない嘉農が甲子園など行ける筈

がないと冷やかしている。

 

そして練習前、「待て! 球場は神聖な場所だ。入る前に一礼して感謝しなさい」。台湾

映画ではあるが、当時の日本人野球監督の言葉をよく研究して映像に表現している。近藤監

督役は永瀬正敏で日本人としては初の主演男優賞にノミネートされている。

 

「蛮人は足が速い、漢人は打撃が強い、日本人は守備にたけている。こんな理想的なチーム

はどこにもない」当時は先住民であるアミ族、パイワン族などのことを蛮人と呼んでいた。

また高砂族と総称していた時期もあった。

  

嘉農野球部は先住民、漢人、日本人との三民族混成チームであった。「混成チームで勝て

るのかね?」という質問に答えての近藤監督の言葉であった。嘉義のグランドの土は雨が降

るとぬかるんで泥になる。地元チームとは泥だらけになって試合をしながら勝つことが出来

るようになっていった。

 

そして大会に参加し、ピッチャーの?明捷(アキラと呼ばれていた)は台中一中をノーヒ

ット、ノーランで破った。その後、嘉農は台南二中、台南一中と勝ち進み、決勝では遂に台

北商業を延長10回の末破る。今まで台湾北部勢が独占していた優勝旗が初めて台湾中南部

に渡り、快挙と讃えられ、嘉義の町全体は歓喜の渦に包まれた。

 

映画では丁度その時、台湾平野部の農民全体が待望していた大規模なプロジェクト嘉南大?

(かなんたいしゅうと言われ、鳥山頭ダムと大規模水利灌漑施設から成る)が、完成した喜び

と重ねて、表現していた。そして、このプロジェクトは台湾総督府の日本人技師、八田与一が

永年にわたり全精魂を傾けた大土木工事であった。

 

基隆から高千穂丸に乗って、遂に甲子園に出場した嘉義農林の最初の対戦相手は神奈川商工

だった。3対0の完封試合で勝ち、甲子園の観客や報道陣の注目が高まる。

 

次の試合相手、札幌商業のエースピッチャーの錠者は嘉農の呉の球筋や、選手たちの力に激

しく動揺する。試合は19対7、錠者は茫然自失となり、マウンドを降りてしまう。後日譚と

して、13年後錠者は陸軍大尉となり、軍務の列車が嘉義での待機時間を確認すると、かつて

の相手嘉農の練習場を訪れる。戦争末期で誰も練習していない。彼は懐かしげにマウンドを駆

ける。と、いう場面が映画では出てくる。

 

そして、甲子園の準決勝は対小倉工業戦、これを10対2で圧勝すると、嘉農の野球は本土

の野球フアンをも魅了し、応援する人数も増え、決勝戦では観衆が詰めかけ超満員となる。決

勝の相手は名門中の名門といわれていた中京商業であった。

 

当初、「日本人の子供は手を挙げて? 他の子は日本語を理解できるのか、日本語を?」

などと質問し、近藤監督から「民族の違いなど関係ない。みんな同じ球児だ!」と反論されて

いた新聞スポーツ記者も、ここまで来ると、すっかり嘉農野球の理解者になっていた。

 

地元嘉義だけでなく、台湾全土でも殆どの人々が固唾を呑んで、ラジオ放送に集中する中、

決勝戦が始まる。しかし、ピッチャー?の指は限界を超えていた。出血した指を見て、監督は

一旦交代を命じるが、チームメイトの「最後まで投げさせてやってほしい」との声に続投させ

る。が、フォアボールの連発から得点が入ってしまう。「俺たちが守るから、打たせろ!」と

他の選手が叫び、ベンチからは応援歌を絶唱する。だが結局、中京商の吉田正男に完封に抑え

られ、3対0で破れ、準優勝となった。

 

しかしながら、嘉農の最後まで戦い続ける奮闘ぶりは、日本と台湾の人々に強い印象を残し

た。残ってスタンドにいた札幌商業の錠者はその時、健闘を称えて「天下の嘉農!」と絶叫す

る。その声はどんどんと大きくなり、やがて甲子園球場全体から響き渡ったのであった。

 

この映画は全て台湾で作られた。甲子園球場も、当時の姿そのままに台湾高雄の工場用地に

大がかりなセットが作られた。甲子園の黒い土が現地では調達できず、古いタイヤを刻んで砂

と混ぜて作られた。また選手として出演する俳優たちも実際に野球選手経験のある約1000

人の中から13人が選ばれた。制作費も台湾映画としては破格の7億円をかけたと言われいる。

 

かつて台湾から民族の違いを超えて甲子園出場に情熱を燃やし、一体となって準決勝まで戦

い抜いた中等学校生たちがいて、そしてその事実が今、台湾の映画として台湾で作られ、大変

な人気を博していることは、私にとって本当に嬉しい驚きであった。この昭和6年は私の生ま

れた年であり、昔の出場校名から感じていた甲子園の野球大会の雰囲気を、この映画が呼び醒

ましてくれたからでもあろう。

 

この映画の魏徳聖プロデューサーは、昭和5年に起きた先住民による反日蜂起「霧社事件」

を映画化した『セデック・バレ』(昭和25年日本一般公開)の監督をしていた。日本人140

人が殺害され、日本軍、警察、親日先住民が動員され、700人の先住民が死亡して制圧された

という事件だった。その時、当時の資料調査中に嘉農の甲子園出場の事実を知った。今年1月3

0日、NHKニュース9の取材でこう語っている。

 

「当時『KANO』で描いた事実があったことは奇跡だ、と思いました。違う民族が一つの目

標に向けて努力し協力し合って、偉業を成し遂げたことは台湾と日本の誇りです。 歴史には良

い面ばかりで、悪い面がないということはありえません。ただ歴史を知れば、相手といい関係を

築くことも出来るのです」

 

                      (平成27年3月21日)

 

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宙 平

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